三文神話

閂 向谷

EP1

「木取(きとり)刑事ですか?」


 例えば岩肌や、アスファルト、トタンなどのマテリアル。材質や質量、状態等は問わない。雨雲の活動範囲下であることが最重要だ。


 それらの物質に雨粒が威勢よくぶつかり、細微な質量を帯びた液体の弾けた音が耳をわずかにかすめる。その連続についてを人は雨音と統括するが、言葉が指す種類はあまりにも多彩だ。

 水面、屋根、茂み、ボンネット……。どのロケーションで、どの音響効果で、どの雨量によるかで常に音色の変化するそれは、雨雲による打楽器アンサンブルと呼ぶに近しい。

 地球という楽器隊を背景にソプラノをつとめるかのような、透き通った声の少女が、玄関先、低い位置から私の名前を確かめた。


「人違いだな。今は”元”刑事」平静を装いながら私は応ずるが、その脳裏では少女と自分の関係性について思いあたる”フシ”の末端を探して、思考の引き出しをひっくり返していた。だが、今のところは、まとまりそうもない。自分と少女を繋げる線の一画目はどこだ。皆目見当がつかない。


「こんな夜分に何の用だ、お嬢ちゃん」

「【稲名嘉(いななき)山荘連続殺人事件】の捜査を担当されていたとお伺いしたのですが」


 少女がレインコートのフードをまくると、その下から猫のように大きくぽっかりした目をこちらに向けた。薄いブロンドの頭髪は飾り気ないセンター分けで、横髪の先端は指先のように小ぎれいに整えられている。

 外は土砂降りの様相だが、レインコートは雫の一滴もこぼしていない。すべての雨粒を回避してここにまで辿りついたとでもいうのか。


「懐かしい字面だ。……そうだな、当時は捜査第一課にいた」

 この引き出しはすぐに見つかった。自分が現場で目にした物、捜査関係者や被害者の家族、古いフォントが飾る新聞の一面などの画像が明滅して折り重なる。

 無論、この会話の中で挙がる話題だとは思ってもいなかったため、内心でまごついてしまったことは否定できない。


「捜査が打ち切りになったというのは本当ですか」

「法律的には時効というわけではないがね。未解決事件として当時のデータを資料室の一角に追いやっているのは事実だ。だが、それもずいぶんと前の話だよ」

 

「どこまで真実に近づいたのか答え合わせがしたく、ちょっとお話でもしませんかと思いまして」少女は表情を変えずに続けた。

「あ、私、犯人なんですけど」

 沈黙。雨音。



「お嬢ちゃん、もう一度頼む。まだ理解が追いついていない」


 言葉通りに、理解は追いついていない。だがそれ以上に、目の前で整理された状況への理解が及ばず、この場を取りつくろう回答例を求めていた。

 写真と見間違うほどに整合性の取れた絵画の中にディティールの歪みをみいだし、これは絵であると確かめたい時のような、これが正しい物理法則や倫理に基づいてはいない理由を考える。


 少女は繰り返す。


「どこまで真実に近づいたのか答え合わせがしたく、ちょっとお話でもしませんかと思いまして」少女は表情を変えずに続けた。

「あ、私、犯人なんですけど」

 最後の一文字を発音しきる前に私は「そこだ、そこ」と言葉を遮った。


「ちょっと待ってくれ」

「はい」

「君があの事件の犯人だって?」

「はい」


「寝言は元刑事宅の玄関じゃなくてベッドで言うものだ。どれ、家まで送ってやろう」


 造詣の深い冷やかし。それもこんな小さな子が。尻毛を抜くことだけが目的だろう。誰の差し金だ。

 白200色によるルービックキューブをこねくり回しているような、途方もないパズルを前にしている。この会話に結末を作ることは可能だろうが、それを正しいものへ導くことができる確信がなにひとつとしてない。

 つまるところ、相手にしないことが最善に思えた。

 その発言を信じる理由がない。”あの事件”が起こったころ、この子はまだ生誕してすらいないだろうから。


 対して、少女は訝しげに私を見たまま、均衡のとれた顔を斜めに傾けていた。そこに私の反応を都度楽しんでいるような様子はなく、純粋にさらなる理解を求めているらしい。道を尋ねる迷子の影と重なった。


「冗談を言っているように見えます?」

「冗談ではない証拠があるなら逆に知りたいくらいだがね」


 少女は息を深く吐くと、小説の冒頭を朗読するかのようなトーンで、その白色のルービックキューブの一面だけを揃えてみせた。

「――きゅうばんのせいで迷宮入りだ。これ、捜査関係者の間でしか通じないジョークだと思うのですが」


 沈黙。雨音。地球によるスタンディングオベーション。

 とうとう観念した私は、白旗の代わりに両手をあげて首をはためかす。こう伝えたら刑事さんも信じてくれるよ、という「事件関係者」の告げ口に違いないだろうが、この少女が該当事件の何かしらに繋がっている可能性は広がった。


「退屈していたんだ。あがるといい」

 家の前の通りを自動車が通過する。水たまりをはねて白いしぶきがあがった。


「冷やかしに来たつもりかしらんが、こんな雨の中じゃ先に体が冷えてしまうのはお嬢ちゃんの方だぜ」

「ええ。助かります」そこに来てはじめて、少女は頬を緩ませた。その目尻はこれまで出会ってきた誰かに似ていた気もしたが、それは思い違いというものだろう。


 さて、小さな子が喜ぶようなお茶うけは戸棚にあっただろうか。



     ◆



 小さな足音を背にダイニングキッチンへと少女を案内すると、椅子に座るよう指図した。自分が普段使っているもので、いつか買い換えようと思い立ったまま4年ほど経過している気がする。来客人を座らせようと思うと、クッションのほつれが改めて際立った。

 脚の長い椅子なので座るには苦労するかと憂慮するが、ウサギよろしく軽快なステップで腰かけている少女の後ろ姿を尻目に牛乳をマグカップに注ぎ、電子レンジにセットした。

 その様子を見まもる視線を感じたので振り向くと、少女はいつの間にかレインコートを脱いで足元に畳んでいた。手際がよいものだ。その下はややオーバーサイズのパーカーを着ていた。


「悪いがお菓子はないぞ。甘いものは嫌いなんだ」

「ご家族の方もお嫌いなのですか?」

「この家には俺しかいない」

「それは失礼しました」

「自分で選んだのさ」私はカウンターにもたれかかり、その純一無雑じゅんいつむざつたる瞳の真意を推し量るべく、まっすぐに視線を返す。「で、お嬢ちゃん。【稲名嘉山荘連続殺人事件】についての話をする前に確認させてくれ」

「なんでしょうか」

「俺の見立てでは、あんたは10歳前後くらいの姿をしているわけだが」記憶のフィルムを映写機が回す。老朽化した脳がカタカタと音を鳴らしているが、まぶた裏のスクリーンには、現代と遜色ないフルカラーが浮かぶ。「あの事件は20年も昔だ。生まれていたかどころか、君の両親が出会っていたのかさえも怪しいんだぞ」


「もうそんなに昔なのですね」


少女が感慨深げに頷くものなので、思わず笑みをこぼしてしまう。


「いやいや、お嬢ちゃんが懐かしめるはずがないだろ」

「申し遅れました。私、ニノっていいます」

「いい名前だ」


 電子レンジの過熱が終わり、取り出したマグカップをニノの眼下に置いた。表面には牛乳の過熱による特有の薄い膜が浮いているが、それを取り払うまでの気遣いは不要だと思い、認知しながらも見えていないことにした。


「ニノ、それでも君はまだ自分が犯人だと言い張るのか?」


 ニノはパーカーのポケットをまさぐると、中から金属製の小箱を取り出した。それがスキットル(主にアルコール類を持ち運ぶための小型水筒)であることに気がつくまで数秒を要した。


「なんだそれ?」

「スコッチ。ミルク割りが好きなんです」私の反応をよそにキャップは取り外され、とくとくとマグカップに琥珀色の液体が注がれる。ほのかな甘い匂いとアルコールの刺激臭が漂い、ニノの手にあるのは紛れもなくスコッチであることを確信する。

 無論、理解が及ばない。年長者として、法に則ってきた者として口を挟まずにはいられなかった。


「未成年だろ」

「私は子供ではないということです」ニノは気にする様子もなくマグカップに一口目をつける。傍から見ればホットココアを飲む少女に映る事だろう。だが、そこに継がれているのはスコッチのホットミルク割りだ。


 彼女の飲酒に立ち会ってしまった。この瞬間を見届けてしまった以上、未成年の飲酒を制止しなかった私にも責任が生じる。

 私の想像しえないや摂理や論理によってニノが見かけ通りの年齢ではないことが証明され、それが法的に許される存在であることを望むしかない。アルコール混じりの吐息を、ほ、小さく浮かばせてからニノは続けた。「よわい260。まぁ、こちらに来てからの年数という意味ですが」


「調子狂うな……」 二度目の観念。腰に手を当てて深く息を吐いた。

 その奇天烈な言動にも開いた口が塞がらない思いだが、ニノの自己紹介があまりにも彼女にとって普遍的な要素に位置しており、まるで食事の前は挨拶するような、水の中で呼吸はできないと当たり前のことを復唱しているかのような、【嘘であることに基づいた気おくれ】といったものを微塵にも感じさせないのだ。

 気になることをひとつひとつ問いただしていては、お話が進みそうにもない。



 そんな様子を見かねてなのか、ニノはつけ加える。

「私も信じてもらえるとは思っていません。今まで出会った人たちもみな、同じことを言いましたから」


 もはや私自身の経験に基づく常識や普遍性を求める事を放棄することにする。願わくば悪い夢や幻覚の類であってほしいが、恐らく目の前にあるのは、夢のような現実だ。

 止まない雨はないが、見ていない夢は醒めない。


 ここはニノの手のひらの上であり、すでに壇上だ。不思議と、今の私を支配する感情は「楽しそう」というものだった。まじめに相手をするつもりがない、とも取れる。



「そう言うな。どうせもう解決する気のない事件だ。今晩だけはニノの【設定】につき合ってやるよ」

「ええ、その方が助かります。いちいち狼狽うろたえられてもお話が進みません」

「OKだニノお嬢ちゃん。で、君は260歳。俺よりも190歳近く年上ってわけだ」

「ここだけの話」ニノが声を潜める。「私、人間ではないんですけど」


「だろうな。人間の形をした人間以外じゃないと説明がつかん。どこから来たんだ? 剣と魔法の国か?」

「冥界です」

「冥界ときたか」乾いた笑いしか出てこない。

「これで、とりあえずは納得していただけるでしょうか? 私が事件に関与できる可能性があることについては」

「今ほど【とりあえず】という言葉のありがたみを知った瞬間はない」


 酒だな。酒がいる。こんな肴にはそうそうありつけないだろう。私は冷蔵庫から缶ビールを鷲掴みで取り出し、中指だけでプルタブを引いた。

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