第22話 鬼神に横道なし






 いつもの角を曲がったところで、ふいと眼前を行く女が振り向いた。



 緑のコートをまとったその女は、じっと此方こちらいぶかし気な眼差まなざしを投げ続ける。しかし、いっかな視線がからむ事はない。それはそうだろう。今の藤堂とうどうは姿を消しているのだから。

 気配を察知はすれども、視野には収まらない、という事だ。


 藤堂は、にいと口の端を笑みに歪めた。


 緑のコートの女とは、つまりリンドウの事だ。長く中空の一点を見つめていたが、結局、違和の正体(姿を消した藤堂)を見極められなかったらしい。諦めの吐息をひとつもらすと、きびすを返し、目的の場へと歩みを進めた。

 このまま、あの喫茶店へ向かうのだろう。

 姿を見とめられずに済んだ藤堂とうどうは、そのままリンドウの後について行った。


 二、三歩遅れてその背を追う。かつかつとかかとを鳴らして進む女の背は、薄く狭い。その歩幅は広い。


 藤堂はぼんやりと懐手にしたまま、女の背を見つめる。リンドウは珍しく一本簪で髪をまとめていた。白いうなじに、細い糸のような遅れ毛がからんでいる。そっと指を伸ばす。指先でからめとるように触れる。しかし、今は実体を持つものに触れられなくしている。さらりと風が触れたような痕跡しか、リンドウの感触には残らない。しかし、何かを敏感に感じ取ったのだろう。はっと手を己のうなじにやりながら、再び振り返るリンドウの顔には、わずかながらの緊張が走っている。

 藤堂は、くつくつと喉の奥で笑った。それでもリンドウは藤堂に気付きはしない。

 こんな光景を、これまで何度繰り返してきたことだろうか。



 藤堂とうどうは鬼である。

 かつては人であったが、その生を終えた後に地偉智ぢいちとなった。以来、土地守のような事をして存在している。

 前世では近江おうみの地にて土豪どごうとして生を受けた。祖を辿れば公家くげざむらいである。幼少時よりよく食い、人並外れた体躯たいくに恵まれ、やはり侍を志した。若い頃は血気にはやり、成果を挙げんと一番いちばんやりを身上とした。働きはよかった。しかしどうにも頭に血が昇りやすい。度々たびたび身内ともいさかいを起こしては、これを文字通り切り捨て逃走した。現代で言うところの脳筋というものか。しくじりを繰り返し、折角のろくも泣く泣く手放す事になり、若き藤堂は流浪の身となった。


 日々の食うに困り、土木の労に携わった。その折に、石一つ詰むにしても考えがいると実地で学んだ。これが脳の血の巡りの良すぎるところの使い道となった。そもそもの地頭の良いのが、ここでようやく日の目を見たのである。藤堂の恵まれていたのは体躯だけではなかった。

 このまま本身を伏せて生きるものかと思われたが、拾う神はあるものである。藤堂の噂を聞きつけ、かつての働きを評価し迎え入れようという懐の深い主君が現れた。しかも破格の碌であった。

 こうして藤堂は幾度いくどか主君を変えつつこの国の各地に城を築いて治めた。最後は東照神君に仕えた。異例の出世と言っていい生だったろう。しかし、人であったころの事はすでに遠い話である。時折ふと思い起こす程度のものだ。

 藤堂はすでに鬼だ。鬼神というのが最も正しかろう。

 今なお人であった時分の己に拘泥するのは恐らく正しくない。未練がましい所作は、地偉智ぢいちの地位には相応しからぬのである。


 鬼神に横道おうどうなし。

 先般樹精の姫の御魂と合一して、その身分しんぶんを返上した伏見ふしみののようには、己はならぬだろうと、それだけだ。


 目の前を歩く女が、少し寒そうに肩をつぼめる。

 それを見て、藤堂は愉快そうにその眼を細めた。

 藤堂は、この女の前でだけ、少し幼稚になる。

 人であったころの感性は大方洗ったつもりでいるが、事この女に関しては別だ。


 制御の効かぬ心身にたけっていた頃の記憶が藤堂を動かす。

 あの頃の記憶が、この女の情動を今一度揺らしたいと、そう願う。

 つまりこれは、洗い切れなかった執着なのだろう。


 リンドウと藤堂がまだらとその鬼として出会ったのは、まだ彼女が辛うじて少女と呼べる頃のことだ。冬空のもと、深草墓苑。父親の墓参りに訪れた彼女が纏っていたのは、高校の制服。白地に茶襟のセーラー服で、雪混じる風がやはり茶のプリーツスカートをゆらした。そんな頃から、リンドウは淡い侮蔑交じりの表情を浮かべて藤堂を見据えていた。

 だから、藤堂はにぃ、と鬼神らしく笑って見せた。

 藤堂を見た少女のリンドウは何の反応も示さず、ただただ厭そうにしていた。そのひとみの奥に、藤堂の面影はない事は明らかだった。

 だから時間をかけた。

 藤堂は、積み重ねる事が得意だった。

 飄々ひょうひょう訥々とつとつとしたこの女が、少しずつこちらに心を開いてゆくのはこころよかった。嬉しかった。間違いのないものが再びこの手に取り戻せたと、そう確信した。心はすでに触れていた。その筈だった。



 だのに。

 あの雪の日、リンドウは、藤堂の求婚を拒絶したのだ。

 今にも泣きそうな顔で。



 何故リンドウが己を拒絶したのか、藤堂には分からなかった。その間際までは確かに今生を共にしようという意志を確認しあっていたはずなのだ。唐突なリンドウの心変わりに、藤堂は混乱した。混乱は怒りとなって発露する目前だった。

 だから二年離れた。あまりの己の激情に、藤堂自身がリンドウの身の安全を危ぶんだからだ。二年待って、少し落ち着いた今、こじれた心を少しずつ結び直している。少なくとも、藤堂はそういうつもりだ。



 藤堂は内心溜息をく。

 全く難儀な女だ。

 この女も、すでにヒトではない。

 否、人でありながら、ヒトではないものである。

 だというのに、この女は、ヒトの中に居る時は、ヒトであろうとしている。

 無駄に足掻あがく。

 そんな様子は、少しばかり痛ましく、しかし無様で面白く、そしてきっと――愛おしかった。その不器用さが好ましかった。

 藤堂が鬼となってから、ようやく自身の義に沿い曲がらず、甘んじて自由を許容できるようになったのとは逆に、この女は流行りの主義主張に沿うようなフリをすることで、ヒトに擬態しているのだ。


 それは、己がヒトでないことを熟知しているが故だろう。

 己とは間逆の在り様である。


 人であったころは、人であるにも関わらず、流行りの主義主張に沿っていた。命を賭する立場であったから、今のヒトのように我の門を閉ざす思考では正気は保てぬ。只管しかん打坐たざ頓悟とんごできたかといえばそうではないが、少なくとも人ではいられた。

 皮肉なことに、藤堂は人であるために坐る必要があったのだ。


 いつの間にやら、二人は例の喫茶店の前に至っていた。

 ちゃらん、と鐘を鳴らして女は店の中に消える。


 扉の向こうに、女の笑みが見える。その眼差しが向けられている男の顔を見る。笑んでいた男が、ふと、店の外へ――藤堂の方へ視線を向けた。その刹那だけ、男の目は白刃の如く、光った。

 皮肉なことに、ヒトでない女の目からは己の姿を隠せるが、このヒトの男は己の所在を見破る。ヒトであるのに、見破る。


 男、久我。

 ――そう、確か久我くが たもつ、といったか。

 

 藤堂は、にやりと笑んで、その場を後にした。

 奴は、きっと藤堂のことを睨んでいるだろう。女の目には映らぬようにして、後をつけていたことを見抜き、歯噛みして嫌悪していることだろう。

 愉快だった。

 少しだけ、ヒトのようなフリをして歩いてみる。

 なんのことはない。酔狂である。

 京の道にはそこかしこに、人であった時代の残滓がほろほろと落ちている。

 仕方がない。時代時代に人の主義主張は変わり、仕組みは変わり、外に流され、流された仕組みは忌避すべきものとなって嫌悪される。新たな主義主張をえらいものだと思いたいヒトの心がそうする。次を受け入れるには、前を否定しなければ立ち行かぬのがヒトの世の常らしい。

 しかし、ここは京である。

 いわば、捨て行かれた偉大な仕組みだ。

 今のヒトの世の、主たるいしずえではない。

 人に好まれ利用され、飽きた揚句にきられて、市街の片隅の掃き溜めに追いやられた仕組み共は、なまじ四神相応の土地であったばかりに、山も川も越えられずに塞き止められる。池は、埋まって凝ったか。

 そして、そういった掃き溜めのよく分からぬものを愛する性分があるヒトもいる。そういったヒトどもが、掃き溜めから使い古しの仕組みを掬いあげて、ほこりを落として、形と名を与えてハコの中に整理してしまい込むのだ。溜め込むのである。

 それらが、ひょいと抜け出して京の道を闊歩するのだ。

 藤堂と似たようなモノとは、先からよくすれ違っている。ただ、時代も、かつて所属していた仕組みも異なるから、うまく認識できない。ただそれだけだ。



 女――それは、ヒトでないモノ共に、マダラのリンドウと呼ばれている。



 マダラのリンドウという女。額の赤光で魂寄せし、自由自在に肉から抜いては別の肉へと運び入れる。そして、マダラのリンドウが産むモノは、神か鬼かの脅威となろう。――選ぶ男で全てが決まる。

 リンドウの名がささやかれるようになったのは、つい最近のことである。

 それほど――伏せられてきたのだ。




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