第60話 ではそろそろ行きましょうか
あの時、と女は心中にてほくそ笑み思い出す。指輪を買いに行こうと男が言われた時に驚きと喜びのためにパニック状態に陥り口がきけなくなった。
まさかこんなストレートに来るとは、と。
あの状況ではあれが良いこれが欲しいなどとは言うことなどできずに言われるがままに店に入り、石選びも買い物において人生でも珍しく気を使った。なにせこの男は金をそれほど持ってはいないのだから。
それにしても妾はとても賢かったなと女はあの時のことを思い出し内心自画自賛する。どちらにいたしますか? と二つの石が差し出されたがあの店の主もなかなかのもので白光を持ち出してきおってからに。
あれは妾が欲しいと思ったのを見抜いての行動であったが、愚かな。妾は悟られぬよう堪えきり赤光を指差したのだ。そうあれでよい。あの赤系のものは妾もあまり持ってはおらぬから、一つ増やすのも良いであろう。
その赤光と白光とを比べると値段は桁違いであるからまず無理だとはじめから諦めておったが、あれはかなりの上物だったなあれが買えたら持っている石の中でも結構なお気に入りになったであろうに……と女の心にすこしもの惜しさが湧いて来るも、だがそんなものと内心で蹴っ飛ばした。
だからなんだ、と。欲しかったらあとで自分で買えば良いだけのこと。いま大事なのは宝石の価値などでは、ない。誰が誰に対してそれを用意しているのかが問題なのだ。
妾が離れた後は中々手間取っていたようだし後ろを決して振り向かずに耳に入る音で雰囲気を推察すると、あやつを説得する主の声のようであったな。もしかして赤光の値段を聞き買うことができずに他の石にでもしたのか?
まぁそれはそれで妾はちっとも構わない。相当時間をかけたがあの待ち時間は少しも暇でも苦痛でもなったな。待てば待つほどに良くなっているような気もしたし、こんな気分になることは久しくなかったことだ。
けれどあやつはちょっと馬鹿であるため隙あらば指輪を買ったとか言いそうだったからこっちが口を滑らせぬよう一方的に話し続けた。
すると出口に行こうとかいうから目で訴えたりとやれやれ……ここまでくるのも気遣いで疲れてしまったものだ。だがもうここなら大丈夫でいま箱の確認もしていた。妾も自然に都合よく目をつぶっている態となっているし全てはうまく行っている。
あとはあいつが別に変にもったいぶらずに実は渡したいものがあります、と簡単に言えば妾はとぼけるからそうしたらごく自然な流れで、とあと一歩だ。
そういった思考が流れ行く中で女は男がやっと取りだした箱を懐に戻したのを見て、不審がった。その動きは何だ?と。
素直にそのまま置けばいいものを、それとも驚かせるための前振りか? そのようなことはしなくていいのに、と女は起き上がることにした。
男は女を起こさぬようにしていたが女が起きそうに動き出したために声を掛け、そうして女は目覚めたと認識した。その上で思っていた。箱を仕舞って良かった、と。
「疲れと酒でちとウトウトしてしまったな」
「帰りの馬車でいくらでも寝られるでしょうし、ではそろそろ行きましょうか」
男はそう言いながら互いに立った時に箱を渡そうと考えていた。だが女は全身が椅子にのめり込み沈む感覚に襲われた。腰が抜けたかもしれない。
ここではないのか……もしかして、あれは違うのか?
太陽に一筋の雲がかかり陽射しが遮られたためさっきまでのように女には陽が注がれなくなり、一瞬で暗黒が訪れ辺り一面が闇に陥った。その影響を受けたか女は思考も、闇に堕ちていく。
……違うのか? そういえばかなり時間をかけていたが、もしも赤光をそのまま買ったとしたらあそこまで時間がかかるわけがない。
では別のを買った、とも想像するがそれは果たして妾のものであろうか? そういえば指輪を買い行こうとした時にこの男は、妾になにか聞いたか?
いいや聞いてなどいない。そのときこちらは混乱中であったからそういうことは気にせずについて行き指のサイズは……店の主が当てたし、宝石もどれが良いなど聞かれもしないし、買うとかどうとかなんて相談もなく……もしかして全ては自分の思い込みであったのか?
風が止んでいるために雲はまだ陽の光を遮断したまま。闇は空間から内部へ浸透しくいく。
それどころか反発し増幅し自らのうちのなかで闇を作りだすのには必要なぐらいのほんのちょっとの時間。はっ馬鹿馬鹿しい! と女は内心毒づいた。
そうすることにした。
別にこいつから宝石を買ってもらう必要や必然性などどこにも無いし、そんなもんはいらんかったな。欲しくも無かったしな。あの箱はどうせ女の、そうだハイネにプレゼントするためのものであろう。それなら今までの行動の全ては納得がつく。妾のことを気にせずこの場にいる緊張感もなく、すぐに帰りたがっていたのもそうだ……早く渡したいから。違う女に、ハイネに。それなのにこの女は期待してわくわくして何て痛々しい勘違い女で……いいや違う、とヘイムは背筋を伸ばす。
こんなこと全部はじめから、わかっていたわ。バザーの門をくぐる前から、知っていた。
よって妾は痛い勘違い女ではない。こやつの挙動不審が全て悪い。
はいはい仲がよくてよろしいですね。お幸せに、ああ酒が回って気分が悪い。最低の酒であったな。もう一生酒など呑まん。そうだこの酒のせいでもある。これで妾は変な思考に陥った。酔ったせいで馬鹿なことを思いついただけ。
そうだ。はじめから指輪など期待せずにいて、こいつはハイネのために指輪を買った。つまりはこんな簡単でつまらぬことだ、気にすることは無い、妾はこんな男にかき乱されるほどの下らぬ心など持ってはおらん。はっ終わりだ、とっとと帰って寝るか。これで終わりだ、終わりだ。全部おしまい。
「時間だ。帰るぞジーナ」
女は立ち上がり低い声で告げた。暗い影によって女の表情は不明であるがその声から男は女が態度を一変したとすぐに分かった。
この一瞬でなにがあった? なにもないはずだが。
「支払っておけ。あと付き添いはいらんぞ先に出口に行っているからな」
女は杖を手にし踵を返そうとすると男はその背中に男はナギと言いかけるが、女は叱声を発した。
「ナギだと!? いい加減にお遊びはやめろ。いいか? ついてくるなら三歩下がって歩け、いいな近づくな」
もうわけがわからず滅茶苦茶になりつつあるこの場でそれでも男は混乱しかけるも言いかけていたことを、告げるため立ち上がった。
「あっあのお待ちください。実はここでお渡ししたいものがありまして」
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