その悪は、拭えぬ赤を湛えていた。
ぽえーひろーん_(_っ・ω・)っヌーン
その背中は血で濡れていた。
ボクはある日
水面から引き揚げられる様な感覚を味わい
緩やかな浮遊感と、僅かな孤独に襲われた。
それ以前の事は覚えておらず
いくら考えても空白の白より先に
思考が及ばないので、途中で諦めた。
体の感覚は
あると言えばある気がするし
ないと言えば、無い気がした。
なんともハッキリしない事だ
曖昧な事は考えたくないね
答えが出ないとイライラしてくる。
……なるほど
これはボク自身の欠点だな
他のことは何一つ分からないが
今後改めて行く必要がありそうだ。
——ところで
気のせいかと思っていたけれど
五感が機能し始めている。
具体的に言えば皮膚感覚
そして温度と心臓の鼓動を感じた
自分の体を意識出来たことで
頭の中でのイメージが固まり初め
`気持ち`という物の安定を得られた
それに伴って頭の中がスッキリしてきた。
まるで段階を踏むように
自由が効き始める自分の体に
言い表しようのない感情を抱く。
程なくして
「……んー」
不満げな声が
喉の奥から飛び出てきた。
それはボクの五感が徐々に
確かな物となっていくにつれて
とある不快感を覚えたからだった。
言い表すとすれば、鉄
しかしそれは真に迫っていない
あくまで物の例えと言うだけだ。
「血だ、血の匂いだ」
体を起こそうとすると
背中が痛くて上手くいかない
何故かと思い
不思議がっていると
その謎は案外早く解けた。
腕だ
左腕が背中の
下敷きになっていたのだ。
まだ鈍くしか
動かせない腕を引き抜いて
自分が楽な姿勢に変えた。
目は開いている
でも暗くてよく見えない
ボクは現状を把握しきれていない。
もっとよく知らなくては
様々な視点を持つ必要が——
ピチャッ
それは、背中から聞こえた
さらに詳しく言うならば
ボクが横たわっているベッドから、だ。
血の跡
夥しいまでにぶちまけられた
どう見ても致死量の、赤い水溜まり。
状況から見て、それは
間違いなくボクの流したものだ。
ここでボクは、やや焦った手付きで
自分の体のあちら、こちらをまさぐって
怪我などしていないかを確認してみた。
「穴は空いてない
綺麗な物だし、すべすべだ
……でもボクのモノじゃない
この体は、ボクの体じゃない」
確信があった
根拠など、この際どうでもいい
証拠も無ければ具体的な理由も無い。
でも分かるんだ
そんなもの無くても分かるんだ
自分の体のはずなのに
触った時にハッキリと感じた
コレは、他人の持ち物であると。
「この血の量は、致死量だ
そんな血の海の上で眠っておいて
ボクが無関係なハズは無い」
目が暗闇に慣れてきた
瞳孔の開きが調節されて
僅かな光をも見逃さない。
だから
まず最初に
ボクの視界に飛び込んできたのは
ズタズタに切り裂かれたカーテン
次に、床になぎ倒されて
バラバラに散乱した本の数々
争いの形跡
誰がどう見てもそう判断するだろう。
……おかしな事と言えば
もうひとつある気がする。
思い出せ、頭を回せ
よく思い出してみろ
ボクが最初にとっていた姿勢は何だ?
確かボクは仰向けで
片腕が背中に回っていなかったか?
その時、手は何処に当たっていた?
「多分、ここに——」
ピチャ
再び水音が鳴り響いた
それは粘っこい血の音だった。
ボクの体には確かに
傷の痕跡は見当たらないけれど
でもベッドに証拠が残されている。
さっきボクの手があった場所が
他と比べて血溜まりが多かったんだ。
そこには本来、穴が空いていた
でも今のボクには無い
じゃあ治ったんだ
それしか考えられない。
血が乾いていないことから
時間はそれほど経っていない
そして血の量から察するに致命傷
「……踵にも血の跡がある」
流れてきたって事だ
つまりこの体の持ち主は
立ったまま傷を負わされたんだ
この時点でボクは
今の自分が保有している意識と
体とをハッキリ分けて考えていた。
なのでボクは
こんな結論を出した。
「この体の持ち主は死亡した
血の量から見て間違いは無い
そしてコレは明らかに殺されている
ボクは突然意識が覚醒した
部屋で目覚める前の事は分からない
でも、産まれたてにしては
ヤケに色々な事が分かる様だ
ならば乗り移ったのだろう
さしずめ移住と言った所か」
どうにも違和感がある
もっと穏やかに殺す方法だって
他にも色々あったはずだ。
引き裂かれたカーテンや
散乱した本を見ても明らかに
`殺しがあった`事を証明している。
まるで復讐心
深い怨恨があったかのように
ここで問題なのは
そう見えすぎるという点だ
誰がどう見ても殺人で
争いがあった上で殺されていて
その人物は憎しみを持って行動したと
まるで教科書通りだ
お手本として参考に出来るくらい
状況が丁寧に整えられている。
並べて置かれたレールの様に
100人が全員、同一の答えに辿り着く
それはむしろ不自然と言うべきだろう。
「つまりボクは死体で
ここは殺人現場って訳だが
それは見つかって初めて成立する事だ
これ程までに作り込まれた現場なら
表沙汰になって然るべきだ」
ボクの頭は今
かつてないほど高速で回転している
それ以前の記憶がないのに
`かつてない`という言い回しをするのは
なんだか妙な感じがするが、とにかく
全力で考えているってことだ。
「ボクは生きている
どこにも怪我はしていない
でも状況は全てボクの死を演出している
それは矛盾を産んでしまう
ボクの予想が正しければ、恐らく
間もなく`目撃者`が現れるはずだ
……となれば——ッ!」
ボクは荒れた部屋を見回して
使えそうな物を探した。
頭の中のイメージと用途
見た物とを照らし合わせて
違う、それじゃない、相応しくない
大きすぎる、小さすぎる、掴みにくい
検証と不適合を繰り返し
焦りから額に汗が滲み出す
成果を得られないままいたずらに時が経ち
……やがて
「——あった!」
ボクはあちこちぶつけながら
目的の物に飛び付いて、持ち上げた。
それは割れたガラス片
鋭く固く持ちやすく
あとから処理出来る物!
「……ふーーっ」
深呼吸
それは覚悟をする為
これから起きることに対しての
覚悟を決める為の儀式だ。
背中の
恐らく傷があった場所
腰のすぐ上のあたり
ガラス片を握りこみ
先端を皮膚に当てる
そして——
「……っ!」
強烈な刺激ッ!
肉を内側から切り開かれて
体内に異物が侵入してくる感覚
鼻先に香る血の匂い
それどころじゃ無くなる程の痛み
唇を噛んで必死に声を押し殺す!
そして
ガラス片をゆっくりと引き抜き
それを掴んだまま腕を振り上げて
渾身の力を込めて
床に向かって叩き付けた
ガシャン!という音を立てて
粉々とは行かないまでも
砕け散ったガラス片
ボクはそれを
上から何度も叩き
より細かく、より小さく
元の形が分からなくなる程に砕いた。
やがて、それはただの粉になり
誰の目からも凶器には見えなくなった。
——次の瞬間!
バタンッ!
「お嬢様、そろそろ起きるお時間——
……へ?お、お嬢様……?
きゃあああああっ!?お、お嬢様!?
そ、その血、へ、部屋これどうし……
あぁっ!とにかくその
今すぐに医者を呼んできます!
大丈夫です、大丈夫です!
そこで待っていて下さい——!」
廊下を走り去っていく
ふくよかな見た目の女性
その慌てっぷりと言ったら
まるで火事にでも見舞われたようだった。
ひとり残されたボクは
背中の傷を抑えながら
ポツリと、こう呟いた。
「ちょっと深く刺し過ぎたかな……?」
ボクはその場に
膝から崩れ落ちるのだった——。
✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱
出血過多で力が抜け
動けなくなってしまったボクは
その後、懸命な治療を施され
無事、一命を取り留める事が出来た
危うく自殺してしまう所だったが
とりあえずはヨシとしようじゃないか。
「——お嬢様!ジェイドお嬢様!」
「聞こえてるよ、ハンナ」
「あぁっ!お嬢様!お嬢様が目を
目を覚ましました!お嬢様がああああ!
ジェイドお嬢様がああああああああっ!」
「うんうん、ボクは怪我人だからね
少しだけ声を抑えようね、ハンナ」
「は、はい!すみません、つい」
彼女は
ボクの事を最初に見付けた女性であり
ボクの命を間接的に救った人間である
あの惨状を見てしまったショックは
思いのほか大きかったようで
ハンナは若干トラウマ気味だった。
ボクは今
清潔なベッドに寝かされ
点滴に繋がれている。
あの場で倒れはしたものの
意識はしっかりと保持していたので
ここまでの経緯は全て把握している。
「と、ところでお嬢様?
その、何故……その……
大変申し上げにくいのですが
`ボク`などとおっしゃるのですか?
何やら喋り方なども
いつもと違っていますし……」
まあ、そうなるだろうね
当然違う人間なのだから
そういう事態も起きてくる。
だから言い訳は
一応考えておいた。
「ボクいつもと違っている?」
「え、えぇ……普段はもう少し……
とにかく、今とは違っております」
その反応で大体分かったよ
こうなる前のボクは恐らく
よっぽど横暴だったのだろう
筆舌に尽くし難いほどの
悪い人間だったに違いない。
「……やっぱりそうなんだね」
「……お嬢様?」
「ハンナ、聞いて欲しいことがあるんだ」
「は、はい、なんでしょうか?」
「違和感……そう、違和感があるんだ
どうにも、ボクがボク自身のことを
……こんな事言うのは変なんだけど
まるで、他人の様に感じるんだ
キミの名前も、分からなかった
でも意識はちゃんとあるんだ
自分の性格とかも分かるんだ
なのに、覚えがないんだよ
この光景も、この身体も全部
ボクには初めて見るように感じるんだ
ひょ、ひょっとしたらボク
さ、さっきのアレのせいで壊れ——」
「お嬢様ッ!」
ガバッ……と
体を包み込む感覚
ただし怪我人なので
その上点滴に繋がれているので
あくまでも優しく、だがね。
「……申し訳ございません
わたくし、何も気付きませんで
普段からジェイドお嬢様のお世話を
任されていると言うのに、だというのに!
申し訳ございません
許しを乞うつもりはありません
わたくしはただ、謝るのみです
……いいのです、いいのです!
生きていて……くれたのですから!
他の何物も、お命には替えられませんわ
お嬢様はお嬢様です
たとえ何がどうなろうとも
わたくしはそう思っております」
「……あ、ありがとう……ハンナ……」
ボクは
思惑通りに事が運んだので
嬉しくてたまらなかった。
この短い間で、この
ハンナという名の女性が
心優しい事は分かっていた。
そして感情が豊かであり
正確に言えば感受性が高い事も
こういう風にすれば
彼女自ら感じた違和感を
かなぐり捨ててくれるだろうと
目論見は見事に成功した
ボクは彼女にとってのお嬢様として
今後も自分のまま振舞って行ける。
1人を納得させられたなら
この路線で他も行けるはずだ。
場合によっては更に
練りこんだ設定が必要になるが
それはおいおい考えて行けばいいだろう。
それよりも
今最も重要な事は
`誰が`ボクの前任者を殺し
そして誰がそれらを命じたか
更にそうなることで
誰が得をするのか、という事だ
その為にはボク自身のことを
もっともっと知る必要がある。
一度殺されかけたのだから
ボクが生きていると知られれば
必ずまた、同じ事が繰り返される。
それは明日かもしれないし
ひょっとすると今夜かもしれない
悠長な事は言ってられない。
あるいは
殺す必要は薄くて、むしろ
`命を狙われた`という事実の方が
重要なのかもしれないね。
あれだけわざとらしく
演出された殺人現場を見るに
狙いはボクの命と言うよりも
ボクの周りの人物
例えば親や親戚、兄弟
婚約者という可能性もある。
この件は根が深そうだ
せいぜい絡め取られないように
闇を見極めて歩いて行かなくてはね。
とりあえず
目下やるべきなのは……
「ハンナ、ボクのことを何でもいい
どんな事でも良いから聞かせてくれないか?
もしかするとそれで
何か思い出せるかもしれない
どうだろう頼めるかな……?」
「……ぐすっ……えぇ、分かりました
では……そうですね、あれは5年前の——」
ハンナの口から聞かされた
この体の、元の持ち主の話は
正しく想像を絶する内容であった……。
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