第113話 『これ食え』
この暗闇の中で外の音をひとつ聞くとそれがなにであるのかを知っているはずなのに別世界のもののように聞こえた。
鐘の音から足音に人の声とそれらが何で誰のものかもを知っているはずだというのに。今では彼方へと離されていったしまったものたちのように。
いいやそうではなく、自分が離れただけであり、ここにあるなにもかもはあの日から特に形を変えずにそのままなのである。
ただ変わり果てたのが自分であり、それはいわば生と死の線が引かれた世界。もちろん死とはこちら側で……ここにいるのは死体だということだ。
生きる屍……歩く亡霊……呪身……ツィロも驚くわけだ、とジュシは薬臭い箱の中で自嘲し女も瞳を思い出す。
彼女は言った「言って」と。自分は答えた「言えない」と。
何故ここも頑なに言えないのか。もう世界は戻らないことは分かっているのに、なら現実を受け入れ少しでも戻れる世界で耐えることが、最善であるのに。
……彼女のあの時はこう思っていたのだろう。そうだよ、と男は頷く。お前は正しい。間違いなんかない。それでなにもかもが丸く収まる。お前があの夕陽の日と同じ瞳と声であの時の続きをしてくれたが、分かったのは自分の心の変化の無さという絶望だった。
だから自分は無抵抗のまま死を受け入れることにした。アリバさんが止めなかったら自分は死んでいたのだろうが、それは早いと遅いの違いどころか、ひとつのけじめに過ぎない。
そうであるからこれは柩だ。お前の言うように死体に相応しいもの。自分自身で選んだこの闇の世界。そうだ、お前は全て正しい。
こちらが全てを間違えている。けれどもこれはもはや正しさの問題では、ないのだ。その正しさを受け入れたとして私にとってその世界は必要なのか? 逆にその世界は私を必要とするのか? 受け入れたところでどちらにせよ生きながら腐る、生きながら燃やされ、生きながら朽ちていく。終わっている。
遠くにいようが近くにいようが、過去だろうが今だろうが未来だろうが、変わらないのだろう。
それが印に選ばれずにその名を呼ばず自らの名を捨てたものに相応しい罪であり呪いだとしたら、実に相応しい罰だ。
もはや私にはこの世界においての名は無くあの名で呼ばれることはないのだろう。ここにあるのは、時が止まった残骸。
眼前には闇、一切の闇の中でジュシは瞼を閉じより深い闇と一つになることを願った。呪われた身も闇に浸ればもしかしたら浄化されるのかもしれない、そうしたら自分もこのまま闇に溶けて二度と目覚めず……
「起きろジュシ」
朧げな後光のなかアリバの髭面が眼前に現れジュシは悲鳴をあげると辺り一面から笑い声が起こった。
「なんだずっと寝ていたのか。それが正解だったな。いろいろとちと長引いた話もあってからな」
箱から顔を出すとそこは山の中腹より下だとジュシにはすぐに分かった。ここまで来たら龍の眷属も来るはずはないと。
「ここからは安全だと向うの人は言ったが、まぁ不安でな。だからこうして起こしたんだが、どうだ身体の具合は」
一同が歩き出すなかでアルバがジーナに尋ねてきた。
「若干痛いですが大丈夫です。もう歩いた方がいいでしょう」
「ああそうだな……そのな、具合はどうだ?」
なんだか不思議と心配するアリバにジーナは妙なものを感じた。具合なんて最悪だというのに、何を聞いてくるのかと。
「特になんでもないですよ。ちょっと立ちますね」
「あっ待て。いい、とりあえずこれをな」
慌てるアリバがいつもの焼き菓子の袋を出した。相変わらず所かまわずに食べる人だなといつも通りにジュシは思いつつその動きを見ていると、ぎこちない動作で菓子袋から一枚の焼き菓子が取りだされその手は二人の間の中途半端な位置で停止した。
「これ食え」
「買え、ですか? アリバさんの値段だと私は買えませんよ」
「違う、食え」
何を言っているのかジュシは全く理解できずに手が届かない位置にある菓子袋と満面の苦渋さを滲ませるアリバの顔を交互に見る。いったいどういうことだ?
この人が、人に食い物を勧めるなんて、有り得ない。砂漠の越えの時でだってそんなことはなかった。
不味いとか古くなったでもこの人は食べるし隣に餓えている人がいても自分の食い物は自分だけが食べる。
その反面に他人の食い物は絶対に欲しがらない。自他ともに認めるその厳格さがアリバだというのに、法外な値段で売るのではなく、食え? とは。かつてないアリバの言葉であるからジュシはこう聞かざるを得なかった。
「もしかして毒でも入っているのですか? でもあなたは毒入りでも人にあげるくらいなら土の中に埋めてしまうし。どんな理由で食べられないものなのです?」
「毒入りを勧める奴がいるか。いいから、食えと、言っているんだ。いい加減早く食え、わしをこれ以上苦しめてイライラさせるな」
なんて勝手な、という感情を抱くもジュシは奇行に走りながら本当に苦しそうなアリバを救うために、一歩前に出て変な高さにあるその手がつまむ焼き菓子におそるおそる手を掛ける。
「いっ良いんですね? 大丈夫ですよね?」
「いいから早く取らんか!」
怒鳴り声に驚いたせいで力が入ったのかそれともアルバが強くつまみすぎていたのか、ともかくジュシが取ろうとした一枚の焼き菓子は儚く千切れ分裂してしまうが、咄嗟の動きで両手で以ってすくうようにして砕け散った焼き菓子の破片の大半を受け止め、勢いからかそのまま口の中に運んで行きジュシは食べ始めた。
アリバは見るのが耐えられないといったように顔を背けているなかで、ジュシはまるで世界中でたった一人となり焼き菓子を食べだしたようであった。
噛む音が辺りに静かに響く。噛み砕くその音と共にジュシは頬に熱いものが流れるのを感じ拭うと指先が濡れていた。血だと、まず思った。血は熱い。それは知っている。だけど指先についているものには、赤ではなく透明なものであった。
だから分からなかった。涙が熱い理由も、これが血ではなく涙という理由も。勝手に流れ出てくるものにジュシはその意味を付託などしなかった。これも血と同様に自分の意思とは関係もなく流れるものだとしたら、自分は傷ついているのか? では何に対して。
疑問が扉を開いたのか脳内では自動的に言葉が再生されだした、かつて自分がいた世界の人々の声や言葉のその一つ一つが刃だとしたら? あのこちらに向ける瞳が剣の切っ先だとしたら、そうであるからこそ攻撃を受けたその呪われたものは箱の中で意識を失い闇と一つになった。
『死体には相応しい柩だね』
その時の自分は血塗れの死そのものであったのだろう。だからこうしてアルバが目覚めさせ一つの焼き菓子を与えた。
私を復活させるために。こちらが生きる世界だということを知らせるために。私は、死にきったのだろうと……ジュシは呑み込む、その血に似た涙も共に。
「食べ終わりました」
何の抑揚もなく普段の声が、出た。
「おうそうか。じゃあ行くぞ」
荷物がないため一同の足取りは早く先に行ったものに追いつくために二人は早歩きで追い掛ける。
「アリバさん。砂漠越えの季節になったら私は、東の国に移住します」
淡々と言うとアルバは快活に笑ってみせた。笑っても人相がとても悪いなとジュシは口にしないまでもいつも思っている。
「そりゃいいな。じゃあ帰ったら準備をはじめるぞ」
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