第41話 どうでしょうね
「おはようございますジーナ。本日も良いお日柄で」
明くる日の昼前に門を抜けるとそこにはシオンがおり、わざわざ出迎えてもらうもジーナには嫌な予感しかしなかった。いつもここに来ると嫌なことしか起こらない戦慄の館、そう龍の館。
私に対する罰としては最適かつ効率的な施設であるうえに、ここから外に出ても関係者が苦しめにわざわざやって来てくれるという意味で恐怖以外のなにものでもなく、眼の前にいる美青年風の女騎士も強敵であり警戒心を抱き心の中で身構えていると、シオンは寂しげに笑った。
「すこし時間をとらせていただきます。こちらへ」
命ぜられるがまま憂い顔の騎士の後ろにつき一言もこちらから話しかけずに歩き、溜息の回数を数えていた。五回程。池の周りに到達し六度目はまだかと待っていると、溜息を吐く前にシオンが言葉を出してきた。
「その頬の傷の件ですが……加減は如何でしょうか」
「特に問題はありません。キルシュに薬を塗って貰ったおかげで昨日よりよくはなりました」
嘘は、ついてはいなかった。今朝になってキルシュが不機嫌ながらも少しだけ会話が可能になったのを見計らい、薬の件を頼み塗って貰ったのだから。
ただし少しもやる気が無く投げ遣りな傷の手当てになった。シオンならばこの手当がキルシュのだと間違いなく見抜くはずであり、間違ってもハイネのだとは分かるはずもない、とジーナには確信があった。
最も何故キルシュでなければならなかったという理由についての根本的なところに対してジーナは頭を回すことはなかったのだが。
シオンはそれに対する返事をすることもなく池を眺めていた。しゃがんで水面を覗き込んでいる。なにかいるのか?
自分の顔でも見ているのか? ジーナはわからないまま後ろに立ち無言で待機している。しばらく経つとここでやっとジーナの鈍めな思考を回転しだす。活発なシオンがこうしているのはなにか言い難いことがあるのでは……そうだ! と、歓声が心の中であがりジーナは手を握り締める。私は、クビなのだ! という強い予感。
昨日の怪我に至る経緯はあの方を激怒させもう容赦はできなくなったために、ここに至ってようやく私の予てから希望であった辞職が受け入れられたのである、とジーナの心から不安は一掃され胸が高鳴った。
あの人は昨日の件をシオンに話しこの問題の結論は私の免職であると決定されたのである。
いまやシオンの背中は大きく見え美しくさえ感じられてきた。あれが振り返り、申し訳ありませんね……と言い出したとしたら、ありがとうございますではなく残念です、と言わなければならない。
そう残念ですこちらこそ申し訳ありませんでした、とシオンにだけはこれは素直に言えるから助かる。
これでいい、おしまいだ。
もう二度とここには来ないだろうしシオンともこのように話す機会は失われるだろう。そしてなによりも絶対なのは、あの人とはもう会えないということで……
途端にジーナは心中で湧き上がっていた歓喜の音色が消えたのに気付き、代わりに空虚さに満ち満ちたうすら寒い思いの存在に気づく前にジーナは発作的に動き出し、自らの怯えを払うためか声を出した。
「申し訳ありませんでした」
先手必勝とばかりにジーナは思考を停止させ頭を下げるとシオンは驚きながら振り返り立ち上がり小首を傾げている。
「今までお世話になりました龍の護衛を辞職いたします」
「いえ、亀がびっくりして逃げだしたぐらいで仕事をやめられたら困りますって。それにいきなり謝罪ってなんですか?」
なにを言っているのかとシオンの隣まで行き池面をみると亀の集団が泳いで遠くへ行っているのが見えた。
「はやく時を進めたければ亀を眺めればよい、とはソグの言葉ですが見ていてなかなか面白いものですね。ここの亀は多彩で珍しい色のものが多くてそれほど飽きずに見ることができますので」
どうして亀を見るためにここまで連れてきたのか? また池を見ようとするシオンに対してジーナはもう我慢せずに話しかけることとした。
「私が辞めるという話では、ないのですか?」
「えっ? ああいいのですよ、そこまで責任を感じなくても。転んで怪我をした程度でクビになったり辞職させられたら逆にこちらが困ります」
クビの話ではない? と分かった瞬間にジーナの心は……感じるな! 考えるな! と心は悲鳴が木霊しむしろ怒りのようなものが生まれる。
「じゃあこれは何でしょうか? 言い難い御様子はいったいなんですか? 私に何か言いたいことがおありなら、どうぞ言ってください」
間違いなく強く言い過ぎてしまったなとジーナは後悔している中でシオンは平静であり首を何度も軽く頷いた。
「不安にさせて申し訳ありませんでしたね。あなたみたいな真面目で仕事熱心なものに対して言い難いことがありまして。実は予定がズレてしまいましてね。これはとても珍しいことなのですがヘイム様が朝起きてこなくて……つまりは寝坊です。このせいで全体の予定は一時間遅れで進行しております。ですから現在はルーゲン師の講義が行われている最中です」
そういうことか……そういうことかとジーナは安堵の息を吐きそうになり、急いで呑み込む。そういうことではない。
「……それなら今日は定例の儀式の準備のみでしょうか」
つまりはあの散歩は中止であってほしいとの期待を込めて聞くも、シオンは微笑みながら肩を叩いた。これが所謂肩たたきというクビの通告だったらどれだけ……
「昨日はヘイム様の眼の前で緊張と疲れからか、何かにつまづき岩にぶつかり頬を切るという器用な失態を犯したことで羞恥心やら心の疲労が一杯でしょうが、ご安心なさい。ヘイム様は逆に自分のせいだと思うほどに、あなたの身の安否を気遣い薬をお届けしたのですから気に病むことはありませんよ。人間誰にだって失敗はありますからね」
そのまんまそう信じてくれるほうが助かるのだが、あまりにもそうじゃない感が強すぎて逆にジーナはシオンの人の好さが心配になり、この人はもうちょっと他人を疑った方が良いのでは? と余計なことも考えていた。
「それにヘイム様は時間調整で予定を後回しにしたり短縮したりする中で儀式の準備と散策の時間は削ることをなさいませんでした。
定例儀式に時間をかけるのは当然のことですが散歩の方はというと」
そこで言葉を区切りシオンはジーナを見る。聞いているのだろう、同行者の意見を。ならば言うことは一つだけである。
「僭越ながら言わせていただければ、散歩はいわば運動兼気分転換であるので今日に限っては中止もしくは短縮してもよろしいのではないのでしょうか?」
シオンは同意の動きであろう頷きをひとつし栗色の髪を撫でた、短すぎるから乱れるわけがないのだがあれは長髪だった頃からの癖なのだろうか? なにはともあれ良い方向に同意してくれるのならそれはそれでまことに結構な話だとジーナは心を躍らせていると、誤りであった。
「私がもしもあなたの立場であったのならそう言うでしょう。今日に限っては儀式と公務に専念してもらいたいと。それは誤りではない正当な意見といえますが。しかし! 私としてはその運動兼気分転換を最優先させてもらいたいのですよ」
どうしてそうなるのか、なぜ自分にとって都合の悪い方に物事は転がっていくのか? 都合の良い展開とかはないのですか?
「ヘイム様は御立場上たいへんに苦労が多くたいへんに辛い身の上でもあるのです」
だから私を苦しめるのだ、とジーナはすぐに思い同情しなかった。苦しむがいい。存分にいっぱい。
「儀式や公務によって心身ともに疲れがたまりときたま情緒不安定になることも少々あって」
少々とは?私の前だと少々や多少どころか多々不安定であるというのに。
「外に出る気力すら湧かないようで私だけが少し無理を言って連れ出すぐらいであったのですが、ここ最近はほぼ連日外を出歩いております。これは驚異的であり、そのおかげか以前よりもヘイム様は明るく元気になられた感じがするのですよ。それはつまりは」
再び左肩を叩いた。これはぬか喜びを現す方の肩たたきである。
「あなたのおかげといえるかもしれません。色々と目に余る行いがあるけれど刺激的な異文化交流として私は大目に見ていますよ。まぁよほどのことが無いかぎりはさっき訴えていたような辞職願の必要はありません。以前と変わらずに職務に邁進してもらいたし」
左肩にかかるシオンの手が凄まじく重く激しく痛んだ。いっそのこと全部話してよほどのことがあったと言えば全てが終わりになるかもしれないという誘惑にジーナはかられる。
そうこの傷はヘイム様につけられたものであります、お疑いならお見せいたしましょう、
ほらこの傷の間隔から人の指のと同じでしょう、それとも直接ご本人からお話を伺いましょうか?
あの人は嘘はつきませんよ、この私から責められたらきっと自分の罪を認めて……どうするのだ? なんだ、それは。
そんなことをしたところで、いったいどうするというのか?できるわけがなく、自分だけがそんなことをすることを許されるのか? これはそういうことではないのだ。気が付くとシオンは眼の前で微笑んだままであった。
「そこまで言っていただき光栄の極みでございます。非力ではありますが可能な限り努める次第であります」
「あなたみたいな人が非力とかいうと謙遜が過ぎて嫌味に聞こえるのが面白いですね。そこはともかく、宜しく頼みますよ」
そうシオンが言うといつのまにか時間が経ったのか館に向かって歩き出しジーナもついて行く。
どんどんとドツボにハマっていく感があり、これをどうしたら辞めることができるのだろうかと性懲りもなく考えていると、階段の途中でルーゲン師が現れ挨拶をしたのちシオンと立ち話をはじめるも、会話をしながらも視線はこちらに向けられていた。
「ところでジーナ君。怪我の具合は如何ですかね?」
声をトーンがいつもと同じであるはずなのになにか違うとジーナには聞こえた上にその眼の色もどこか光るものを感じた。シオンのとはまるで違うと。
「回復に向かっております。大した怪我でないのに御心配をおかけして申し訳ありません」
「それは良かった。しかしちょっと手当が雑なような。自分でやったのか? そのままだと龍身様もご心配になられるだろうから、僕が手当のやり直しをしましょう」
言葉には強い意思が通い有無を言わさぬ力が込められていたためにジーナはいいえを言う間もなく手を取られ動けなくされる。
この人にこんな力があるとは知らなかったとジーナは二度驚くなか、手が伸びて来るのがやけにゆっくりと見えた。
「いえ、お見せするものではありません」
かろうじて声が出るも手は止まらずにその腕の影に隠れていたルーゲンの顔が少しだけ見えるも、それはいつの日にか知らない人の表情であった。この手の目的は、いったいなにを?
「ああいけませんよルーゲン師。そのようなことをされては龍身様がお怒りになられますよ」
ルーゲンの手が止まりその表情は真顔に戻るも、声はまだ諦めてはいなかった。
「お時間のことでしたらまだあるはずですが」
「いいえ、そういうことではなく龍身様からその傷の手当はキルシュに指名されているのです。だから今のままでないといけないのですよ」
ルーゲンは動揺しながらもそれを抑えようとする表情でシオンの方へ振り返り、尋ねる。
「この場合ならハイネ嬢が適任ではないのですか?」
ジーナは心臓が跳ねたのが分かったがルーゲンにこの顔が見られずにすんで助かったとどうしてか思った。
「キルシュです。言いたいことは分かりますよ彼女は手当が下手過ぎて駄目だって。でもですね練習は必要です。そのためには練習台も必要なのです。常々キルシュの手当てに不満を覚えていた龍身様はこれを幸いにジーナの傷の手当をさせることにしたのでしょう。私は一目見た瞬間にキルシュのだと分かりましたし龍身様もすぐに分かるでしょう。これは間違ってもルーゲン師やハイネのものではないと」
やはり一発で分かったのか良かったがこれって実験体にされたのでは? ルーゲンの手はまだジーナ頬の前で浮いている。これに触れさせてはならない。
「そういうことですルーゲン師。御指名ですので必要な限りキルシュに任せることに致します」
ジーナの声にルーゲンは反応しこちらに向き直るもその表情は苦さはあるものの、努めていつもの表情に戻ろうとしているようであった。
「そういうことですか……それとジーナ君」
すっかりいつものルーゲンの声に戻ったことをジーナは分かった。そう聞こえた。
「次回の講義は君にとっても気になるであろう話を詳しくするつもりですから、これまでのことを復習しておいてください。あなたがやる気になってきてくれて僕もバルツ将軍もとても嬉しいですよ、では」
会釈をしてルーゲンは階段を降りていくのを二人は見送りジーナは言った。
「相変わらず親切な人ですね」
「どうでしょうね」
えっと上を見ると厳しそうな表情をしたシオンがそこにいてまだ階段の先を見ていた。
「いえ気になさらずに。まぁジーナには特別優しい気がしますね。ヘイム様同様に講義をしてくれたり手当をしようとしたりと」
「けれどルーゲン師は誰にでも親切で」
フッ、とシオンは鼻で笑いそれ以上もういいと合図を送ってきたためジーナは黙る。
「なにかあなたに対して思うところがあるのでしょうね。期待するなにかがおそらく。それよりも早く行きましょう」
急かされてジーナは階段を昇る最中に考えた。シオンのあの妙な態度は? 期待されるものは何であるのか?
それにルーゲン師は私をどう見ているのか? ときたま見せるあの憑かれたような顔はいったいなんであるのか? 何もわからないままジーナは龍の間に向かった。
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