第115話 『君に印が現れなかった理由が僕には分かるよ』

 山道を駆けながら男が思うことはひとつ。何も無ければ、それはそれでいい。と男は息を切らしながら心の中で思った。むしろ予想が裏切られればよいと。


 考えていること全てが妄想であり現実が否定してくれればいい。自身を否定し自身は拒絶され無に帰すればどれだけいいのかと。


 夕陽の輝きが身体に染み込んでくることに男は不穏さを覚えた。あまりにも濃い色だと。何かを知らせているように。


 また鳥たちの囀りもやけに高く多くおまけに知らないものも混じっていた。それはなにかを告げているように。新しい何かを教えているように。


 けれども男は自分の身体にはそのような兆候はまるで感じられずそれどころかいつにもまして身体が動いた。


「龍がいるのなら」


 山道を走り登る足には痛みは走らず呼吸は規則正しく繰り返され、自らの足が山の地を蹴りあげるごとに男は自分が誰であるのかを感じていた。


 ここに自分がいる。否定し拒絶し探し続けたこれとは違う自分というものというのが、どこにもなかったことを。自分は自分以外のものにはなれないということを、自らの足で大地に刻みつけるように駆けていく。


 半ばにある広場に到達するも不穏な雰囲気は感じ取れず沈む行く夕陽から時刻も分かる。つまりは龍は現れていないということ。


 このままなにも無いことを確認しそして……湧き上がる歓喜に満たされようとしていると微かに焦げた臭いが鼻につきそれから壊れる音が遠くから鳴った。


 かつていた、と男は思い出す。火を吹く龍がいたことを。森を火で焼き村を燃やした龍が。彼方から何かが崩れる音が聞こえた。その音を男は知っている。


 あの時に聞いた音が耳の奥で鳴り。記憶の再現か熱気も顔に伝わってきた。この熱も知っていると足が再び動きだしまた一段と速さを増し駆け昇っていく。


 そして訪れるのは二度とは戻らぬと誓ったはずなのにすぐに破り、そして立塞がるはずの村の門。門番の当番のものがいて、自分にこう告げるのだ。呪身よ去れよ、と。


 だがそこにあるのは砕かれ火がついた木片の残骸。門をくぐると知っているはずの世界が火に包まれ姿を一変させていた。


 辺りには木が爆ぜる小さな音があちこちに響かせているのみであり、破壊はあまりにも静かに進行していた。


 誰もいないかのように、世界で自分が一人だけのように、取り残されたように、自分だけが生きもしくは逆に死んだと思うなかで男は火を避けながら龍の道への門を目指した。


 村の中を行けども走れども命はどこにも感じられずひたすらな滅びに無抵抗のまま身を委ねるように炎がゆっくりと広がっていき、受け入れている。


 何故誰もいない? 男は炎の明かりに支配された景色の中を見渡しても人の姿も声すら聞こえないことに不審感を抱き、やがては思った。


 やはりこれは自分の心の世界の風景なのではないか、と。心の奥底にある自覚しない望みが幻覚として現れている。それなら自分がここにいる理由とは


「どうしてお前がここにいる」


 龍の道への門から問う声がして男は足を止め、傾いた門柱の根元に座る誰かを見つめた。


「それともこれは俺の幻覚か? お前がここにいるはずがないんだからな」


 曲がった脚を地面に投げ出し虚ろな瞳でもってツィロが言った。男は立ち止まらずに近づくと、今度は叫んだ。


「なぁ! 俺とお前のどちらが生きているのか死んでいるのか? それとも存在しているのかしていないのか、どっちだ!?」


「存在し生きていているのはお前の方だよツィロ」


 男は門に近づきツィロの前で身を屈める。その不信の目で睨むツィロに対し男は言った。


「龍が出たんだろ? 教えてくれ。俺も行かなきゃならない」


 言い返そうと口を開くも、すぐに噛み閉じ睨んでいた眼も閉ざされツィロは独り言のように呟き出した。


「火龍と毒龍が同時に出た。信じられないだろうが二頭連続に出た。毒龍が先に出て毒霧を撒き散らし、みんなが避難した後に火龍が火をつけていった。前代未聞だクソッ!」


 龍は一頭及び眷属で現れるものである。それは記録と記憶上は不変のことであり疑う余地などない。


 だがそれが破られた、いやそれだけではない何もかもがおかしく狂っている。異なる龍同士が共同作戦みたいに動くだなんてどういうことだと男の心臓は鼓動する。一体なにが起こっているのか?


「その毒龍は脚が尋常でなく速くおまけに眷属の全てを放ちこちらの足止めに使って龍の道への門を突破した。今までそんなことは一度だってなかった。それをジーナとみんなが追撃中だ。その間に火龍がやってきて……この有り様だ」


 はじめに足の遅い火龍が現れたのなら撃退できたであろうに、まるで考えられたかのような順番とタイミングに男はアリバの言葉を思い出す。


 あれは今までの龍とは違うのではないか、を。


 もしもそうならそうであるのなら。男は立ち上がり踵を返そうとすると、声で捕まえられた


「素手で行くってのか? これを持っていけ」


 その手には剣と鞘に握られ男に向けられていた。鞘は変わったものの三年前と変わらぬ柄、見慣れたその模様。


「俺はここで火龍と戦ったがこの様だ。俺には戦いは不向きだ」


「ああよく分かってるよ。それでも龍に立ち向かうのがツィロだってこともな」


 ツィロの瞼は少し開こうとしたが意思に抵抗するように強くつぶった。絶対に開かないように見ないように、見せないようにするためのように。


「ジーナの……彼女の力となってくれ」


 頷き男は差し出された剣を受け取り駆け出しはじめる。夕陽は完全に沈み今や世界は夜の闇へと包み込まれている。だが龍の道は一本道であるために男は迷うことなく真っ直ぐに走ることができた。


 途中道々に落ちている眷属の残骸を見て男はいつものことを思う。こいつらはどこに行こうとしているのだろうか、と?


 例外なく西の彼方のどこかから湧いてくる龍は村を通過し龍の道へと必ず通る。その先は砂漠しかないというのに。死でしかない砂の海。


 もしかして龍は砂漠を超えようというのか? だとしたらこいつらは東の世界に何故行きたがるのか? そこになにがあるのか? その地に……同じ? 自分と、同じ? 


 村を出て砂漠を超え東の地に新しい何かとして生きようとするのなら、自分と龍との違いとは何だろうか?


 共に呪われた存在として、片やそれを妨害し殺そうとしている。同じである癖に……何をしているのか? 男の思考はそこに到達するが、振り払った。違う、俺はそうじゃない。自分は龍ではない、龍ではなく、それは、それは。


 右前方から龍の雄叫びが聞こえ窪地があるその方向へ男は闇の中を飛び、反射的にツィロの剣を降り下ろすと刃が龍の身体を裂き断末魔を奏でさせその地を伏せさせた。火龍だ。


「やった!倒したぞ!」

「だっ誰だ!」


 闇の中から聞き覚えのある声がしその問う声からは一種の怯えも混じっていた。


 龍に対する怯えではなく、ここにいる自分に向けての恐れが。声と雰囲気から男にはそこに誰がいて誰がいないのかがすぐに分かり、開き直ったように大声で逆に聞いた。


「毒龍はどこだ!」


 そして――は? との声は呑み込むと応える声が返ってきた。それもまた夜空に語るように。


「毒龍は森の中に入りジーナが追っていった。遅れた俺達があとからやってきた火龍とかち合ってここで交戦していた……」


 言い終わるとその者はその場でへたり込みそれに釣られたようにあちこちで喘ぐ声を出しながら座る音が広がった。


 火龍程度ならジーナ以外でも討てるが、相当の苦労と犠牲を払ったはずだと男は想像した。そうであるから、誰もが口を開かずにある思いを抱いていることも想像する。


 早くお前が行ってジーナと協力してくれと。男は声なき声に押され弾かれたように男はその場から飛び立つ。


 声を掛けるわけにはいかない、そうだ。頼むわけにはいかない、それでいい。ここにいるのはそういうものだ。みんなは何ひとつとして間違えてはいない。


 だが今は、と男は言葉を繰り広げ来るべきその時のために、言葉を心の中で誕生させようとしていた。


 走る男は森に入らずに山道である龍の道をひたすらに東進する。この時間になるまで毒龍を討ち帰っていないということは、敵の方が足が速いのだろうか。


 そして――は判断するはずだと。ゴールは決まっているのなら、そこで必ずそこを通るのだから、ならばそこに、あいつならきっとそう考える、俺は知っている。


 一本道の果て、村と外との境界とも呼べるその巨大な切り株の脇に女が構えたまま待機しており男を見ていた。


 だがその眼には何の感情も宿ってはいなかった。驚きの色から悲しみの怒りの喜びの一切の色は無く、ただ男を見つめていた。その瞳の色は男は知らなかった、見たこともなかった。


 近づいて行くにつれてはっきりと見えてくるその姿に男は改めて悟る。ここまで遠く離れ隔たってしまったとは、と。


 あれは自分からは決して何も語りかけはしないだろう。

 

 ここには誰もいないのだから……だがそれでいい。女は微動だにせずに男に目を向けている。間合いに入ったとしたら構えは隙なく躊躇なく動くことは察せられた。


 それを確実に起こることであろうとと。だから男は大声を出した。


「今日だけは、いや今だけは共に戦わせてくれ」


 聞こえていないのか女は瞬きすら早めない。だが男は言葉を、誓いを重ねる。


「命令されてからではなく自分の言葉と意志のもとに誓う。この龍との戦いが終わったあとに俺は砂漠を越え東の地に行きそこで生きる」


 一歩近づくごとに女からの放たれる殺気が頬をかすめ全身に冷たさをもたらすものの、男はそのまま歩いた。


「――。頼む」


 濃い殺意が男の顔に生臭く被さる、もうあと一歩で間合いに入る、だから男はその手前で伝えた。


「それとも――こそが、あの頃に戻りたいと言うのか?」


 間合いに入り、男は足を止めた。だが剣は抜かれず鞘に入ったままであり、顔を覆っていた殺気も消えていた。


 その代わり言葉が来た。


「今なら君に印が現れなかった理由が僕には分かるよ」

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