第59話 旦那の酒に少し付き合うそういう気の良い女
歩いている最中に女が先ほどの店のやり取りを一切聞いてこないことに男は戸惑いを覚えた。
会話の内容は女店員との雑談で出た話でこのあたりのどこそこの店が良いとか悪いとか、そんなことを男に延々と話しかけて来る。まるでこちらの話をどこか封じているようですらあった。
「さっきの店で主がな」
「その話はもうよい。それよりも昼であろうし奥で食事をするのが良いと思うが、どうだ?」
さきほどの店で長居し過ぎたせいで時刻を考えるとそろそろお昼であり、それはつまり終わりの時間が近づいていることであった。
「ああすみません気が付かなくて。あの店で時間をかけすぎましたね。入る予定の店が残り三分の一ほども残っているのに」
「一切気にしておらぬから安心せよ。もう買い物も十分だということにして早く行くぞ、時間が惜しい」
何をそんなに急ぐのかというように女は前に出て手を強く引きながら早歩きをしだす。中央の通りを抜けると奥には広場があり昼時のピークの時刻は過ぎているためか人の数は減ってはいた。
「この雰囲気では時間がかなり経っていましたね。もう出口に向かっていい時間かもしれなく」
左下から凄まじい視線を感じ男が慌ててそちらを見ると女の血走った右眼が見え、殺気を覚えその時に男はすぐさま自分は間違えているという認識を得て、理由も聞かず訂正した。
「いや、まだまだ時間はありますね、なければおかしいです。そんなのは許されない」
そう返すとどうだろう、女の眼の色は穏やかなものへと変わり恭しく縦に小さく頷いた。しかし理由は分からない、聞けない。だから男は考えた。普段考えないため身近なことからその反応を推察するに……すぐに安易な結論に飛びつく。そうだ腹が減っているんだ、と。
「お昼をとっていませんでしたね。何か食べていきましょうか」
提案すると女は嬉しそうに頷きこれまた賛成の態度をとった。しかしさっきから無言なのは空腹なためか? それともナギというのは御淑やかな性格に設定を変えたのか? 忙しいこったと疑問を深めると女が口を開く。
「なにか食べたいものはあるか? そなたの好きなものを選んでいいぞ」
耳を疑う言葉に男は女を見る。途中で人が入れ替わったのか? 私は違う女の手を引っ張ってきてしまったのでは?
あの宝石店の中でこっそりと。それぐらい有り得ない言葉であり、自分の意志を通さないだなんて、しかも好きなものを公費で食べていいとは。
「肉でいいですか? 駄目ならその」
「いいぞ。ならあそこが良いな、ついて来るがよい」
女は優しい声を出し案内を始める。その間も特に話もせずに男は変な緊張感を抱えながら中々に値が張りそうな白塗りの店に入った。
給仕が現れ男はチップを渡すと奥の窓辺に案内されお勧めに無条件に従って肉料理を頼むと酒は如何に? と聞かれるも女が遮った。
「酒はいかんぞ」
やっといつもの調子に戻ったなとある意味で安心しながら男は酒はいらないと伝えようとする、とまた女が遮る。
「いやっ待て。呑みたいのなら特別に一杯だけなら許す。緊張の緩和のためにだぞ」
との最後の小声を男は聞かずにもしかしてとある酒の銘柄を尋ねると給仕が微笑み頷く。まさかだが、あった。西方面の酒がある……というかまず間違いなく以前に自分がこちら側に運んだ時のものがここまで流れたのでは?
運命的なものを感じながら男は女に見えぬように指を二本立て注文した。給仕はきちんと頷き去った。
「ナギはお茶とお菓子しか頼まなかったけど、それで良かったのか?」
「そなたは妾に肉を食えとでも言うつもりか?」
「いえそういうことではありません。ただそれではいつものお昼となにも変わりがないと見えて」
「そうだな。ついいつもの癖でやってしまったが最後に少し弾けてもいいかもしれなかったな。うるさい親戚もいないことだしのぉ」
「私のと交換しますか? 肉と酒を菓子と茶に」
「たわけが。酒はよいが肉はまだいかんと言ったであろうに」
「では下戸ではないのですね」
「饗宴の際に酒は出るからな。そういう場合は呑むし別に問題はない」
「では、今は何故?」
「このような場でましてや男の前で酒など呑むのは、うん?」
ウェイターが二つのグラスを持って来て無駄のない動きで二人の前に置き、ツッコミが来る前に風のように去っていった。
女は男と同じグラスが眼の前に置かれ困惑するも、やがて察して笑い出す。
「いまの妙な会話は、これへの伏線か?」
「はやめに回収されましたね。まぁまぁいいじゃないですか。ここを出たらもう帰るだけなのですし。あと私の故郷では妻は旦那の酒に付き合いますよ」
「またそれか。ごっこもすぎるぞ調子に乗……」
いい加減調子に乗り過ぎたかと男は説教に身構えたが、女はそれ以上語らずに黙ってグラスに手を伸ばし持ち上げ陽射しに当てる。
「綺麗な琥珀色であるな」
「珍しく西の酒があったのでそれにしました。こちらの酒は基本その色なのですよ」
「フッ仕方がない呑んでやる。妾は今はナギで彼女は西産れの旦那の酒に少し付き合うそういう気の良い女だ」
「それでこそジンの妻です」
と男もグラスを持ち女のグラスに近づける。
互いに同じ高さに掲げ目を合わせそれから一緒に口に運ぶ。男には懐かしい味が、女にははじめての味が口の中に入ってきた。
「悪くはないな……酒の味はどれもあまり好きではないが、これは旨いといっていいものか」
「なら良かった。旨いですよこれは。さっきのウェイターは酒好きそうでしたので彼なら丁度いい塩梅で調整してくれたのかもしれませんね」
そうかもなと呟き女はもう一口唇を濡らすと、それから各々の料理が運ばれ女は菓子と茶を飲みながら、男が嬉しそうに肉の煮込み料理を食べているのを眺めていた。
窓辺であるため微風が頬を優しく撫でる心地良さと丁度よい陽射しのなかで茶と菓子を食べ終わった女は再び酒を口に運ぶと、さらなる現実感の喪失が訪れ今日の疲れも加わり夢心地な気分へと陥っていった。
その意識が遠ざかる感覚に身も心も委ねた女は瞼を閉じる。遅れて男が料理を食べ終えると給仕が皿を回収し、酒も飲み干し女が微睡んでいるのを見ると、自然と懐に手が入り四角のその箱に指が触れる。
これはいつ渡せばいいのか、とそういえばそのことを考えていなかったことに男は気付いた。帰りに渡すかここで渡すか。帰りの場合はシオンに見られる可能性が高く、色々と面倒なことを聞かれても都合が悪い。分割払い? この出しゃばり! といったシオンの声が聞こえてくる。
だったらここで? なるほどここならやりやすい、と。これをさっき買ったんだ、シオンの特別給付金を全部使って、残りは自費で……これはまずいな。
なんでそなたが実費を出したのだ? とか当然来るから何と答えたら? そうなると面倒な気もする。ではここではなく帰り際にさり気なく渡す……なんでそんなにコソコソと? 思えば思うほどさっきあれほどまでに買うことに固執していた時の感情を男は思い出せなくなっていた。あの心はいったい全体なんだ?
酒と肉による満足感であの一瞬の情熱が冷めてしまったのか? しかしどのみち渡さなければならず、男は懐から箱を取り出し机の上に置き存在を確かめるようにすこし開く。隙間からは白い輝きが放たれ眩しさのあまりすぐに閉じて、また懐に仕舞い改めて女を見た。
椅子にもたれながら微風が髪を揺らし陽射しが暖かげに包むその姿を男は美しいと感じ、それから永遠という言葉が頭に浮かびあがり瞬きを三度した。いいや違う、そう思ってはならなく……終わらせないといけないのだ。いまだけ違えど私たちは……
一方で微睡んでいるように見えた女は実は薄目でその男の挙動不審な様子を全てを見ており、思った。そろそろはじめるのか、と。歩き疲れと気疲れによって呑んだ酒の周りが早く女は若干夢心地の心境に近かったが、眠らず……いや眠れるはずもなく、瞼は閉じず眼端で微かな開眼にて、男の一挙手一投足を見逃さずに見ていたのである。
そうだそれだ、と女は男が懐から取りだした箱に注目をしていた。買ったのであろうな……赤光を!
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