大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変わりはない。それは誰もがいっこうに怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正がしいたげられるという・ありきたりの事実についてである。

 この事実にぶつかるごとに、は心からの悲憤を発しないではいられない。なぜだ? 何故そうなのだ? 悪は一時栄えても結局はそのむくいを受けると人はいう。なるほどそういう例もあるかもしれぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終わるという一般的な場合の一例なのではないか。善人がきゆうきよくの勝利を得たなどというためしは、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえない。何故だ? 何故だ? 大きな子供・子路にとって、こればかりはいくら憤慨しても憤慨し足りないのだ。彼はだんを踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかはひつきよう人間の間だけの仮のとりきめにすぎないのか? 子路がこの問題でこうのところへ聞きに行くと、いつも決まって、人間の幸福というものの真のあり方について説き聞かせられるだけだ。善をなすことの報いは、では結局、善をなしたという満足のほかにはないのか? 師の前では一応なつとくしたような気になるのだが、さて退いてひとりになって考えてみると、やはりどうしても釈然としないところが残る。そんな無理に解釈してみたあげくの幸福なんかでは承知できない。誰が見ても文句のない・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしてもおもしろくないのである。

 天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、何故こうした不遇に甘んじなければならぬのか。家庭的にも恵まれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。一夜、「ほうちよういたらず。を出さず。んぬるかな。」とひとりごとに孔子がつぶやくのを聞いたとき、子路は思わず涙があふれてくるのを禁じえなかった。孔子が嘆じたのは天下そうせいのためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。

 この人と、この人をつ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決まっている。じよくのあらゆる侵害からこの人を守るたてとなること。精神的には導かれ守られる代わりに、世俗的なはんろうじよくをいっさいおのが身に引受けること。せんえつながらこれが自分の務めだと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかもしれぬ。しかし、いつたん事ある場合まっ先にふうのために生命をなげうって顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。

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