第10話 ヘイムだ

 その言葉は心に反発もなく無抵抗のまま染み入って来る。


 思っていることをそのまま言われ、すんなりと心の欠落部分に収まることによって生まれる真実のみが与えてくれる快感を感じた。


 だからジーナを龍身を見据え言葉を放った。


「ええ、おぞましいです……龍とは、龍となるものとは」

「そうか、そうか」


 その表情には変化がないのにどこか歪みが見えジーナの頬に添えられた右手が熱くなり入り爪が立ち、喰い込んできた。


「ではお前のこれは何だ?戦傷といったものではない文字みたいな、これは……」


 頬はますます熱くまた鈍い痛みが走り広がっているのだろうがジーナはただ龍身を見て思い起こす。


 その憎しみを、その冷たさを。


「龍と、中央にいる龍と戦うために必要なものですよ。龍を討つための……私の聖なる印です」

「なるほど……おぞましいな」


 表情が変わる。歪みは嘲笑へと変わり冷めていたはずの心が熱を発しだし自身でもそれを感じる。


そのジーナの変化の流れを感じ取ったのか龍身は笑い声をあげた。


「ハハッああそうだ。おぞましいな。そうか、砂漠の果てからやってきた龍を討つものはこのような醜い痕をつけねばならぬとは……呪われておるな」


 反射的にジーナの目は見開き右手が龍身の左あごにかかり首をあげさせた。


だが、そこには怯えの色は無く未だ嘲笑っている。


「そちらこそ呪われている」

「お前とは違うぞ。これは祝福であり奇跡だ」

「その左半身の惨状が?」

「だったらこの痕の無惨さは何だ?この傷ものが」

「ならそちらは壊れものだ」


 自身の言葉にも興奮し心臓が強く鳴り駆け出す音をジーナは聞きながら、その右手が発作的に龍身の顎から顔に掛かると手が突然に止まる。


 いま、私は、なにを、見た? 

 

 ジーナは知らない女を見ている。


 それは意識の上で突然現れ、こちらを見ている。今まで見なかった龍身のその右側。


 見ているのが底抜けの闇ではなく空を思わせる澄んだ青の瞳。


 だからジーナは、男は問い掛けた。


「どうしてそうなのか……いやあなたは誰だ?龍では、ない?名は?」


 その青は広がり、それから答えようとするが男は制した。


「違う、違う、それではない。いまは違うはずだ」


 言葉に反応し瞳の色が強まり、まるで血によって滲んでいくように透明ではなくなっていくその青。


「あなたの名を私に教えてください」


 答えぬ青は色濃く濁りつつあった。そこには血の温かみさえ感じられる。


「私は知っている。だが、あなたが私に伝えるべきだ。私が、問うたのですから」

「ヘイムだ」


 濁った青は答えると解けるように手が離れ男の手も離れ、互いの手が宙に浮かべたまま二人は視線を合わせた。


 瞳の青さは色が引き始めたが元のような澄み切った青には戻らずにいる。

 それを見ながら男は思う、私は何をしているのかと。


 龍に対して私は……いまこのようなことをして……男はジーナは我に返り踵を返す。


「失礼いたしました」


 もう見てはならない。もう終わったのだ。


「バルツ様とルーゲン師にお話をし、役目を辞させていただきます。それに処分も願います」


 扉に向かう足取りは重くそして深く沈んでいく感覚の中でジーナは思う。


 やはり、私であってはならなかった。


 他の誰もこのようなことにはならない。この自分を除いては、決して。


 ここまで隠し続けることができたのに……あろうことか本人に……まだなってもいないものに……逃げ出すようにしてジーナは進みしがみつくようにしてドアノブに手を掛けようとするも、震えて掴めない。


 開かなくては、とジーナは焦る。早く扉を開いて、遠くへ行かなくては。扉を開き、閉めて、終わらせて。


「どこへ、行く?」


 声が掛かり震えが止まる。これなら扉を開けてすぐに外に出られるのにジーナの足は動かぬまま、背後から迫り来る杖の音を聞きながら待っていた。


 なにを、待っているのか?


「辞める、か。そうかそうか、実に不快であったからな。当然のことだろう」


 ジーナは振り返ることもせず近づきつつある声に対し、言った。


「当然のことです。ですのでこのまま忘れてください」


「逃げるな」


 背中越しに杖が床を強く叩く音が聞こえた。いつの間に、こんなに近くに?


「忘れろ、だと?忘れられるわけがないだろうに。このことはバルツとルーゲンに詳細に伝える。慈悲はない、諦めろ」


「覚悟しています。では失礼します」


「こう伝える。たいへんに素晴らしいものであったとな。今までで一番役立ちそうな護衛だ。しかし本人は緊張のあまりおかしなことを言うであろうから相手にしないように、とな。次回からも来させるように、以上。お前が何も言ってもただやめたいだけの強弁だと受け止められるから無駄なことはよすがいい。だいたいやめる?馬鹿なことを申すな、シオンだけにあの石組みを片付けさせる気か?明後日も今日と同じ時間に来い、いいな」


 ジーナは振り返りたくなる衝動を抑えながら問うた。


「何故です?」

「振り返れ」


 命ぜられると時が止まり静寂が訪れジーナの息も止まり、ただ意識が動いていた。


振り返るな、とジーナは自分に命じた。絶対に振り返るな……だが、どうして?


「妾を見ろ」


 こんなに求められているのに……導かれるようにジーナが振り返るとそれは眼の前にいて、視線を合わせまた問う。


「それで妾は誰だ?」


 そんなのは聞くまでもなく、と言おうとすると顔が左右に揺れる。


「違うそうではない。言え。お前が妾に伝えるべきだろうに。妾が、問うたのだからな」

「ヘイム……ヘイム様です」


 鈍い光が宿る瞳が笑い身体が少し仰け反るも、だがヘイムの表情には笑みはなかった。


「龍身、とは呼ばぬようだな。違うな、呼べぬようだな。それはひとえに……龍への信仰がないから、そうだな?」


 ジーナは右半身のヘイムだけを見つめた。それだけ正視し見つめることができる、と気付いた。


「はい、そうです。私にはそのような信仰はありません」


 ヘイムは手にしている杖を振り回してからその先端をジーナの鼻先につけた。


「儀式を通じてお前に……そなたのようなものにも龍の偉大さを教えてやる。これもまた妾の使命であるしそれと同時に龍への御奉公ともいえよう」


 微動だにしないジーナは突き付けられた杖がヘイムの身体を左右に明確にわけているのを見ながら言った。


「ひとつご許可をいただけませんか」

「やめたいという願いでなければ言うてみよ」


 険しい表情のヘイムに向かってジーナは言う。


「あなただけを見させていただきたい。あなたの名だけを呼ばせていただきたい」


 聞くヘイムの表情は変わらず瞳の色も変わらず、何ひとつ変化を見せずに答えた。


「許可してやる。怪しからん野蛮な不信仰者め。龍の偉大さをその身体と心に叩き込んでやる」


 手首を返しヘイムは杖で以って右の床を三度突きジーナはそこに視線を送る。


「そう、こっちだ。基本そなたは妾がいる時はこちら側にいろ。いいな間違えても左側には行かぬことだ、不信仰と不敬の塊であるそなたが龍身を見ることを禁ずる。信仰に目覚めるまではな」


「感謝いたします……ヘイム様」


 その名を改めて口にすると口の中で何かが砕け舌の上に無数の塊が散らばりそれ以上の言葉は何も出せなくなった。


「ではまた明後日に必ず来るのだぞ。帰るがよい……ジーナ」


 互いの名が交換されたのを確認するかのように最後に一瞬だけ視線を合わせ、それからジーナは口を閉ざしたまま扉を開け外に出る。


 廊下の途中で口の中に指を入れるも、そこには何も無く何も出てくることは無く、なにかが砕けたという感覚だけが残っていた。


 ……私は、何を砕いたのだろう?

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