第33話 第二夜/終わらない夜の底で
ふと、カナリヤが鼻をくんくん鳴らしてこちらを見た。
「……なんか、動物の匂いがしない?」
一瞬俺への罵倒かなんかかと思ったが、彼女は俺よりも奥の方を見ているようだった。
「さあ……俺にはわからないけど」
「先客がいたのかな。奥の方、よく調べないままだったから。なんか見える?」
言われるままに目を凝らしてみたが、暗闇には何も見えなかった。だが、確かに洞窟はまだ奥へと続いているようだ。
「いや、何も……」
俺が首を横に振ると、カナリヤは目を細めて洞窟の奥を見やった後、手近な小石をひゅっと奥へと放り投げた。小石はいくつかの反響音を残しつつ、闇へ呑まれて消えていった。それから、遠くでさらに小さくからんと音がした。
「奥に広い空間がある。結構深い。『赤』が野生の獣に気づかないで寝転がってたなんて、不用意だったな……やっぱ本調子じゃないんだ。やんなるな、自分が無能みたいで」
自嘲気味に言って、尖らせた唇からぷーっと息を吐く。拗ねた子供のようだ。
「奥に熊でもいるってことか?」
もとより痛覚がない上に、このループのおかげですっかり生死の重みが薄らいだ俺は、熊に食われるぐらい大したことでもないような軽さで尋ねた。
「さあ、犬か何かかも。草食動物の匂いではないかな。でも気配はほとんどないから、寝てるのか死んでるのか……放っておいてもいいけど、なんか落ち着かないね。始末しとこっかな」
カナリヤは平然とそう言って、俺の方に近寄ってきた。洞窟は天井が低く、自然と屈み込む形になる。そして俺のすぐ隣まで来ると、ふと立ち止まった。
「んー……もっと平べったくなれる?」
どうやら寝そべる俺を乗り越えるのに抵抗を感じたらしい。確かに、すでにだいぶ距離が近い。このままカナリヤが通り抜けようとすると、ほぼ俺の眼前に覆い被さることになる。俺はともかく、向こうは嫌だろう。
とはいえこのボロボロの体では立ち上がれないし、避けるにも避けようがない。というか「平べったくなる」って具体的にどうしろってんだ。
「……無理だろ」
俺が左肩をすくめると、カナリヤはちょっと嫌そうにため息をついた。
「そ。じゃ、じっとしてて。間違っても……いや、いいや」
カナリヤは言いかけた言葉を飲み込んだ。おそらく「間違っても触ろうとするな」と言おうとして、途中で俺が片腕なのを思い出したんだろう。まぁ必死にやれば手を伸ばせないことはないが、さすがに最後の体力を振り絞ってまでそんなことをする奴ではないという程度の信頼(?)は得られたらしい。
カナリヤは口にナイフの柄をくわえ、両手を地についたかと思うと、俺と洞窟の天井の間にするりと体を滑り込ませた。
「…………」
顔が近づいた一瞬、どこか古めかしく懐かしいような匂いがした。死んだ婆ちゃんちの高価なタンスの引き出しみたいな――女子の匂いを表すには妙なたとえが浮かぶもんだ。
奥を慎重に探っているのか、思ったよりもゆっくりと進むカナリヤ。おかげで、ちょうど俺の顔の前で彼女の胸のふくらみがしばらく行ったり来たりしていた。くそっ、細身だと思ったが案外大きい。だからなんだっていうんだ、この状況で……。
「……!」
俺の真上で、カナリヤがふと動きを止めた。視線を向けた先がバレたのかと思ったが、そうではなかった。
「なに? 何か――」
不審がるようにつぶやきながら、カナリヤが洞窟の外へと振り向こうとした瞬間。
――コン、と音がした。
それから唐突に、ずしんと俺の体に重みがかかる。
「ぐぇっ……」
肺から空気が押し出され、思わず声をだす俺。胸元には緑色の髪に包まれた頭が乗っかっていた。
「おい、カナリヤ?」
なにがなんだかわからぬまま、のしかかってきたカナリヤの体を押し返そうとする俺。だが、反応はない。片腕ではうまく体を支えられず、俺は身をよじることしかできない。
「カナリヤ?」
馬鹿みたいに繰り返し名前を呼ぶ。呼吸が荒くなる。もう、薄々気づいていた。布越しに伝わる温かさ。不思議な匂い。その全てに、一瞬前とは違う虚ろな闇が混じっていて。
「カナリヤッ!」
叫び声をあげて、左腕で無理やり彼女の頭に触れる。指が濡れるのを感じる。そして、そこに現われた異物を。
「あ……あ、う……」
それは突き刺さった矢だった。真っ直ぐに、生き延びる可能性など万に一つもないように。中心の中心を射抜いていた。
やがて、ひたひたと足音が聞こえた。誰のものかは言うまでもない。
「ユージーン……」
俺は力無い声で呼んだ。やはり返事はなかった。
ユージーンは無言で俺のすぐそばまで来ると、射殺したカナリヤの死体をじっと見つめ、それからおもむろに物凄い力でその頭をひっつかんで洞窟の壁に叩きつけた。
「あああっ!」
言葉にならない、怒りと苦痛に満ちた叫びをあげながら。
「あーっ! ああーッ!」
ユージーンはすでに事切れたカナリヤの体を何度も殴っていた。
止めてやりたかったが、俺にはとても声がかけられなかった。いつも表に出さなかったこいつの感情が、こんな形でむき出しになるのを聞くのは辛かった。俺が痛みを感じないなんて、嘘だろうと思うほどに胸が痛かった。
そのうち疲れ切ったのか、ユージーンは俺の方に近づいてぐったりと横になった。子犬のように丸まって、べそをかいて泣いていた。
「……汚れてる」
赤く染まった自分の手を見て、ユージーンがつぶやいた。
一瞬だけ、カナリヤを殺したことを責めたい気持ちが湧いて、それからすぐに消えた。おかしいのは俺の方なんだ。ヴィバリーとアンナを眼の前で殺した相手に、まるでなかったことみたいに気を許して。
それでも、どうしようもなく悲しかった。誰も――俺だって、ユージーンだって、カナリヤも、ヴィバリーも、アンナも。こんな凄惨な殺しあいのためにここまで来たわけじゃないのに。ただ、森を抜ければいいだけのはずなのに。
徐々に、洞窟の中がうっすらと白み始めた。日が昇る。また、夜が終わる。
薄れる意識の中で、俺は何も見ないようにと目をきつく閉じた。これで終わりだ。何もかも、元に戻る。次の夜に起こることも大して変わりはないのだろうと、心のどこかであきらめが湧くのを感じながら。
「わんちゃん、泣いてるの?」
そしてまた、俺はコララディと暗闇で向き合っていた。俺はその質問を無視した。
「……これがお前の魔術なのか? そんな何も知らないような顔して、俺たちがああやって無茶苦茶になるのを眺めて笑ってやがるのか? 魔術師って奴らは……」
俺の八つ当たりみたいな言葉を、コララディは期待通りに微笑んで受け流す。
「私はそんなにすごい魔術師じゃないよ。ただ、夜を繰り返すだけ。本当にそれだけ」
コララディは抱えた枕を暗闇の底にぽとんと置いて、その上に腰掛けた。
「この夜で起きることは、すべて起こるべくして起こること。私は人の心なんて変えられない。だから何も止められない。因果は因果。ゆがめる力は、私には、ない」
冷徹で、正しい言葉だ。
「だったら、どうしてみんなおかしくなる……?」
内心答えを知りながら、絞り出すように俺は問う。
「誰もおかしくなんかないよ。みんな人間、みんな騎士なんだもん。戦って殺すことが仕事なんでしょ。みんな自分で選んだんじゃない。ちゃんと考えて、やりたいことをしたんでしょ」
コララディの言葉に何も言い返せず、俺は黙ってうつむいた。あの時、ヴィバリーがカナリヤを殺そうとしなければ。それとももっと前、砂塵騎士団がカナリヤを射たなければ。きっと誰も死ななかったのだろう。でも……きっと全員がそれを冷静に判断して選んだのだ。殺しあうことを。
俺が冬子を刺した時と同じように。最善のつもりで最悪のことをする。
「わんちゃんは、みんなに仲良くしてほしいの?」
少しだけ、気遣うような声でコララディが言う。
「…………」
答えられなかった。うなづきたかったけれど、うなづくにはあまりにも俺は人間で、理想を望むにはあまりにも汚れていた。「みんな仲良く」なんて綺麗事だと、真っ先に感じてしまう。
そうだ、ユージーン……あいつが最初に言ったんだ。「汚れている」って。出会った時から、知っていたんだ。
「泣かないで、わんちゃん。ヒントはもう出せないけど、あなたが何を望んでも、私は責めないから。……夜はいつか明けるものだってわかってる。わがままを永遠に通せるほど万能じゃないってわかってる。アウラも、私も……」
謎めいた言い方でぼかしながらも、その言葉はどこか俺への哀れみを感じさせた。
「いいよね……私の理想はもうあっちにはない気がするし。ただ、ほんのわずかな幼な心が、夢の名残をあきらめきれないだけ。だから永遠の夜の国は、こっちで見つける方がいいって……」
「何の話だ……?」
さすがについていくなくなった俺が聞くと、コララディは笑った。
「ううん、今のはアウラに言ったの。わんちゃんには見えないけど、さっきそこにいたから」
アウラ……名前ばかり出てくるわりに、一向に姿の見えない
「大丈夫、きっとあなたが勝つよ。トウゴくん。あなたがあきらめない限りは。この魔術に満ちた世界でも、人間はずっとそうしてきたんだから。血を流して、傷つけて、そうやってもがきながら……」
彼女に自覚はないのだろうが、それは呪いの言葉だった。俺があきらめれば、この繰り返しは永遠に続く。そして、俺たちはこの閉じられた森の中で、何度となく殺し合い続けるのだ。救いもなく、希望もないままに。
「……いやだ」
「そう? だったら、やめてもいいんだよ。魔術を解かなくてもいいんだよ。受け入れて、一緒に踊ろう。美しい夜を楽しもう。次の夜には、じっと空を見てご覧……呑まれるようだよ、きっと。喧嘩が嫌なら、そうやって過ごせばいいんだよ。みんなが……星の……」
コララディの声は少しずつ小さくなって、やがて聞こえなくなった。
「トーゴ、どうしたの?」
意識が戻って、聞こえてきたのはヴィバリーの声だった。俺はまた同じ夜の始まりに戻ったのだ。
問いかけには答えずに、俺は荷物を抱えたまま星空を見た。コララディの言う通り、綺麗な空だった。けれどそれは憧れるには遠過ぎて、自分がこの夜の底に囚われていることをかえって深く思わせるだけなのだった。
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