第13話 命の取引
――真っ暗な視界の中で。幸か不幸か、俺はまだ意識を保っていた。
体はおそらく急所をぶっ刺されてほぼ死んでる状態だが……サヴラダルナにかけられた魔術の回復力は、俺が自分で思っていたより強いのかもしれない。徐々に指の感覚が戻り、呼吸が安定してくる。
そのうち、まぶたが少し動かせるようになった。薄眼を開けて、周囲を見る。霧はもうすっかり晴れていた。あの霧の中に、敵が隠れていたんだとしたら――ひとまず、危険は去ったということだろうか。意図してやったわけじゃないが、結果的に上手く死んだふりでごまかせたわけだ。
口が動くようになったので、俺は今呼ばなくてはいけない名前を呼んだ。
「……アンナ?」
返事はなかった。絞り出すように、もう一度呼ぶ。
「アンナ……!」
やはり、返事はない。俺は必死の力を振り絞り、まだぎこちない手足にありったけの力を込めて体を起こした。
「くぅ……っ」
ふらつきながら、ようやく立ち上がる。足元には、大きな血だまり。アンナと、俺の血だ。アンナは俺が刺される前と同じ格好で、血まみれになって倒れていた。
「アンナ……アンナ……!」
刺された女。大量の血。冬子の姿がまたフラッシュバックする。でも今は、そんなことに構っていられない。アンナの顔に、耳を近づける。――息をしていない。
ショックで頭がくらっとするのを感じながらも、どこかでまだ冷静な自分がいた。俺は冷たい人間だ。体の痛みも、心の痛みも感じない。端的に言ってクソ野郎だ。クソ野郎である唯一の利点は、こういう非常時にも少しは冷静でいられること。
落ち着いて、耳をアンナの胸元に近づける。体はまだ温かかった。心臓の音は、聞こえない。俺は少し躊躇したが、血まみれの服の上から、乳房の間に思い切って耳を押し付けた。
とくん、と――小さな、小さな心臓の音がした。生きてる。かろうじて。安堵でその場にぐにゃりと崩れそうになるが、実際まだ状況は何も良くなっちゃいない。いや、現実的に考えればもう手遅れなのだ。
アンナの大柄な体は、俺の力じゃヴィバリーたちのところまで運べない。二人をこっちに呼んでくるか? だが、二人も襲われているかもしれない。たとえ無事に連れてこれても、医者でもない二人に大した治療ができるとも思えない。アンナの死はもう、避けられない。
だが、それは――現実的に考えればの話だ。
「キスティニー! いるんだろ! 出てこい!」
この状況を覆すには、非現実的なやつの力がいる。俺はなりふり構わず、ありったけの声でキスティニーを呼んだ。彼女は俺が叫び終えると同時に、俺の目の前に立っていた。
「……うっふふ。誰かに呼ばれるって結構いい気分かも。求められてるって気持ち? 求め合い、言葉を交わし、ギブ・アンド・テイクで社交が生まれる。う~ん、人と人を飛び交う情報のめぐりと、心のめぐりは切っても切り離せないのね」
今まさに死にかけてる俺とアンナを前に、いつもの調子でぶつぶつ喋っているキスティニー。その場違いさに面食らいつつも、俺は自分の要求を伝えた。
「……アンナを助けてくれ。こいつ、このままじゃ絶対に死んじまう。お前なら、魔術で別の場所に連れて行けるだろ。医者でも……誰か、他の魔術師にでもいい。とにかく、助けられる奴がいるところに送ってくれ!」
俺の言葉を聞いて、キスティニーは頰をぷくっと膨らませて、首をかしげた。
「ん~? それ、わたしがやんなきゃだめなやつー?」
あっさりと言うキスティニーに、俺は一瞬あっけにとられた。
「は……はぁ!? 死にかけてるんだぞ、アンナがッ!!」
思わず声を荒げる俺を、キスティニーは不思議そうに見つめた。
「んー……わたし、アンナちゃんは好きだけど、もう彼女は十分見たから死んじゃっても別にいいかなー。この子って秘密もないから、流言師として興味を惹かれる情報はもうないや。全部を知ってる子は、生きてても、死んでてもあんまり変わんない……」
その冷たい、というより無関心な言葉を聞いて、俺はこいつら魔術師がどれだけ「浮世離れ」してるかってことを思い知らされた。俺の冷たさなんかとは比べられない。同情も、共感も、何もない。たとえ元が人間だろうと、こいつらは、本当に俺たちと別の生き物だ。
「それに、今はこのアウラの大領地には転移できない状態だし。ここから離れるのは平気だけど、戻ってこようと思ったらまた馬車でのったらくったら移動しなきゃなんない。置いてけぼりはやーなのよ。シシッ」
そう言って、キスティニーはいつもの妙な音を立てて笑った。無関心な態度――だがその目つきは、まだ俺に何か言いたげに見えた。
「……どうすればいいんだ。俺が何をすれば、アンナを助けてくれる?」
俺がそう言うと、キスティニーは目をすうっと細めた。
「えー? その言い方ってなんか、わたしがトウゴくんを脅してるみたいじゃない?」
「いいから、さっさと言え! 時間がないんだ」
アンナの体は、俺の腕の下で急速に冷たくなりつつあった。もう、本当にヤバい。俺がサヴラダルナにほぼ無事に蘇生されたのは、珍しいことだと言ってたはずだ。完全に死んでしまったら、魔術師といえど蘇らせることは難しいのかもしれない。
キスティニーは焦点の合わない瞳で俺を、そして俺の向こうにあるものを見通すように、じっとこちらに目を向けた。
「……それじゃあ、わたしに秘密をちょうだい」
「秘密……?」
「そう。とびっきりの、誰も知らない、めくるめく、どっきどきの秘密を。そうしたら、引き換えにわたし、なんでもしてあげる……」
キスティニーは血まみれの俺たちを前にして、無邪気に、満面の笑みを浮かべて言った。――まるで、悪魔との取引みたいだ。秘密……俺の秘密。人の命と、引き換えにできるだけの秘密。思いつくのは、一つだけ。
「……わかった。教える」
どくん、と自分の心臓の音が聞こえた。少し、怖かった。だが選択肢はない。アンナの心臓の音は、もう感じられなくなっている。今、言うしかない。
深呼吸して。目を伏せたまま、俺はそれを口にした。
「向こうの世界で、冬子を殺したのは俺だ。事故なんかじゃない。俺が、あいつを……刺して、殺した」
キスティニーは、俺の告白の内容を吟味するように、鼻から息を吸ったり吐いたりして、ふむふむと唸った。
「へぇー、そう……なるほどねぇ。いろいろ納得。シュ、シュ……」
面白そうにぶつぶつと呟いて、目玉をくるくる動かすキスティニー。
「……これで、アンナを助けてくれるか?」
「いーよぅ。近場で済まそうかと思ったけど、美味しい秘密をもらっちゃったから、アドバンチェリのとこに連れってったげる。あの子なら絶対安心だし?」
そう聞いて、俺はようやくフーッと深いため息をついた。こいつの行動原理はよくわからないが、少なくとも嘘をつく奴ではないと思う。
「それじゃ、頼んだ……今の話、誰にも言わないでくれよ」
「ん? なんで?」
きょとんとするキスティニー。血の気が引く俺。
「なんで、って……秘密って言っただろ」
「そう。今まではね。でもその秘密、もうわたしがもらっちゃったから。わたしが好きに使わせてもらうよん。それが取引。嫌なら、このままアンナちゃん放っといてもいいけど」
「……クソが」
苦い顔をしながらも。俺に、拒否権はなかった。動かなくなったアンナの体を、もう見ていられなかった。俺はもうこの数日で、アンナやヴィバリーたちと、元の家族と話した数よりも多く、言葉を交わしてきてしまった。もう、俺は……失えない。二度目は、無理だ。
「うふふ、面白いことにしか使わないから。大丈夫、大丈夫。そっちも死なないようにね。じゃ、行ってくるね~!」
けらけら笑いながら、キスティニーはふっと消えた。
同時に、血まみれのアンナの体も目の前から消えていた。残された血溜まりの中で、俺は唇を噛んで、立ち上がった。まだ何も終わったわけじゃない。ヴィバリーのところに、戻らなければ。
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