GINUS-ギヌス-
粹-iki-
第一章
ふと、目が覚めた……。
最初に目にしたのは、空の青色とそれを隠しきれていない緑の葉っぱの群れだった。どうやら自分は森の中で寝ていたらしい……。
どうしてだろうか?、……分からない、でも、この自分という存在は今誕生したようなものに思えた。
そうだ……、少し歩いてみようか……。
足元には冷たい土、落ちた木の枝、小さな小石、枯葉……、その全てが自分の足を通して痛みを伝えてくる。
そういえば、今自分は歩くことができているのか……。
なるほど、そんなことができないほど貧弱な体ではないらしい。
心配せずとも、この体には基本的な行動能力が既に備わっているらしい……。
もっと歩いてみよう……、
もっと……、
もっと……。
「……?」
あれ?、誰か立ってる……。
いったい何をしてるんだろう……?。
そんなことを考えていると、ありがたいことに向こうから声をかけてきてくれた。
「目覚めたようだな?」
その男は、まるで自分が来るのを待っていたかのようにそう言った。
「そうか、挨拶をしないとな……。私は
「え……?」
言われてみれば、そもそも自分は何をしようとしてたのだろうか……。それ以前に、そういう自分は自分が何者かすらも分かってはいないではないか……。
目の前の男……、神藤は自分のそういった様子を察してか語り始めた。
「こう言っちゃなんだが、もしよければ、君の道案内くらいならタダで引き受けてやってもいいが?」
道案内か……、残念なことに何かをしなくちゃいけないはずなのに、当の本人はそのために何処に行くべきかが分からず、ましてや記憶喪失ときた。流石に手が負えないであろうがとりあえず彼に返事をする。
「……どこに行けばいいか分かりません」
神藤の顔は少し難しい顔になった後、自分に語りかけた。
「そうか……。ならこうしよう、私が君の歩かなければならない道を探す手助けをしよう」
「道を……探す……?」
「そう、今の君は空っぽだ、だが裏を返せば、君は今からなんにだってなれるんだよ。もちろん、君次第ではあるがね……。その手助けをすると言っているんだ……、で?、どうする?」
何故だろう、何故この神藤という男は、赤の他人である自分を必要以上に助けてくれるのだろう……。でもそうか……、無いなら今からでも作ればいいんだ……。
自然と、自分は神藤という男に着いて行っていた……。
「そうだ、名無しでは動きづらいだろう、今日から君の名前は……」
神藤が自分の名前を呼ぶ。その瞬間、自分の時間が、動きだしたような気がした……。
小さな町の中に、その探偵事務所がある。
神藤探偵事務所、そこは大して大きな事件を解決したとかいうほどの名の知れた探偵事務所ではないが、所長の人柄からか町には愛されてはいる小さな探偵事務所ではあった。
そんな神藤探偵事務所であるが、今見る限りだと、所長である神藤がテレビでも流しながらデスクに座り込んでいるようだ。
すると、神藤の耳に扉が開く音が聞こえる。そこに目をやると、一人の女子高生がやってくる。
「おじさん、おはよう!」
「おはよう、
真由美という少女は、テーブルに並べてある料理を目にし、神藤に語りかける。
「今日の朝ごはんこれ?」
「あぁ、どうかな?」
真由美はテーブルの食べ物を口に含んだ。
「美味い!、おじさん相変わらず料理作るの上手いよね」
「これでも勉強したからな……」
と、誇らしげに話す神藤に対し真由美は、
「探偵じゃなかったら料理人になってたかも?」
と言う。神藤は少し笑みを見せながら、
「それはどうかな……」
と返した。
真由美はさらにあった料理を全て食した後、手を合わせた。
「ご馳走様、ごめんおじさん、ちょっと海行ってくる!」
真由美がそう言うと、神藤が答える。
「彼がいるとは限らないぞ?」
「多分いるよ、行ってきます!」
真由美はそう言った後、扉を勢いよく開けて事務所を出ていった。神藤はそれを暖かく見守り、
「行ってらっしゃい……」
と小さく言った。
場所は変わって、ここは人通りの少ない路地裏。
一人の男が必死になって走っていた。だが、男の目の前には大きな壁があり、進むには走ってきた場所から回り道するしかない。
しかしながらそれは不可能だった。
なぜなら男が走っていた理由は、自分を追いかけてくる者から逃げるためだからだ。
それでも男は振り返って、目の前の何者かを見た。
「な、なんなんだよお前……!!!」
声を震わせながら叫ぶ男。
男の目の前にいたのは、まるで蝙蝠にも似た怪物だった。
その怪物は、恐怖でその場から動けなくなった男に歩み寄り、ゆっくりと男に顔を近づける。そして……、
「ぐっ……、がぁっ……!!」
そのまま男の首元に噛み付く。最初こそ力んでいた男だったが、徐々にその力もなくなっていき、皮膚はどんどん干からびていった……。
怪物が歯を男の首元から離すと、すでに骨と皮だけになった男の死体はガサッと音を立てて倒れた。そして、怪物は翼を羽ばたかせてその場からすぐに去っていった……。
真由美は自転車を漕いである場所に向かっていた。
しばらくの道を走り、自転車を止めると、そこには潮の香りが漂う海と一台のバイク、そして一人の青年がいた。
真由美は自転車から降りてその青年の元へと歩いていく。
「やっぱりここにいた……」
少女の声に気づいて後ろを向く青年。
「真由美ちゃんか……、もしかして、神藤さんが探してた?」
真由美は首を横に振り話しだす。
「別に、私が会いたかっただけ」
「そう……、それにしてもよく分かったね、俺がここにいるって……」
「だってヒロキさん、事務所にいない時はだいたいここにいること多いし……」
真由美は、ヒロキの行動なんかお見通しと言わんばかりにそう答えてみせた。ヒロキは首を傾げながら、
「そうかな……?」
と返す。
「そうだよ。でも、よくここに来てる気がするけど、好きなの、ここ?」
そんな真由美の問いかけに、ヒロキは穏やかな顔で答える。
「あぁ……、神藤さんに引き取られた後すぐ、ここに連れて来てくれたんだ。それで神藤さんに言われたんだ、海はいいぞ、たとえ泳がなくたって見ているだけでも心が洗われるものなんだって……」
「ふーん、おじさんらしいや……」
そう言って、真由美も海をしばらく眺めてみる。
少し静寂が走った後に、真由美が、
「ねえ?」
と、再びヒロキに呼びかける。
「気にならないの?、自分の記憶がないこと……」
ヒロキは海を見つめたままほんのちょっと考えてから答える。
「うーん、別に?。たとえ過去が戻らなかったとしても、俺としての生き方を今から作っていけばいいから……」
「そっか……」
二人の時間はしばらく流れた。潮の香りと、波の音に包まれながら……。
昼過ぎ、町ではある一箇所に多くの人が集まりザワついていた。
「酷いもんだ……、完全に干からびてたんだとよ……」
「これでもう四件目だ、とうとうこの街も物騒になってきやがったなぁ……」
そのざわつきを聞きつけて、神藤もやってくる。
神藤は人混みの中にいた知人に呼びかける。
「……すいません、何があったんですか?」
「おぉ、神さんじゃねえか、ミイラだとよミイラ」
「ミイラ……、またですか?」
また……、つまりそれは、このような奇妙な事件が今回からでは無いことを示している。
現に先程の一般人の言うように今回でこんな形の死体が出たのは四回目、つまりこの前に三回も似たような事件が発生していたのである。
神藤は人混みの先を眺め続けた。それと同時に、神藤の耳に足音が響いてくる。
それは少しずつ大きくなっていき、一番大きくなったと同時に止んだ。
「いつまで彼を放っておくつもり?」
「……!?」
神藤はその声を聞いて振り向く。しかしそこには特段誰がいるわけでもなく、先程までのざわめきがそのまま響いているだけだった。
神藤の顔はやけに強ばっていた。
「彼は結局、戦いからは逃げられないというのか……!」
ヒロキと真由美が探偵事務所の扉を開く。
「今戻りました」
と、ヒロキが言う。
「ただいま!」
と、真由美も元気に言う。
「あぁ、帰ってきたか……」
二人にそう言うと、コーヒーを口に含む神藤。ヒロキは椅子に腰掛けた後、神藤に向かって話しかける。
「外、騒がしかったですね。またミイラ死体が出たんだとか……」
「私も見に行ったよ、いつものようにミイラとご対面はできなかったが……」
そんな会話の最中、コンコンと扉を叩く音が響いた。
「どうぞ」
神藤がそう言うと、ガチャンと音を立てて扉が開く。
「よぉ!」
と、気さくな挨拶を交わす男。
神藤達は特に気にすることなく挨拶を返す。
「
「とりあえずまぁ、言われた通りに例の情報は持ってきましたよっと!」
隼戸が数枚の紙を机に置く。
その紙を見ながらヒロキが話す。
「毎度毎度よくそんなに情報集められますね……」
それに対し隼戸は、
「まぁ一応そこら辺のやつとは付き合いも長いからな……」
と、ヒロキに返す。神藤は机に置かれた紙を見ながら話しだす。
「なるほど……、首元に歯型……、そこから僅かに血液が付着していて、いずれも被害者のもの以外見つかっていない……」
興味深々の神藤に向かって隼戸も話し始める。
「しかもDNAが人間様のもんじゃないときた……。今回も前の三件と同じような感じだ……」
「で、隼戸。前の三件の被害者の共通点は調べてあるか?」
神藤が隼戸にさらに質問をしていく。
「まぁ一応できる範囲で調べておいた、それでわかったのが、彼らは殺害される前、ある女と会っていた……」
「その女っていうのは?」
隼戸は、ある一枚の写真を机に置いて話す。
「名前は
隼戸の会話を聞いて、神藤はその写真を手に取った。
「なるほど……、少し調べてみるのもありだな……。だがその前に……」
神藤がそう言った直後、探偵事務所に猫の鳴き声が響いた。
「そういえば迷子の猫の捜索も依頼されてましたね……」
と、ヒロキが声を発した張本人を見ながらそう言う。
「迷子の子猫ちゃんもどうにかしなくてはな……。頼めるか?、ヒロキ」
ヒロキは神藤にそう頼まれ、迷子の猫を持ち主に返しに向かった……。
ヒロキはある一軒家を訪れる。玄関のチャイムを鳴らし、その家の主が現れてから少しだけ世間話をしてから、迷子猫をその人物に引き渡す。
「では俺はこれで……」
そう言って、ヒロキは依頼主の家から去っていった。
探偵事務所への帰り道、なんとなく景色を眺めながら歩いていると、向こう側から一人の女性が歩いてくる。
「……」
綺麗な人だ……。
と、ヒロキは思った。その女性は赤いドレスにすらっとした体型。そして、ドレスの明るい色とは対照的に真っ黒なフェルトハットを頭に被っていた。
だが、その女性が近づけば近づくほど、夏のカゲロウでぼやけてしまっていた目の前の女性の魅力度だったり素顔がより鮮明なものになった。女性の顔は、ヒロキにとっては見覚えがある顔だった。
(榊原絵梨花……)
無意識に彼女の顔を凝視しているうちに、互いの体がついにすれ違い始めた……。
「ねぇ、あなた?」
ヒロキは立ち止まる。そのまますれ違うかと思いきや、なんと絵梨花はヒロキに声をかけてきたのだ。
「……自分のことでしょうか?」
「あなた以外に誰がいるの?」
それもそうだ、この場には自分とその榊原絵梨花という女性しかいない。
しかしまぁ、後で調べようとしていた絵梨花という女性に思わぬタイミングで会えてしまったため、一瞬落ち着かなくなったのもまた事実である。
そんなヒロキに対し、絵梨花は再び話しかける。
「ねぇ、ちょっとお願いがあるんだけど?」
「お願い?」
探偵事務所では、仕事に取り掛かる神藤と、そのままくつろいでいる真由美の二人が、ヒロキの帰りを待っていた。
そんな中、ふと真由美は疑問に思っていたことを神藤にぶつける。
「なんか吸血鬼みたいだね、今回の事件……」
「吸血鬼か……、そのように呼ばれた者は実際の歴史にも何人かはいるよ。かつてエリザベートという女性がいた……」
「誰それ?」
「血の伯爵夫人、史上名高い連続殺人者とされ、吸血鬼のモデルとなった女性だ……。彼女は若い女の血液を求め、近隣の領民の娘などをさらっては生き血を搾り取り、それを浴槽に満たして身を浸す、という残虐な行為を行なっていたという。また、血が流れることを好んだ、被害者の皮膚をかじって血肉を喰らうなどの証言もあったらしい」
神藤の解説を聞いて少し肌寒さを感じるようになる真由美。
「で、でもなんでそんなことを?」
神藤は、再び解説を始める。
「粗相をした侍女を折檻したところ、侍女が出血をし、その血が彼女の手の甲にかかったらしい。エリザベートは、その手の血をふき取った後の肌が非常に美しくなったように思えたらしく、それ以降、若い女の血を体に浴びるようになったのだとか……」
「昔からそんな怖いことする人はいるんだね……」
神藤は、真由美のその言葉を聞いて、自身の主観を述べる。
「人間というものは、時として見境を無くし、残酷になることもあるんだろう。案外吸血鬼とか、そういったものの正体は、狂気に走ってしまった人間なのかもしれないな……」
真由美はそれを聞いて、なるほど……、と心の中で思う。と同時に、もう一つ気になったことがあった。
「……それにしても、ヒロキさん帰ってくるの遅いね」
当のヒロキはというと、絵梨花に連れられてカラオケボックスにいた。そして、ヒロキの隣には、気持ち良さそうに何か歌を歌っている絵梨花がいる。
「中々に渋い選曲ですね……」
あまり馴染みのない曲にヒロキはそう答える。
「あら知らないの?、これでも二十年ちょっと前は大人気だったユニットなのよ?」
「二十年ちょっと前?」
絵梨花の言葉を聞いて疑問を感じるヒロキだったが、よく思い出してみれば、先程探偵事務所で隼戸が語った彼女の情報、主に年齢面的にはさほどおかしくはないことに気づく。
「あまり歳のこと言いたくはないんだけど、これでも五十代なのよ……」
到底信じ難いかもしれないが、ヒロキの目の前にいる女性は見た目だけなら二十代後半か、三十代を思わせる若さであった。
「見えないなぁ……、若いから二十代後半くらいかと思っていました」
ヒロキにそう言われ、少し笑みを浮かべる絵梨花。
「あら、中々に嬉しいこと言ってくれるじゃない。あら、もうそろそろ時間になるわね。あなた、まだ時間あるかしら?」
そう言うと、絵梨花は再びヒロキを連れてカラオケボックスから出ていった……。
町を絵梨花と歩くヒロキ。
ところで、何故このような状況になったのかを説明すると、絵梨花からのお願いで、一日だけ暇つぶしの付き添い相手になって欲しいというものだった。
彼女曰く、最近妙な男から付き纏われているらしく、その男に、彼氏とデートをしていると思わせて諦めさせたいのだという。
まぁ、彼女の美貌を見たら付き纏いたくなる気持ちは分からなくもないが……。
(この女性はやっぱりあの榊原絵梨花で間違いはないだろうな……、想像していたよりかは明るい性格っぽいけど……)
と、ヒロキは歩きながら思う。
しばらくして絵梨花の足が止まり、それに合わせてヒロキも足を止めた。
「着いたわ、少しよって行きましょ?」
そう言うと、絵梨花は目の前にある喫茶店のドアを開ける。
中は一昔前を思わせるような雰囲気を醸し出していた。
「へー、いい雰囲気の店ですね」
ヒロキは思わずそう口に出した。
「昔からの行きつけなのよ、気に入っていただけたのなら嬉しいわ」
ふと、ヒロキは喫茶店の窓から外の様子を眺める。
「そういえば、例のストーカーらしき男性、今のところ見えませんね。諦めたんですかね?」
ヒロキの会話を聞いて、はぁ……、とため息を吐く絵梨花。
「だといいけどね……、それでも諦めないようなら、またあなたを見つけ出して、諦めるまでデートしましょっか!」
「またですかぁ……」
と呆れたように言うヒロキ。絵梨花はそんなヒロキに対し、
「あら、嫌なの?」
と、返す。
「その前に、俺のこと見つけないといけないじゃないですか……」
絵梨花はそう言われると、一瞬鳩が豆鉄砲をくらったような表情となった。
「そうかぁ……、でも大丈夫、あなたのような人ならまた今日みたいに見つけられる気がするわ!」
「……」
注文していたコーヒーを啜り、苦味が強かったのかすぐにテーブルに置き直すヒロキ。
そのまま彼女をじっと眺めてヒロキは考えた。
(こんな人が被害者達と関係を持っていたのか……。いや、案外彼女のこういった部分に惹かれての関係だったのかもしれない。でも、こういった女性ほど素性を知ってしまうと恐ろしいし、悲しくもなってしまう……、って神藤さんも言っていたっけ……)
レコードの音が流れる。こんな時代にレコードか……、とも思うかもしれないが、この懐かしさこそがこの店の魅力なのだろうとヒロキは感じた。しばらく、そんな穏やかな時間が流れた……。
すっかり夜になり、ビルのあかりが星と混ざりあう中、町の中を歩く二人。
「今日はありがとね」
と、絵梨花が言う。ヒロキはそれに対して、
「いいえ、案外あなたのナイトとして過ごすのも悪くはなかったですよ……」
と返す。
絵梨花は、ヒロキのその一言に少し笑ってしまったが、しばらくして少々寂しそうな顔をした。
「どうかしましたか?」
絵梨花のそんな表情を見てそう言うが、
「ううん、なんでもないわ。それじゃあ……」
と、絵梨花は言い、ヒロキに別れを告げた。それに対しヒロキも、
「では……」
と、一言返す。
絵梨花は特に何も言うことはなく、ヒロキの元から離れていく。
それをしばらく見送った後、ヒロキも探偵事務所のほうへと歩いていった……。
ヒロキと別れ、帰路を歩こうとする絵梨花。だが、しばらく歩いた後、彼女は急に苦しみだした。
「……!!」
絵梨花は真っ先に自分の肌を見つめる。先程まで張りのあった肌は徐々にシワができ始めていた。このままでは……、と彼女は思うも、この状況を解決する方法を既に彼女は知っていた。
絵梨花は先程歩いた道を振り返る。
今ならまだ間に合う……!。
それはできない……!。
だけど……。
絵梨花は葛藤する。だが、本能を抑えられないまま、絵梨花はヒロキの元へと向かって走りだした。
別れてそれほど時間も経ってなかったからか、絵梨花はすぐにヒロキに追いついた。ヒロキの背中をみつけた絵梨花は、そのままヒロキを後ろから抱きしめた。
「……!?、どうしたんです……?」
急に抱きしめられて驚くヒロキ。
絵梨花はヒロキの耳元に囁くように話しかける。
「……ちょっとしたお礼をしたくてね……」
「お礼……?」
「顔、向けてくれる?」
ヒロキは絵梨花のその言葉に従い、絵梨花のほうへと顔を向けた。
絵梨花は、ヒロキの体に手を伸ばし、自分のほうへと向け、さらにヒロキに密着していく。そのまま手を流れるように顔まで動かし、ヒロキの頬を軽く触る。
「そのまま動かないで……」
「絵梨花さん……」
絵梨花は自分の顔をヒロキのほうへと近づけていく。そして……、
「馬鹿な子……」
と、一言言ったあと、絵梨花はヒロキの首元にいきなり噛み付いた。
「……っ!?」
先程まで緊張し強ばっていた顔を苦しみに耐えるように強ばらせるヒロキ。
絵梨花はそんなヒロキの様子を見て言う。
「ごめんなさい……、でも、これも今の私のままでいるために必要なことなのよ……」
再びヒロキの首元に噛みつく絵梨花。
「ぐっ……!!、あぁっ……!!」
痛みに苦しみ、喘ぐヒロキ。
だが、絵梨花はヒロキの首元をしばらく噛みつきながら、ある違和感を感じ始める。
やがて絵梨花は、ヒロキの首元から噛み付いていた歯を離した。
ヒロキは、その場に膝をつき息を荒らげる。そんなヒロキを、気持ち悪いものを見るような顔で絵梨花は見ていた。
「どういうこと……?、あなた……、本当に人間なの……!?」
「……?」
ヒロキは、絵梨花が何を言っているのかが分からなかった。
絵梨花は、ヒロキから少し離れ、その美貌を禍々しい姿へと変えていった……。
「……!?」
ヒロキの目の前には、信じられない光景があった。先程まで絵梨花であったものが変わってしまい、禍々しい蝙蝠のような怪物に姿を変えたのだ。
怪物となった絵梨花は、そのままヒロキに襲いかかり、振りかざした爪がヒロキの体を斬りつけた。
「っ……!?」
勢いよく地面に倒れるヒロキ。
「絵梨花さん……、あなたは……!」
激しい痛みの中、ヒロキは絵梨花に向かって叫ぶ。
『えぇ……、吸血鬼事件の犯人はこの私よ……』
まるでエコーがかかったような声で絵梨花はそう言った。
「何故だ……、どうしてこんな……」
そう言うヒロキに対し、絵梨花は答える。
『いつからか、私は自分が老いていくことに恐怖を感じるようになった。永遠の若さが欲しい……、そう願った時、私はこの姿と力を手に入れた……。そこからは欲望のままに、人知れず誰かの生き血を吸い続けた。そしたら、私の体は全く老けなくなるじゃない?。最初は、こんな形で若返るなんてと躊躇ったけど……、それもしばらくしてからは止まらなくなった……。クセになっちゃったのよ……、永遠を手に入れることに……』
「絵梨花さん……」
残念だと言うかのように、ヒロキは絵梨花の名を呼んだ……。
『残念ね坊や、優しい子だったけど、あなたには消えてもらうわ……』
怪物はゆっくりとヒロキに向かって歩いていく。
その様子を死を覚悟した目で見つめるヒロキ。そんなヒロキに向かって、怪物の手が近づいていく……。
--!!
その時、ヒロキの頭に高めの音が鳴り響いた。ヒロキは、振りかざされる怪物の腕を受け流すと同時に、その怪物を回し蹴りで吹き飛ばした。
人とは思えない強さで顔を蹴られた怪物。怪物は、そのまま地面に倒れてしまい、何が起こったのかと獲物のほうへと顔を向けた。
「……」
まるで吊るされた人形のようにその場に立っていたヒロキだったが、やがてゆっくりと無言のまま歩き出し、怪物に近づいていく。
ヒロキの中で、何かが切り替わり、発動した。内から湧き出たであろう強い光が、ヒロキの体を包み込んだ時、夜の闇の中で銀色のボディと赤く輝く瞳が姿を見せ始めた。
その姿を見て、怪物はとてつもない嫌悪感を感じたのか、ヒロキが変貌したその何かに襲いかかった。
「ふん……」
だが、ヒロキはその怪物の攻撃をいとも容易く受け止め、腹部に向かって二発ほど膝打ちしてから怪物の顔面を殴り飛ばした。
怯んだ怪物は、そのまま上空へと飛び立ち、ヒロキに向かって襲いかかろうとする、
「っ……!!」
しかし、ヒロキは浮遊している怪物の腹部に自らの足をぶつけた。その衝撃で地面へ転がり落ちる怪物。
「……!」
ヒロキは何も無い空間から剣のような武器を取り出した。そして、ゆっくりと怪物へと近づいていき怪物が起き上がったのを見て、怪物の腹部にその剣を突き刺した。
『----ッ!!』
怪物の叫び声が響く。ヒロキは突き刺した剣を怪物の腹部から抜き、そのまま特に怪物を見ようともせずに歩き出した。
怪物は地面に倒れながら、口を開いた。
『坊……、や……!』
「……!?」
その声を聞き、思わずヒロキが振り向く。だが、ヒロキが怪物の亡骸を見届けることなどなかった。
そこに怪物……、絵梨花の姿はなく、そこにあったのは、真っ白な灰の山だけだった……。
ヒロキは何を思うわけでもないが、ただ一人そこに佇んだ……。
街を騒がせた例の怪事件は、五人目以降の被害を出さぬまま終わりを迎えていた。
犯人はまだ捕まっていない。犯人が依然逃走中の身であるのか、それとももう……。様々な考察が立てられているが、このままのペースだともう事件が起こることはなさそうである。
とある喫茶店、扉が開き一人の青年が現れる。その見覚えのある青年を見て、喫茶店の店長と思われる老人が、青年に呼びかける。
「いらっしゃいませ。彼女なら、あの日以来一度も来ていませんよ……」
「そうですか……」
ヒロキはある席を見つめてそこに座った。ヒロキはコーヒーを頼み、窓から見える町の風景をぼんやりと眺めた。
しばらくして、ヒロキの座る席にコーヒーが置かれた。しかも店長直々にコーヒーを持ってきていた。
そして店長はヒロキに語りかけた。
「なにか悩みがあるとき、そうじゃない時でも、彼女はここでコーヒーを飲んでいましたよ。そして、何も会話を交わすことなく、いつも支払いを済ませては帰っていきます。そんな方が、何故かあの時だけはあんなに笑っておられた……。よほどあなたを気に入ったのでしょうね……」
それを聞いたヒロキは、今ここにいない誰かのことを思い浮かべる。
(あの時、気がついた時には絵梨花さんの姿は無かった。あの日の記憶は曖昧で、最後に彼女が俺を抱きしめて以降の出来事は何故か思い出せずにいる……)
ふと、ヒロキは自分の唇に触れてみる。触れてもいない誰かの唇の感触がまだかすかに残っているのではないか……、そんな淡い期待をしながら……。
彼女ならまたどこかで、あの時のように笑顔でいるだろう……。そう思っても、何かもやもやとしたものがヒロキの心から離れないでいた。
ヒロキは席に置かれたコーヒーを飲んだ。相変わらず店では、レコードの音楽が流れている。曲は恐らくジムノペディ第一番だっただろうか?、と、ヒロキは最近知ったクラシックの音楽名を思い出す。そして、ヒロキはコーヒーのカップをテーブルに置き、こう言った。
「なんでかな……、あの時よりも苦味が強いな……」
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