マーブリ・アナンケー 警視庁捜査一課異常犯罪分析班

山野エル

プロローグ

 数年前、ノートルダム大聖堂を訪れた──というか、隅々まで見て回った時、この物語の作者は人目につかない塔の片隅の壁に、次のような言葉が刻みつけられているのを見つけた。


     ΑΝΑΓΚΗアナンケー


ヴィクトル=マリー・ユーゴー『ノートルダム・ド・パリ』より


***


 空転するタイヤがアスファルトを滑って、鼓膜を突き刺すような音が振り撒かれる。

 前方を行く白いSUVが炎天下の白熱する光を靡かせていた。その車体には痣のような黒い傷跡と凹みがある。

「右折したッ──!!」

 サイレンをまとった黒のセダンが氷上のように尻を勿体ぶらせて、白い残光を追う。

『やりすぎだ、仙堂!』

 チィッと舌打ちをして、ハンドルを掴む仙堂は、開けた窓から際限なく飛び込んでくる熱い風に負けない声で無線機に怒鳴り返した。

「ここで逃がしてどうするってんですかッ!!」

 タイヤがアスファルトに爪を立てる音。白煙の尾を引いて、仙堂の車体も横道に吸い込まれていく。五分前よりも距離を詰められた気がして、仙堂は血走った眼でニヤリと笑った。突き飛ばされてできた傷が脈打つのも、パトカーたちがどこかから遠吠えのように上げる声も、アドレナリンで上気した彼の意識には上ってこない。

 勝利を確信して、仙堂がアクセルをより強く踏み込んだ瞬間、数十メートル前で、衝撃と金属がひしゃげる音とクラクションの音がした。仙堂が思わずブレーキをかけると、車体が横滑りして、九十度向きを変えながら急停車した。ハッとして、開けた窓から顔を突き出した仙堂の視線の先で、白いSUVが、破り取ったノートの一ページをクシャクシャに丸めたみたいに転がっていた。角から現れたトレーラーの横っ面にぶち当たって砕け散ったのだ。鳴り止まないクラクションを耳障りに思う暇もないまま、仙堂は燃えるような車外にゆっくりと足を踏み出した。

 トレーラーの運転手が、切った額から流れ出る血を押さえながら、助手席の方から転がり出て、潰れたSUVを茫然と見つめた。熱を持った車体からパチパチと爆ぜるような音がばら撒かれる。水浴びでもしたかのように汗だくになった仙堂が恐る恐る近づくと、火の手が上がった。

「離れろ!」

 喉が潰れるほど張り上げた仙堂の声が爆発の合図だった。

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