もふもふが足りない!
井黒 灯
1匹目 魔界の転生者
魔界。
濃い紫に染まった空には重い噴火雲が漂い。コールタールのように真っ黒な海からは生臭い潮風が吹き荒れる。そして森の奥からは黒煙のような霧が止めどなく溢れ出していた。
「はぁー…」
そんな、おどろおどろしい魔界の真ん中で、小さなため息が聞こえてくる。
ため息の主は一人の若い女性だった。
黒いインナーの上、肩から腕それに腰から足先までを純白の鎧で固めたその彼女は、半身ほどある長い剣を握ったまま立ち尽くし、仕事帰りのサラリーマンのような死んだ瞳で自分の足元を眺めていた。
彼女の目線の先には巨大な《蜘蛛》のような魔物が無数に転がっており、その全てが既に生命の活動を終えていた。
「ああ"ー…」
彼女はぐったりと項垂れたまま、倦怠間を隠すことなく壊れかけの機械のような声をあげた。
その時だった、まだかろうじて息のあった一匹の《蜘蛛》が、同胞の死体の中から目にも止まらぬ速さで這い出すと、そのまま鋭い爪を向け彼女に跳びかかる。
しかしその爪が彼女に届く事は無かった。
彼女はすんでのところで身をかわし剣を握り直すと、鋭い眼光と共に《蜘蛛》の額へ深々と剣を突き刺していた。
「はぁー…」
ギギと断末魔をあげて生き絶える《蜘蛛》を冷たく見下ろしながら、彼女は再び長いため息を吐く。その瞳は既に先ほどまでの虚な死んだ瞳に戻っていた。
「――が足りない……」
彼女は何かを小さく呟くと、身体中に浴びた《蜘蛛》の体液を軽く拭いながらフラフラとした重い足取りで森の出口へ向かって歩き始めた。
―――
「お帰りなさい転生者ハルよ」
村の教会に戻ってきた彼女に、暖かくそして穏やかな声が振りかけられた。
しかし、あたりに声の主の姿は見当たらず。教会に祀られた聖母像だけが彼女を優しく見下ろしていた。
声はステンドグラスの色鮮やかな光に照らされながら続ける。
「西の森、アラクネーの子供達の処理は無事終わりましたか?」
しかし、ハルと呼ばれた彼女は答えず。適当に片手をひらひらとしたかと思うと、そのまま教会の長椅子の上に倒れるように横になった。
声は再び訊ねる。
「それは、無事終わったと受け取ってよろしいですね?」
「………」
「わかりました。ありがとうございます。これでこの辺りの人里が奴らの卵嚢と成り果てることはないでしょう」
ハルは相変わらず何も答えないが、声の主も慣れた様子で続けた。
「では次の依頼です」
「いや、だから早いですって!」
これまで沈黙を貫いてきたハルであったが、これは流石にと言った様子で大声で反論する。
「ねえ女神様、今日だけでもう十回目ですよ?私を酷使しすぎじゃないですか?」
その後も文句を続けるハルだが、女神と呼ばれたその声は臆することなく終始穏やかに続ける。
「いいですかハルよ。何度も言っているようにあなたの使命は、この魔界に住まう人達の安息を守ることです。その事はあなたがこの世界に転生してきたときに伝えましたし、承諾も得ました。それに使命を果たすには十分な力も与えましたよね?」
しかしハルは動じず反論する。
「だからって、流石に働かせすぎじゃないんですか?このままじゃ過労死しますよ」
「一日の9時間の拘束、内1時間休憩の規則は守ってますよ。それに土日の襲撃や残業が発生した際には代休も認めていますよね?深夜対応には割増賃金もつけています。これは元々あなたが居た産業革命後の世界基準で見れば十分にホワイトかと思いますが?それともなんですか?あなたは異世界に来たら働かなくてもいいと思っていたのですか?そんなことはありませんよね、生きて行く上で労働は必要不可欠で、楽な仕事はありません。それはどの世界でも同じかと思いますよ」
「うぐ…」と言葉に詰まるハルに女神は容赦なく続ける。
「良いですか?私は決して魔物を滅ぼせとは言っていません。彼らもこの世界では平等に生きていますからね。でも人間に危険が迫るのは見過ごせません。だから私は、あくまでこの地域に住まう人々だけでも守って欲しいと言っているのです。それはそんなに難しい事じゃないでしょう?」
「…とは言っても私一人に背負わせすぎじゃないんですか?」
ハルは絞り出すようにそう返す。
すると、女神は少し沈黙してから「それに関しては、本当に申し訳ないと思ってます」と一度誤るが、そのまま悪びれもせずに続けた。
「でもあなたにしかできないのです。さあ早く次の依頼に行ってください」
しかしハルが動かすのは口だけで、身体はダラけたまま動かない。
「無理です、もう疲れました」
「教会に足を踏み入れた瞬間に肉体と疲労回復の祝福はかけてありますよ」
「そうじゃないんです!」
「またそれですか…」
相変わらず駄々をこねるハルに、女神は「はぁー」と大きなため息をしてから、重い口を開く。
「欲に囚われた行動は戒律に反しますが、あなたの場合そうもいかないので教えておきます…」
そして、女神は少し溜めてから続けた。
「次の依頼は、全身を体毛に覆われた魔物の討伐ですよ」
その言葉にハルは、昼休み開始のチャイムに興奮する小学生の様に勢いよく飛び上がると、ステンドグラスにも負けず劣らずキラキラした瞳で女神に訊ねた。
「それは、本当ですか女神様!」
「ええ、実物は見てないのであなたの好みに合うかまでは分かりませんが、その魔物の表皮には細かい体毛が沢山生えているらしいですよ」
「それを先に言ってくださいよ!」
そう気持ちよく言うハルは既に支度を済ませており。教会の入り口に立ち女神に早く場所を教えろと急かす。
女神は呆れるように深いため息をついてから場所を伝える。
「村の西側の洞窟です、戯れるのも良いですが目的は忘れないでくださいね」
「任せてください!」
ハルは元気にそう言うと、気持ちの良い敬礼をしながら教会を出て行った。
静かになった教会には、疲れ切った女神の何度目かのため息だけが重く響いていた。
―――
「さあ、魔物さん!姿を見せてください!」
洞窟の前に到着したハルは大声で叫んでいた。
しかし応じるものは無く、彼女の大声は洞窟の奥へ反響しどんどん小さくなっていった。
「この魔界に転生させられてから早数ヶ月、思えば長かった…」
ハルは洞窟の奥で小さくなる自分の声を聞きながら、一人酔いしれていた。
「これまで出会った魔界の生物はみんな粘液だとか鱗ばっかりでモフモフとは縁遠い生活…前世で生粋の
ハルがガッツポーズをした瞬間、それと呼応するように大きな地響きがしたかと思うと、巨大な何かが細かな体毛と共に地面を割り顔を覗かせた。
「キター!もうなんでも良いから、モフモフさせてください!そしてこの疲れ切った私を癒して!」
土埃が晴れ、徐々に巨大な魔物の姿があらわになる。
しかし、同時にハルの表情はどんどん曇っていった。
「………」
土埃をあげながら彼女の前に現れたのは、表皮を短い体毛に覆われた巨大なワームであった。そいつは自身の直径ほどの大きな口を広げ、粘液をあたりに散しながらハルの方へと迫ってくる。
「…確かに。洞窟って聞いた時に、ちょっとうん?ってなりましたよ。でも、こちとらもうモグラでもなんでもモフモフできれば良いって思っていたんですよ…」
そして、ハルは静かに剣を構え。襲いかかるその魔物の中心に合わせると、そのまま軽々と両断した。
「…これは無し」
ハルはまたもや魔物の体液を浴びながら、綺麗に縦半分に両断された魔物の死体の真ん中で項垂れていた。
そしてブツブツと唱えるように呟きながらその場を後にしたのだった。
「あの女神騙しやがって、絶対殺す…」
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