第11話
「ロイ、さすがに人使いが……」
イアンは小言を言おうと教授室の中に入ったが、デスクの前に立つロイの姿に、言葉尻がつぼむ。
「おはようイアン。怪我は治ったようだな」
窓から差し込む陽光が、短く切られた黒髪を艶めかせる。
よれよれの白衣は消え、ぴしっと皺一つない白が目に痛い。
「え? か、髪切って? ふ、服も……」
イアンの知っているロイは髪を結んでいた。服装になんて気をつかう人間じゃない。だからこそ、今目の前にいる麗しい美男子が、ロイだとは信じられなかった。
「あーその、これ以上お前に嫌われないようにだな……」
ロイは口ごもる。何を言っているのか聞こえなかったが、そんなこと、イアンはどうでもよかった。
「かっこいい! かっこいいよロイ!」
「え? そ、そうか?」
「うん! うん! とっても素敵だよ!」
イアンは興奮が抑えられない。ロイが恵まれた顔とスタイルを持っているのは知っていたが、服装と髪を整えるだけで目を見張るほど輝くとは。
今のロイに以前のやつれた面影はない。ちゃんと睡眠も取ったのか、赤い瞳も光を受けて煌めいている。
大学で研究に没頭する前のように、誰もが振り向く美貌を取り戻していて、イアンは自分のことのように嬉しくなった。
「なら……よかった」
「髪に固形の香油をつけたの? 前髪わけてるの似合うよ」
イアンは少しだけ背伸びをして、凛々しい眉にかかりそうな髪へ手を伸ばしたとき、ロイが一歩後ろに引く。
「ば、ばか! お前、近すぎ!」
「え? でもお互い抑制剤飲んでるし、そこまで過剰に反応しなくても……」
イアンは他のアルファの匂いは嗅いだことがあっても、ロイの匂いは一度も嗅いだことが無い。それぐらい徹底しているのに、何を今更心配しているのかと疑問に思った。
「それでもだ! お前はいちいち距離が近い! 少しは考えろ!」
「ご、ごめん」
イアンは伸ばした手を引っ込め、しゅんと落ち込む。するとロイは慌てて
「いや、その、そこまで落ち込む必要は……」
とごにょごにょ言った。
(……ロイが焦ってる?)
その様子に、イアンは目が点になった。
昨日までのロイならこんな些細なことは気にしない。多少きつい言葉で自分が傷ついても、無視か目を逸らすだけだ。
なのに今の反応はなんだろう。自分が悲しむのが、まるで嫌みたいだ。
「そ、そんなことより! 昨日の話は覚えてるか?」
「え? あ、うん」
ぱっと話をそらされ、深く追及する前に話題が移る。
「よし。それじゃあさっそく、今日はお前に運命の相手と番うより楽しいことを教える」
「え! あれ本気だったの!?」
嘘でしょ、という目でロイを見ると、怒った声が降ってくる。
「あたりまえだろ! そのために白衣を着て来てもらったんだ」
指さされた白衣に視線を落とし、顔を上げる。こちらを見つめるロイの瞳に虚偽はない。
「今は何もわからないだろうが、とりあえず言うことを聞け。そしたら運命の相手と番うより楽しいことが待ってる」
ふふんっとロイは自信ありげに笑みを作る。その表情が子供っぽくて、イアンは少しだけ気が抜けた。
「は、はぁ…」
ロイはイアンの返事を肯定と受け取ると、今度はレイピアを指さして
「そいつを置いていけ」
と言う。
「え? レイピアを?」
護身用のレイピアを置いて行ったら、近衛騎士としての仕事を、放棄するということだ。
イアンは、さすがに無理だよ……と言おうとして、有無を言わさないというロイの眼光に、うっと口をつぐむ。
(今日のロイは、いつにも増してわけがわからないなぁ……)
身なりを綺麗にしているのも、イアンを気にかけるような素振りも、これから連れていかれる場所も。どれもこれも謎だ。
ただ、ロイは昔からそうだった。
突然言い出し、イアンを振り回す。近衛騎士にできることといえば、言うことを聞くだけ。
「はぁ……」
本日三度目のため息が出た。二度あることは三度ある。イアンは二度目に気づくべきだったと反省した。
(でも『運命の相手と番うより楽しいことを教える』なんて冗談も、大人しく言うことを聞いていたらすぐに飽きるでしょ……)
イアンは十年側に仕えた経験からそう判断し、レイピアを床に置いた。
「よし、そしたらこっちにこい」
ロイは教授室を出る扉の前まで行くと、白衣のポケットから大量の鍵がついた鉄の輪っかを取り出す。
「今日はこの鍵だな……」
どれも同じような鍵の中から、ロイは一つを選び鍵穴にさした。
「あれ? これからどこか行くんじゃないの?」
「ああ、そうだ。これから行く場所は、教授室から出ないと行くことができない」
ロイの言ってることとやってることが違いすぎて、イアンは頭にいっぱいはてなが浮かぶ。そこにまたはてなが一つ増えた。ロイが右手を差し出したからだ。
「えっと、これは?」
「手を繋がないと、この先にはいけない」
「それ本当?」
「お前だけで入ろうとしたら、全身が塵になる」
「えっ!? そうなの!?」
一瞬ためらったあと、イアンはロイの右手をぎゅっと握る。
久しぶりに握ったロイの手は、節くれだった大人の手に成長していた。十年前に初めて出会った頃の、弱々しい感触はどこにもない。
(あの頃はよく手を握っていたっけ……)
それこそロイが天使のように可憐だったときだ。離宮に勤めるベータの使用人が、ロイのフェロモンに惑わされ、おかしな行動をとることが多々あった。その度にロイの手を引いて、あちこち駆け回っていたのだ。
柔らかくほっそりした手。離れたらすぐに散ってしまいそうな儚さ。どれも守らなければと、使命感を燃え上がらせるには十分だった。
あれから数年。現在では、イアンの方が頼りない手をしている。
(……もう君を守ることはできないんだね)
さらりとベータへの憧憬が流れた。不意の寂しさに、息がつまる。
「イアン、大丈夫か?」
「あ、ごめん……なんでもないよ」
そう。なんでもないのだ。ベータだったときの記憶は完全には無くならない。たまに過去を夢見てしまうのは、ふとした段差につまずく感覚に似てる。
避けられないし、わずかに痛む。だからそのたび、イアンは心で唱えた。
——置かれた場所を嘆く暇があるのなら、凛と美しく咲くわ。
脳裏に咲く一輪の花が、イアンを勇気づけるようにゆらゆらと揺れる。オメガになって減ってしまったものには目を向けないで……と。
「うん……俺は大丈夫」
また無意識で首を撫でていた。締めるように触っていた手を離し、ロイに向き直る。
「……わかった。じゃあ行くか」
ロイは目を伏せ、ドアノブに手をかけた。
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