第139話 なら一晩共に過ごしますか?
ノイスとブリアンが帰った後にジーナはひたすらに字を書き綴っていた。
こうしているほうが良いなと思えば思うほどにジーナの手は早く確実に動いていく。
手が止まると、いらぬ考えが頭の中で甦り叫びだし反響する。
みんながみんなお前とハイネを……
声を黙らせるためにジーナは言葉を復唱しつつ手を同時に動かしていく。
とりつかれているものの如く、逃げ出しているものが如く、もがいているものが如く、だが結局のところ自分は
「一歩も遠くには行っていないのでないだろうか?」
そう言葉を口にするとジーナの手が止まった。
会いたくもなく話したくもなく、触れたくもなく見たくもなく、考えたくもなく思いたくもない、私たちの関係は疑いもなくこれであるというのに、自分がいましていることは、思い書き考え思う、という心の確かな歩みであり、その足の方向は向うへ、最も離れたいと思った場所へと行く。
抵抗すらなく考えようによってはあの頃のよりもずっと近づいているのではないのか?
現にこのように、とジーナは繰り返し綴る文章を読み返す。
「日に日に陽射しの光の量が増え私は眩しさの中にいますけれども」
ジーナはその続きを付け足さずにはいられなかった。
「その光に私は美しさをいつも覚えてしまいます」と。伝えたいことは自分の言葉でありあの人にだけにしか伝えないこと。同時にジーナは感じてしまう。このことを伝えることの意識の高揚と歓びを。
そのうえで想像してしまう、あの人もこの心ではないのかと?
そうであるのならたとえいくら肉体的に遠ざかろうと逆なのでは?
むしろこのままでは……ジーナは手を止めて引き出しの中の奥の奥にしまい込んでいる手紙の束を取りだし、一番上のものを手で手を払ってから広げた。
何が書いてあるのかは知っている上に諳んじるほどであるのに、またその文章を目に入れるために開く、その西の文字を、故郷の字を、あの人の手によって書かれたそれを。
「こちらは完全に雪に閉ざされているいつものソグの山だ。寒いし気が重くなって仕方がない。こんなのであるのだから、早くそちらに行きたいものだ」
こちらに来たいというのは雪のせいだ、とジーナは口に出して言う。
読むたびにそう言う。初めて読んだ時もそう言った。ハイネにだってきちんと言った。
雪のせいでこう言っているのだと……なんでこんなに言い訳じみたことを私が言わなければならない?
いまもそう、これが言いたがために読み返したように。
それとも、とジーナは今一度文面に目を落しながら意識を一つ深みに落とす。
そう言いきかすのはまだ納得していないではないのか、と。それは自分自身がそのことを……
耳の奥底が階段の一段目を踏む音を、拾った。
一際無に近い静寂なためかそれとも感覚が研ぎ澄まされていたためか、すぐにそれが何であるのかが分かり、ジーナは手紙を丁寧に手早く畳み引き出しの中へと戻した。
私はやましいことなどしていない、とまた誰に対してか不明な言い訳をしながら勉強の続きをはじめ階段を昇る足音に耳を傾けていた。
その足音のリズムは特徴的なものであり、絶対に他人であるという可能性は有り得ないというものであった。
そんなことはいつも聞くジーナにしか分からないことだが、それは踊りのように始まり足の運びはそのまま舞踏のリズムに近く、軽快に飛跳ねながら階段を駆け昇って来て、踊り場で文字通り踊るようにステップを踏む。
なにかの練習なのだろうかとジーナはいつもその音を聞きながら思い、それから徐々にこちらに近づいてくるにしたがって飛んだり跳ねたり踊ったりはしなくなりつつあり、静かに抑制的にか進みを徐々に遅くしつつあることは音で丸分かりであった。
だからジーナはこう思う、ここに来るのが憂鬱なのだろうな、と。
あの階段の登り方はそのまま精神の動きを現しているのだと。ジーナはそう判断してはいるものの、たとえあちらがそうだとしても、この足音が嫌いではなかった。
それはこの塔で唯一の音楽であるといえ、だいたいいつも規則正しく石段を鍵盤にした楽器の如く躍動から沈鬱へと表情を変え音が奏でられていた。
だがそのことをジーナは本人に直接には伝えたことは無かった。
口にしてもしも変わってしまったとしたら、少しでも変えてしまったらこの規律正しく秩序だった音が聞こえなくなる。
それを避けたいことと、それと使うことは無い秘密を握っている気分もした。時々小さな歌もここに届いてくる。
武官学校の校歌か何かは聞けないことから分からないものの、この曲も歌声も気持ちの良いものであるからできる限りの間は聞きたいと。
これは自分にしか分からないことであるとジーナはある種の恍惚のなかにいる。
この机と椅子の位置でないと聞こえず、ハイネはハイネでこの部屋にいる限りは自分のあの行為が筒抜けだということに永遠に気が付かない。
たとえ自分を否定しているであろう動きであってもそれは魂の正直さの現れであり、真実の美しさがそこにあるとジーナには感じられた。
そのままジーナはハイネの足音が大人しくなっていくのに耳を澄ませていた。
そろそろ歩調を完全に整わせ、こちらの扉に向かって歩いてくる音がよく聞こえてきた。ハイネはきっと自分の音がここまで聞かれているとは思ってはいまい。
まさかこの私がこんなに注意深く耳による観察をしているとは想像すらしていないだろう、ジーナは心中で思いながら今日初めて一つのことを思った。
他のものの足音や気配などこの塔にいるときは感じるというか聞くなんてありえないのに、どうして彼女のだけはこういつものように完全に聞こうとするのか? 苦労を持ってくるものへの警戒心か、と結論付けるもそれは自分の心に置くには座りが悪すぎるもとりあえず置き、扉に注意を傾ける。
ハイネは扉を開ける前に妙な間を置く。一呼吸に二呼吸とリラックスをさせるためにか、なんのために?
ジーナはその度に思いその度に同じことを思う。私のせいだろうが、と。
扉がノーモーションで開き出す。不作法であるのは分かっているはずなのにハイネはノックをせずに入って来る。
まるで自分の部屋の如くに我が物顔に図々しく。それは囚人の牢屋を見回りに来る看守な気分かはともかく、遠慮なく扉を開けて足を踏み入れるハイネの表情はいつも同じで笑っていないのに物凄く嬉しそうなのである。
そこにジーナはこの女の内心面の混沌を感じずにはいられずにいられなかったが、今日は先客たちによる変なハイネトークのおかげか、その表情がやけに攻撃的というか暴力的といった輝きがジーナは目に刺さって目を背けると、声が追って来た。
「進捗はいかがですジーナ?」
挨拶抜きでハイネが尋ねて来るもすぐに話題を変えてきた。
「むっなんだか酒臭いですね……まさかジーナ、あなたって人は!」
飲酒を決めつける声でもってハイネが顔を近づけて来るがその眼に怒りは無くむしろ笑っているように見えたのがジーナには不思議であった。
ハイネはジーナの顔を嗅ぎながら首から胸へと鼻へと近づいていき、停止してから顔を上げた。
「随分と上手に呑まれるのですね」
「鼻が悪いのか? 絶対に呑んだということにしたいようだが呑んだのは私ではなくブリアンとノイスだ」
「まぁ……部下を売るだなんて卑怯ですね。ここはお得意の自己犠牲精神を発揮し呑んだのは俺だから煮るなり焼くなり好きにしてくれ、と言ったらどうです」
「私がそんなことをいったいにどんなメリットがあるんだ」
「メリット? ずいぶん難しい言葉を知っているのですね。あなたにその概念があるなんて。だってそうじゃありません? 自分の功績は主張せずにほとんどを隊の功績に移して隊員全員の賞与を増やしているじゃありませんか。あれってどんなメリットがあるのです?」
「私はそういうものには興味が無いんだ」
「けど私には飲酒していたということにはしたくないのですね。罰はお引き取り願うという方針ですか?」
ハイネの眼の奥に光が宿る。それは好奇心という火なのだろうか、とジーナはたまに思うがすぐに鼻で笑う。
相変わらずこの人はわけのわからないところでおかしな興味を抱くなと。
「ただ単にハイネにはそう思われるのが嫌だというだけだけど」
ジーナは答えるといつものようにハイネの瞳の奥を見るために見つめる。
あの火は一瞬大きく燃え上がり、すぐに小さくなって消えていく。
これもいつものことでありジーナはいつものように終わったと思った。
ただそんな反応だけに過ぎないことだと、思い込んだ。
その証拠にとハイネの態度はいつも同じだと。能面でつまらなそうな声をあげると。
「それって宿題や課題を増やされるのが嫌なだけですよね。まったくジーナってそうでもしないと真面目にならない人なんだから。さてどこまで進みましたか、て半分ぐらいじゃないですか。うん? ルーゲン師やみんなが来てありがたい話をしてくれた? それって勉強よりも大切なことなのですか?」
紙をめくりながらハイネは責めたてる口調で言うもジーナは言葉に棘を感じなかった。
そもそも、とジーナはハイネの言葉を思い返す。
言葉はいつだって辛辣であるのにどうしてか雰囲気はいつも朗らかでその明るさに包まれておりその中で自分の魂を……
「ハイネについての話題でな」
口から言葉が零れるとハイネの表情が強張る変化をジーナは見て、それから狼狽からか震えながら離れ視線を逸らし落としうつむく。
「悪口ですね。分かっていますよ」
ハイネの吐き捨てる声に言葉が返せずにジーナは椅子から中腰となる。
「みんなに私のことを悪く言って楽しく盛り上がったのでしょう」
後ろ足で一歩下がるハイネに引かれるようにジーナは椅子から立った。
「普段抑圧的にされていますから、こうやってお酒の力を借りたりして、それはさぞかし楽しかったでしょうね」
二人は間合いを取った形にように立っていた。ギリギリ届かない、とジーナは見抜きハイネを見据える。
「分かりますかジーナ? あなたがいま笑っていることを
踵を返し背を向けるとジーナは地を蹴って跳びその後ろ手を、掴んだ。掴めた。ハイネは動かなかったためか余裕で届いた。
「違う!」
掴むと同時にジーナは言った。そう違うのだから違う、と。
「私達はそんな話はしていない。それと嘘はやめろ。私は笑ってなんかいない」
嘘はやめろ、と自分の声が自身の心の中で反響し音が沁みこんでいく間ハイネは顔を振り返らなかった。
ジーナはその後頭部をハイネの長い黒髪を黙って見続けるしかなく、その時にはじめて気づく。
こうやって彼女の後姿を長時間も見たことは無かったなと。
その気が抜けた一瞬を狙っていたようにハイネは素早く振り返り逆にジーナの両手首を掴んだ。
「はい、嘘をつきました。ごめんなさい」
そう言いながら引っ張ったのか自ら進んだのか分からないままジーナはハイネと接近した。
「だからジーナも嘘とかやめてくださいね。っで私の話題ってなんでした?」
態度が豹変したがそれはどちらかというとさっきのあの態度こそが嘘であり、全てはこうするために仕込んだ芝居で……との考えがジーナの頭を過るも、今はそれどころではなかった。
ハイネの話題、もう誤魔化せない内容、それをこうやって目を合わせながら告げるということは……
「まとめると……」
「まとめると、なんですか?」
オウム返しと同時にハイネの手に力が入った。おまけに熱も籠っている。なにを、期待しているのか。
ジーナはあの三人の言葉を思い出しそれから考える。はたしてあのことを伝えていいのだろうかと?
優しくしろだとかそれになんとかだとか……
「いや急に言い難くなった。忘れてくれ」
「言いなさい」
間髪おかずに隙間など許さぬようにハイネが言い手首を掴んでいたその両手がジーナの掌に瞬時に切り替えし互いの指で絡んで来た。
「言わないと手を離しませんから」
掌の熱は上がり続けているのを感じていた。
「なぜか驚いているようですけど、先に握ったのはあなたですからね。手を出したのはあなたです、ここの認識を誤ったらいけませんからね」
熱に吸い寄せられるようにまた二人の間の空間は消え、近づきジーナはハイネの息吹の熱も気づき感じていた。
「言わないとしたら」
「なら一晩共に過ごしますか? 私は構いませんよ」
ハッタリではなくこの女ならやりかねんとジーナは考える。
「もしそうなら私の悪口を言っていたと判断します。これは名誉に関わる問題ですからね。明朝にバルツ様の元を訪れこの件の顛末を語る次第です。一晩監禁されたということも含めて」
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