第40話 この女はいったいなにを言っているのか?
「先ほどの話のようにそれが龍の力です。龍になるということはつまり、命や身体はもとより名と過去といったその全てを捧げること。そうでありますからかつての龍の元々のお名前は誰も覚えてはおりません。記録を見れば名は出て来るでしょうがそれは記号に過ぎないのです。ですから龍はその時代においてひとつだけ。我々の戦いはそれを証明するためのものなのです」
「中央のではなくこちらのが真の龍だということだな」
ジーナが聞くとハイネはしっかりと頷いた。
「そうですよ。順調に記憶が消えている辺りが疑いようのなさを感じますもの。実を言うと武官学校を出る前にも私はヘイム様には何度かお会いしているはずなのです。前にもお話ししましたっけ私は……あっこれから自分語りをいたしますけどジーナさんは私に興味あります? なければ飛ばしますけど」
また話の腰を折られたためジーナの姿勢は崩しながらハイネに対して文句を言う。
「いまいいところなのにそれはないだろう」
「そうですよね、いいところなのに私に関する無駄な話をしようとするなんて、それはないですよね。わかります」
「わかっていない。興味があるので飛ばさずに話してください」
「何に興味がおありでしょうか? 私には、分かりません」
突然態度を一変させたハイネは横を向き髪をいじり始めるが、そのわざと臭さ、ある意味で親切な演技であるもののそれはジーナにそれが分かるはずもなく、またもや不可解の森に迷い込んでしまい、なんてめんどくさいのだと思った。
「あの、そのハイネさんの話に興味があります」
「嘘ばっかり」
つまらなそうなその呟きがジーナの心に突き刺さりハイネの肩を引いた。
「そう、嘘。ヘイム様とハイネさんの話を私はどうしても聞きたい」
ハイネの険しいその表情は静かに崩れ皮肉っぽい笑みとなる。
「駄目ですよ。その両方を同じに扱っちゃ。私とあの人は、全然違うのですから同じにしないで。そう違うのですよ身分ってものが。あちらは龍の一族こちらは中央の小さな貴族の娘。並ばせることなんて、できはしません。私は武官学校でシオン様と出会い伝手を得て、ここへの道が開かれたのですが、でもあの御方はそのことを覚えてはいないでしょうね。記録ではそうであったようですが私も今じゃ完全に忘れております。そのようなことがあったのかが幻かなにかのようで。そう、最近ですと武官学校を出て仕官した後のあの御方が龍身になられる前のお姿すら、いまいち思い出せないのです。それに伴い御性格も……会話の内容も……あやふやなままこのま消えていく気さえするのです。だから、ジーナ」
ハイネは指先で傷当ての上を撫でた。鈍い痛みが頬の上を走りハイネは微笑む。
「この傷と同じようにいずれは消えていくので、記憶することはほぼ無意味なことですよ。
みな忘れてしまいます、私もあなたも誰もが。それでいいではないですか」
ここにこんなに広い空洞があったのかと思われるぐらいに冷たい風が心の中に吹いているのをジーナは感じていた。
これはどんな感情なのだろうか? きっと良くはない感情なのだろう、ただ言葉にはできないままその冷たさに耐えていると、立ち上がったハイネが正面にまわり両手で顔を包み込んできた。
掌の温もりに包まれながらジーナはその顔を見て思う。冷たい顔だ、と。
「大丈夫ですよ。ヘイム様もヘイム様で自分のことを皆のことを、全て忘れていくのです。何故ならあの御方は龍になるものなのですから」
反射的にジーナは瞼を閉じるとハイネの手に力が入り熱も上がった。
「そうであるから我々はできる限り他の大切な記憶は残さないといけない、そう思いません?」
「思わない」
壊したい、という思いが来て、この言葉によってそれができるのなら……とジーナはそれを口に出すと同時にハイネの掌の熱も更にあがるのを感じた。
その力を熱を、意思と命を。
もしも可能であるのならハイネはその掌と熱によって私を傷をつけたいとでも思っているのだろうか? だがそれは痛みからもほど遠く傷までには到達できない。すると暗闇の中、息を吸う鋭い音が、聞こえた。
なんだ? と思った瞬間、額に衝撃と痛みが走り、その掌から離れジーナは岩の上から転がり落ちうずくまる。
なんだ? とジーナはまた思う。なんだこの額の痛みは? 額に手を当てうずくまるジーナは目を開き混乱極まる頭の中で状況を整理する。
あの状況で、これは、つまり、いま自分はハイネから頭突きを受けたというわけになるが、なんで? とループする混乱に理解が追い付かないでいると、声を掛けられた。
「大丈夫ですかジーナさん?」
この女はいったいなにを言っているのか?見上げるとハイネが同じく額に手を当てながら心配そうな表情をしている。
怒りや痛みなどよりもその不条理さに対する恐怖が強く足を動かすことができない。
「立てますか、ほら手を出してください」
そうだ立てないのだから、立たないと。まずは立たないといけないとこの混沌とした思考から離れたくジーナは左手を出すと、拒絶された。
「違いますよ、右手です」
もう本当になんなんだと苦悩が額の痛みに加わり、理由など聞かずに右手を出すとよく知った熱のハイネの掌が優しく握ってきた。
「これです。私の場合は右手だと、忘れずによく覚えておいてくださいよ」
なんでだろうとジーナは思うもこれ以上思考を増やしたくないので大人しく従い、導かれるままに立ち上がりハイネの顔を見ると笑顔であった。間違いなく今日一番の。しかし今日は笑顔をよく見るな。
「痛かったですね」
微塵たりとも悪びれずにそう言うためにジーナは考え直す。もしかして頭突きとは違うなんらかの事故なのかな? それなら話はわかる。
「でも私も痛かったのですよ。頭突きとか生まれて初めてしました」
全く無駄な思考であったと判明しジーナは考える。その頭突きの理由を。だがこれは問うていいのかとも思いながらも、踏み込んだ
「あの、ハイネさん? 頭大丈夫?」
「……あまり大丈夫じゃないです」
それはそうだな、もともとちょっと……とは思うもののジーナはハイネの髪をを掻き分け額を見ると、少し赤くなってはいた。
「一応薬でも塗ろうか」
そう告げるとハイネは堪えられないといったぐらいにクスクスと笑い出した。
「凄いですよジーナさんって。頭突きをしたのは私なのにそのぶつけてきた方を心配して手当をしようとするなんて、頭ダイジョブですか?」
こうなるともう怒鳴ったりして勝てる次元ではないとジーナは察し違う路線で戦うことにした。
「いやねハイネさん。例えば岩に卵がぶつかってきたら岩は卵を心配しますよね。大丈夫かって」
「あなたらしくもない上手い例えですね。どうしました? ショックのあまり慈悲に目覚めましたか?」
「どちらかというとハイネさんの方がおかしくなっていましたよね。あの頭突きとか」
「あれはあなたが、悪いのですよ」
そうなのかなぁ? と真っ先に疑問が来て首をかしげると、額が開かれている状態となっているハイネと目が合うと微笑んだ。
「そうですよ」
何故心が読める? と思うものの、もはや彼女はそれが普通にできそうだなというぐらいの妙な信頼感を抱き出していた。
「大切な記憶を残しましょう、と言ったら真顔で切り捨てるとか、客観的に見てあなたはおかしいですって。それでもってこんなに全否定させられたら私はあの場で泣けばいいのか怒ればいいのか笑えばいいのか……けど、どれもこれも想像すると自分がより惨めになるものばかりだと思えたので、だからこうしてやりました」
まるで意味が分からないがそう言われてみるとあの発言は軽はずみで怪しく問題だったなとジーナは分かったため、ここでも怒りは湧いては来なかった。
「痛いですか傷つきましたか?」
ハイネの手が今度はジーナの髪を開き額に触れる。
「痛いし傷ついたといえるが」
「それなら良かった。あっ怒らないでくださいね、いいじゃないですか。あなたは傷だらけなのですから、私からの傷がもう一つぐらい増えても」
「額に集中しているな」
「そういう縁です。なんか薬を塗るのがめんどうなので、この手で治しますね」
治るわけないだろうと言いたくなるもジーナはやめた。今日はきっとそういう日だったと諦めて為されるがままにされることを選んでいると、ハイネが言う。
「ジーナさん……自分だけ治ればいいのですか? あなただけが痛いんじゃないんですよ」
「そうだな、ああほんとうにそうだな」
言われるがままジーナは右手をハイネの狭い額に手をこれでは上が見えなくなるのも構わずにジーナは覆い尽くす。
「苦しくはないですか?」
「全然平気ですよ。そういえばジーナさんって体温低いですね。フフッ冷たい人」
「そういうのならハイネさんの体温は高いから温かい人なんですかね」
「……私は冷たい女ですよ」
「そこは、微妙に違うと思うが」
一つ熱が上がったとジーナは掌でそう感じた。
「頭がおかしい女という意味でしょうか?」
「頭突きをするぐらいだからなぁ」
「良い思い出を拒否したものにはこういった痛い思い出がふさわしいのですよ」
何もこんな苦しい思いが欲しいとか言ってはいないというのに。
「あの、これはいつまでやれば治ったことになるのか?」
「それはあなたが決めることですよ。私には分かりませんし」
「ええっとそちらはどうなのか?ハイネさんが治ったと言ったら」
「いいえ」
有無を言わさぬ口調でハイネは言い切る。
「でもあなたが治ったと言ったら私も治ったということで、いいのですよ。そうしたら同時に手を離しましょう。一緒にです」
とうに痛みが引いていたジーナは離すよと言いながら手を引くとハイネも同時に手を引く。
だが熱も離れ冷たさが身体を覆う寸前に無意識にジーナは右手でハイネの手を握った。
「右手ですね。はい、それでいいのですよ。しっかりと覚えておくようにしてくださいね」
ごく普通に当然のように受け入れ手を握り返し立ち上がった。
「戻りましょうか。そろそろキルシュも連れて帰らなくちゃいけないですし」
いつの間にか日が暮れ始めていることをジーナは初めて知り夕暮れの空を見るとハイネの瞳の色に似た空が広がっていた。
「次回があれば敷布をもってきますよ。私は忘れませんからジーナさんも忘れないでくださいよ」
夕空の光線が辺りに満ちハイネの要請に対してジーナはきちんと答えを、告げた。
「忘れるわけがないのだから、安心してくれ。この痛みは消えてもきっと覚えているから」
すると茜色の空が深まるのを見ながらハイネは手を強く握り返した。
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