昔からあった銀杏の木が明日、切り落される

終電宇宙

昔からあった銀杏の木が明日、切り落とされる。

 公園の大きな銀杏の木が明日、切り落とされる。少子高齢化に伴って、この公園は取り壊され、新しく介護施設が建つらしい。その先駆けにまず、この銀杏の木を切るのだ。この鮮やかな黄色い葉が風にそよぐ姿を見れるのも今日で最後ということになる。僕が子供のころからあった銀杏の木だ。街が少しずつ変わっていくことに僕は寂しさを感じずにはいられなかった。


 僕は銀杏の木をしみじみと眺めていた。すると突然、後ろから子供が大きな声で「あっ」と言うのが聞こえたと思うと、間もなく赤い風船が水色の空へ放たれていった。風船はみるみる遠くなっていく。それをぼーっと見ていると、急に後ろの子供が泣きだした。振り向くとそこには4、5歳の少女が親と手をつなぎながら、口を開けて、大粒の涙を流していた。どうやら今、空を飛んでいるあの風船の持ち主はこの少女のようだ。母親がどうにかあやそうとするも効果はなく、なんならさっきよりも声を大きくしながら子供は泣いている。


 どうしたものかと思っていると、その瞬間、風も吹いていないのに、空から何か降ってきて、少女の目の前を通り過ぎた。それは秋の陽を受けながらひらひらと舞いおちるイチョウの葉だった。一枚、二枚、三枚とゆっくり落ちていく。少女はそれを眺めているうちにいつのまにか泣き止んでいた。少女自身も自分が泣き止んでいることに今気づいて、はっとした顔をしている。少女はそのまま手を引かれて、公園を出ていった。僕はその光景を、何か懐かしいものを見るような目で見つめていた。


 あたりがだんだん暮色に染まり始めて、徐々に公園で遊んでいる子供の数も減ってきていた。僕ももうそろそろ帰るか、と思い銀杏の木に背を向けて歩き出すと、ふと小1の頃にここで転んで大泣きしたときのことを思い出した。誰もいない公園で、僕が転んだことに気付いた人もいなくて、僕は痛くて心細くて、わんわんと泣いていた。そのときにも銀杏の黄色い葉が一枚、二枚、三枚と落ちてきたのだ。その時の僕にはそれが、まるで慰めてもらっているように感じられて、不思議と心が寂しくなくなり、自然と泣き止むことができたのだった。僕にも少女にも同じような出来事が起きたことは、果たして偶然なんだろうか。もしかしたら、偶然じゃないのかもしれない。


 僕は思わず、また銀杏の木のところへ戻っていき、その太い幹に抱きついた。耳を当てると、かすかな水の巡る音が聞こえた。確かにこの木は今、生きているのだ。


 するとその時、少し遠くで道を歩いていた少年野球の帰りらしい、坊主頭たちが僕を指さして笑っている姿が見えた。けれど、僕は抱きつくのをやめなかった。この木は明日、切られてしまうのだ。死んでしまうのだ。それなのに、この銀杏の木は何も訴えかけることもせず静かに立っている。僕にはこの木が、世の中の何よりも優しい存在に思えてならなかった。


 ひとしきり抱きしめつづけたあと、僕は銀杏の木から手を離した。木枯らしが吹いてきて、僕は身震いした。もう家に帰ろう、と思い、また銀杏の木に背を向けて歩き出した。少しだけ振り返り、心の中で「バイバイ」と言った。銀杏の木は相変わらず、鮮やかな黄色い葉を風にそよがせながら、誰もいない公園に立っていた。

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昔からあった銀杏の木が明日、切り落される 終電宇宙 @utyusaito

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