弟子

中島敦/カクヨム近代文学館

 べんゆうきようの徒、ちゆうゆうあざなという者が、近ごろけんじやうわさも高いがくしようすうひとこうきゆうはずかしめてくれようものと思い立った。似而非えせ賢者何ほどのことやあらんと、ほうとうとつびんすいかんたんこうの衣という服装いでたちで、左手におんどり、右手におすぶたを引っさげ、勢い猛に、孔丘が家をして出かける。鶏をすり豚を奮い、かまびすしいしんぷんの音をもって、じゆげんこうしようの声をみだそうというのである。

 けたたましい動物の叫びとともに眼をいからしてび込んで来た青年と、えんかんこうゆるけつを帯びてった温顔のこうとの間に、問答が始まる。

 「なんじ、何をか好む?」と孔子が聞く。

 「われ、長剣を好む。」と青年はこうぜんとして言い放つ。

 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、あまりに満々たるを見たからである。血色のいい・まゆの太い・眼のはっきりした、見るからにせいかんそうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現われているように思われる。ふたたび孔子が聞く。

 「学はすなわ如何いかん?」

 「学、あに、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢い込んでどなるように答える。

 学の権威についてうんぬんされてはってばかりもいられない。孔子はじゆんじゆんとして学の必要を説き始める。人君にしてかんしんがなければ正を失い、士にして教友がなければ聴を失う。樹もじようを受けてはじめてなおくなるのではないか。馬にむちが、弓にけいが必要なように、人にも、そのほうな性情をめる教学が、どうして必要でなかろうぞ。ただおさみがいて、はじめては有用の材となるのだ。

 後世に残された語録のづらなどからはとうてい想像もできぬ・きわめて説得的な弁舌を、孔子はっていた。言葉の内容ばかりでなく、その穏やかな音声・抑揚の中にも、それを語る時のきわめて確信にみちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。青年の態度からはしだいに反抗の色が消えて、ようやくきんちようのようすに変わってくる。

 「しかし」と、それでも子路はなお逆襲する気力を失わない。なんざんの竹はめずして自らなおく、ってこれを用うればさいかくの厚きをも通すと聞いている。してみれば、天性すぐれたる者にとって、なんの学ぶ必要があろうか?

 孔子にとって、こんな幼稚なを打破るほどたやすいことはない。なんじのいうその南山の竹に矢の羽をつけやじりをつけてこれをみがいたならば、たださいかくを通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮した。顔をあからめ、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何か考えているようすだったが、急に鶏と豚とをほうり出し、頭をたれて、「つつしんでおしえを受けん。」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子のすがたを見、その最初の一言を聞いた時、ただちに鶏豚の場違いであることを感じ、おのれとあまりにもけんぜつした相手の大きさに圧倒されていたのである。

 即日、子路は師弟の礼をって孔子の門に入った。

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