第7話 月夜の珊瑚


    *


 ざわりと、木々がざわめいた。

 リンドウは絶句したまま立ち上がる。松前まつまえが不思議そうな顔で携帯電話を下ろしかける。次の瞬間、強烈な硫黄の臭いが吹き付けた。リンドウはハッとして口元をおおう。



(これで粗方の因縁については思い至っただろう、マダラの)



 低い深い声が近くでささやいた。見れば、気を失った松前を抱きかかえた藤堂がそこにいる。リンドウの、正に目の前に。

 信じられないものを目にした時、人はどうしても硬直するものだ。

 仮にも――ここは天神社の敷地内である。その中に足を踏み入れ、正気を保っていられる鬼など存在するはずがない。していいわけがない。

 なのに、この男はそれをやってのけるのだ。にい、と人を食ったような笑みをその頬に貼り付けて。

 ひやりと背中を走った怖気おぞけを見て見ぬふりで、リンドウは一つ息を吸い、そして吐いた。

「――ねぇ藤堂。この松前が持っているのが、片割れの下駄なの?」

(そうよ。元はこれの死んだ師が持っていた)

 にっと、艶やかにすら映る笑みを浮かべて藤堂は小首を傾げた。ただでさえ人並外れた長身が目の前で見下ろすから、その威圧感は他に例えようがない。リンドウは苦虫を嚙みつぶしたような思いで藤堂を睨む。それを受けて――藤堂はさらに嬉しそうに笑った。

(どうした? 儂がこうして親切にも真相に導いてやったと言うに、まだ何か不服か?)

 リンドウは更に眉を顰めて、瞼を閉じた。

「――そこまで聞ければ十分。筋は読めたわよ」

 にい、と藤堂は笑みを浮かべた。

(それで、如何いかに?)

「その師の魂は?」

(それ。すでにそこにおるぞ)

 藤堂が白い指を指す。その指し示す先へリンドウは素直に視線をやる。

 鬼どもの群れの中、確かに白く輝く男がいる。老いて乾いてはいるが、若いころは松前とよく似たすっきりとした美形だったろうことを忍ばせた。

(儂が手引いてやっても良かったのだがな)

 思いも寄らない言葉に、リンドウは思わず怪訝な表情を浮かべる。

「じゃあなんでやらなかったのよ」

 藤堂は、微笑を浮かべていたのを――解いた。

 真っ直ぐな真顔でリンドウを見下ろす。その瞳の奥で煌めく炎に、リンドウの胸は――かっと熱くざわめいた。これは駄目だ、これは――



(――そんな事まで言葉で説明せねばならぬほど、お主は唐変木だったか?)



 しくじった。藪蛇だ。

 思わず視線を泳がせるリンドウに、ややあってから藤堂は溜息交じりの笑いを零した。

(なに、せめてもの良心だ。あの師とやらの魂を寄せる肉なら、これが最適だろうよ。――思って、お主をここに手繰った)

 ぬかりのない鬼だ。こんな時にまでリンドウを泳がせ逃がしてくれる言い訳と抜け道を用意してくれている。

 その余裕が、苦しい。

 藤堂の掌の内にいると知りながら、どうしようもなく抵抗し、藻掻き続けるリンドウを、ずっと待ち続け、そして赦してくれる。


 その度量が、痛かった。


(マダラの。行くか?)

 藤堂の問いに、リンドウは瞬き一つで気を取り直してから首肯する。

「そうね。――だけど、結末に責任は持たないわよ?」

(招致の時よりそれは是だ)

 藤堂の声を聞くが早いか、リンドウの額が、赤く、赤く、赤く、一際強烈に赤く染まった。


    *


 月が白い。

 白いシノノメの頬から青い涙が落ちる。

 サルスベリの枝から月を見る。

 ながく永くこの崇廣堂の庭にいたが、シノノメは、もう頃合いだと思っている。もう、これ以上、この地に留まる理由はない。

 着物は緋。髪は茜。唇は椿。爪は薔薇水晶。そして素足に珊瑚の下駄。

 土地から土地を渡り、ヒトに混じって日々をおもしろく過ごしたが、ここにきて、彼と出会った。

 天神の祭りの日、巫山戯ふざけて崇廣堂に潜り込み、このサルスベリの下で、彼と出会ったのだ。


 ヒトだった。

 

 シノノメほどになれば、ヒトの前に姿を出すも出さぬも己の自由。その時には、見えるようにしていた。だから見られた。

 魂がつかまったことを、その刹那、相互に知る。

 シノノメは、下駄を片方脱ぎ、男に与えた。形のないものに形を与え、それを保ち続けるのは難しい。月日が流れれば小さく縮むであろうし、そちらに力を裂けば、シノノメ自身の姿をヒトの前に現すことはできなくなる。

 

 それでも、シノノメは男とのよすがを求めた。

 繋がることを求めた。

 

 シノノメは、サルスベリに宿ることで身を保たせ、片方残した下駄を心の支えとした。

 下駄の片割れは、男と共にったろう。そして、シノノメ自身も間もなく儚くなれるはずだ。

 月が美しいから、旅立つならこの夜がいい。

 そう思った刹那だった。


 ヒトのいないはずの崇廣堂に、足音がした。

 サルスベリからは講堂の中が見渡せる。広く美しく、ひやりと冷える講堂だ。そこに、ぼうと浮かぶヒトの姿。



「シノノメ」



 呼ばう声に、シノノメは言葉を失う。

 

 彼だ。

 わたしの愛しいあの人だ。

 

 その手に、あの下駄を持っている。

(主様……)

「シノノメ。降りておいで、シノノメ」

 シノノメは、差しのべられた手に、そっと白い手を伸ばした。ふわりと舞い降りるしなやかな肢体。腕に抱きとめられる刹那、ほとりと涙が男の袖に落ちた。

(主様、主様は、先に寿命を全うされたはず……)

「ああ。今夜は甥に身体を借りた。お前に、この下駄を返さねばと思っていたから」

 シノノメは赤い眼を大きく見開く。

(何故です、主様。これは主様に差し上げたもの。わたしと主様を繋ぐ、ただ一つのモノではありませぬか)

「シノノメ。これを返せば、お前はまだ生きられる。お前がその存在を終わらせてしまえば、このサルスベリが儚くなってしまうだろう」

(――お気づきでしたか)

 男は、小さく頷いた。その手にシノノメを抱き寄せて。

「私がこれを受け取ることで、お前の力が弱まることぐらい想像がついた。それでも返せなかった。ただ一つの愛しい存在だったからだ。弱まったお前の存在を保つためには、このサルスベリと混じるしかなく、それがこれほど長く続いたために、もうお前とこのサルスベリは同じものとなっているだろう」

 男は、シノノメの髪をなでながら、ふっと笑った。

「しかし、私の命も終わった。次の命に流れなくてはならない。しかし、この崇廣堂からサルスベリを奪っては申し訳がたたない。――私に良心がある限り、お前に、一緒に逝けとは言えないのだよ。今しばらく、ここで崇廣堂を見守っていておくれ」

 シノノメは、黙ったまま男を見上げる。松前に肉を借りた、その伯父の魂を。

 さらさらと風が吹く。サルスベリの枝で、赤い花が揺れる。

 着物は緋。髪は茜。唇は椿。爪は薔薇水晶。

 白い頬に、やわらかく美しい微笑が浮かぶ。月の光に照らされて、二つの影が揺れる。

 シノノメの姿が、ヒトの目に映るものとなる。その素足には、対の珊瑚の下駄があった。

 そして、一つの影が崩れ落ちた。

 松前の肉と、師の魂とが別れ、空に師の魂は融けた。

 シノノメの頬に、やわらかな笑みが浮かび、その頬から最後の雫が零れ落ちた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る