34 ユマーズ・ランベルト ー襲撃
少し寒かったし、ときどき聞こえてくる獣の遠吠えが怖かった。
だから薬を塗り終えたアーガンに
「明日は街道に出るまでずっと馬だ。
しっかり休んでおけ」
そう言われたノエルはアーガンの側にいたくて、塗り終えた薬の小瓶を肩から提げたままのノエルの鞄にしまうアーガンの膝に手を伸ばす。
「アーガンさま、ひざ」
返される鞄を片手で受け取ると、アーガンはノエルの細い肩に毛布を掛けてくれ、腕を上げて膝を空けてくれた。
こうやってアーガンはいつもノエルの話を聞いてくれるし、お願いも聞いてくれる。
食事もちゃんと与えてくれる。
大きな声を出して怒ったり、殴りもしないし蹴りもしない。
だからアーガンと一緒にいれば安心だと思った。
けれどアーガンの膝に両手を置いた時、視線の隅にブーツの先端が入る。
なにげなく顔を上げると、アーガンの向こう側、すぐそこにあの男が立っていた。
どこからともなく流れてきて、いつのまにか村はずれの廃屋に住み着き、クラウスが亡くなったとたん家に入り込んできたあの男が……。
「どうした?」
「……マーズ」
男はフードを深く被って顔を隠していたが、見上げるノエルと目が合う。
恐怖で身を竦ませるノエルの様子に気がつき、声を掛けてくるアーガンに答えようとするけれど上手く声が出ない。
それでも振り絞って出すかすれ声に場の空気が一変する。
「こっちじゃない!」
そんなセルジュの声が聞こえたけれど、次の瞬間にはフードを被ったままのユマーズがノエルに向けて、焚き火を受けて朱色に染まった短剣を振りかぶる。
恐ろしさのあまり目を閉じることも出来ずにいたが、その刃がノエルに届くことはなかった。
「ぐ……っ」
代わりにアーガンの呻き声が耳元で聞こえた。
直後にイエルたちの、アーガンを気遣う声が上がる。
「隊長!」
「アーガン!」
「隊長?」
「誰だっ?」
その中に混じる、相手を問い質す言葉。
ユマーズは顔を隠しているし、イエルとセスは初対面である。
そう考えれば納得できる言葉ではあるのだが、実際は彼らの目に、この時までユマーズの姿は見えていなかった。
ノエルの目には、血糊をつけた
そのノエルの目に、庇ったアーガンを切りつけた直後、ユマーズの姿は何度が歪んで見えた。
この時になって、ようやく魔術で隠していた姿を現わしたのだが、ノエルの目に、その姿は歪んで見える前後でなんら変わりなく映っていた。
「
忌々しくセルジュが呟いた直後、セスが声をあげてユマーズに斬り掛かる。
続けてイエルも。
その剣戟が響く中、アーガンは斬られた右腕をだらりと下げ、左腕だけでノエルを抱え上げて少しでもユマーズと距離を置こうとする。
そこにアーガンを庇うようにセルジュとファウスが駆け付ける。
「隊長」
「無事か、アーガン」
「命はな」
掛けられる二人の声にそう応えたアーガンは、フードの男と対峙するイエルとセスに声を掛ける。
「気をつけろ。
そいつは一筋縄じゃいかん。
なにしろ同輩……いや、元同輩だからな」
意味がわからなかったらしいセスは、敵を前にしながら迂闊にもアーガンを振り返り
「どういう意味っすか?」
などと呑気に尋ねる。
それに答えるのは、剣を構え、油断なくフードを被ったままのユマーズを見ているイエルである。
もしここにイエルがいなければ、セスはその迂闊さでとっくに斬られていただろう。
「さしずめ元騎士ってところだろう」
「元騎士って……」
するとフードの下から見える口元を歪めたユマーズは、慎重にゆっくりと、その顔を隠すフードを脱ぐ。
あの日、村の外れで馬番をしていたイエルとセスは初めて会うが、マイエル家を訪ねたセルジュとファウスは意外な人物との再会に驚きを隠せない。
「お前は確か……」
そう呟いたセルジュは、アーガンが抱えるノエルをちらりと見る。
最初からその姿が見えていたノエルは、目に一杯の涙を溜め、アーガンにしがみついて震えている。
「アーガンさま、ち……ち……いっぱい、いっぱいでてる」
「大丈夫だ、生きてる」
顔中に脂汗を滲ませながらもノエルを気遣うアーガンの目がユマーズを見ると、ユマーズは鼻を鳴らして嘲笑を返す。
「余計なことをするからそういう目に遭うんだよ」
「そういうお前こそ、今頃なにをしに来た、ユマーズ・ランベルト」
「なんだ、俺のことを知っていたのか」
チラリと視線と視線を交わすイエルとファウス。
互いの反応を見て聞き覚えのない名前であることを確認すると、改めて二人の会話に耳を傾ける。
「知っていると言っても、話に聞いただけだがな」
アーガンも一度は思い出していたのである。
だが機を逸して言いそびれたまま忘れてしまい、今の今まで思い出せなかったのはうっかりでは済まされない立派な失策。
その代償が自分の右腕というのは高すぎた。
後悔しても、その腕はもう、かつてのように大剣を振るうことは出来ないだろう。
「ユマーズ・ランベルト、規律違反により騎士団を除籍処分。
確か俺が入団するより前の話だ」
「さすがリンデルト卿の子息だな。
俺も村でお前を見た時に気づけばよかったよ。
そうすれば白か赤かで迷うこともなかった」
アーガンたちが白の騎士だとわかっていれば、迷うことなく領地境を越え、もっと早く追いつくことが出来たのに。
そうぼやくユマーズだが、アーガンと対峙しながらも、横目ではチラチラとイエルの動向を窺っている。
そのイエルが率直に尋ねる。
「隊長、もう少し詳しく伺っても?」
「元は騎士団の諜報部隊に所属していた。
だが金をもらってある貴族の私用を引き受け、騎士団の情報まで漏らしていた。
それがバレて不名誉な除名処分だ」
処刑されなかったのが不思議なくらいの規律違反だが、おそらく貴族が裏で手を回したのだろう。
その貴族は誰なのか?
答えは、彼があの村にいた理由がわかれば自ずと導き出される。
「……ハルバルトの」
そう呟くセルジュにもユマーズは言う。
「まさかこんな田舎まで……いや、領地境を越えてあんな田舎の村まで、あなたのような方がいらっしゃるとは思いませんでしたけどね、アスウェル家の公子。
先日お会いした時は、顔を隠しておられたのでご挨拶せず申し訳ございませんでした」
「お前のような者に挨拶される覚えはない」
「酷い言われようだ。
確かに自分は騎士団を
そう言って短剣を下ろしたユマーズは、セルジュに向けて礼をとる。
もちろんいつ斬り掛かってくるかわからないイエルを警戒するのは忘れずに。
だがセルジュの目は険しい。
「クラカラインに
とんだ戯れ言だな」
「公子は勘違いをしておられるようだ。
自分がクラウス様に手を下した、そう思っておられるのでしょう。
確かに自分の雇い主はハルバルト卿でございますが、誓って、自分はクラウス様を害しておりません」
あの村の者たちは、いつ頃ユマーズが村に流れ着いたのか、はっきりとは覚えていなかった。
けれど暑い赤の季節にはもういた、そう多くの村の者は記憶していた。
そしてその赤の季節の終わりに召集された
即座に領主に進言。
その領主は、白の季節に入ってすぐ、セルジュたちが領都を発つより早く断を下した。
つまり、かつて金でハルバルト卿バルザックの私事に手を貸し、騎士団が持つ情報を漏らして除名処分となったユマーズは、再びハルバルト卿バルザックの命を受けて
セルジュやアーガンが探していたハルバルトの刺客がユマーズだったというわけだ。
しかし彼は違うと言う。
かつて身につけた諜報の技量を生かし、違和感なく流れ者としてあの村に流れ着いた振りをして住み着いたユマーズは、そうとは気づかせず、記憶すら曖昧になるほど自然に村に馴染んでいった。
だが流れ者という立場を保ったのは、用を済ませたあと村から姿を消しても、自然と村人たちに再び流れていったと思わせるため。
ある日忽然と姿を消しても疑問に思わせないためだろう。
おそらく騎士団に所属していた頃も、そうやって行く先々で市井に混じり、任務を果たしていたのだろう。
今回も
しかし彼は違うというのである。
ハルバルト卿バルザックの配下であることは認めているが、自身はクラウスの死に手を下していないと。
では誰がクラウスを殺したのかという疑問が残り続けるのだが、それについてはユマーズも言及せず。
そしてセルジュたちもユマーズを信じようとはしなかった。
「その目は信じておられませんね。
では一つ、
「我々が信じると思っているのか?」
「信じるも信じぬも、全ては公子の胸三寸。
裏付けは、領都へお戻りになってからとられるとよろしいでしょう」
そう言ってユマーズは、冷ややかな目をノエルに向ける。
「クラウス様の書信を受け取りあの村にいらしたそうですが、用件はソレをクラウス様から引き取るため。
確かそう仰っていましたね」
「貴様、口の利き方には気をつけろ」
「死に損ないは黙っているといい、リンデルト家の公子。
そういえばリンデルト卿はご息災か?
騎士団では随分とお世話になったな、懐かしい。
こうやって見るとよく似た面構えだ」
「ユマーズ、貴様……」
「よせ、アーガン」
余裕で憎まれ口を叩くユマーズに、だらりと右腕を下げ、左腕にノエルを抱えて歯がみする思いのアーガンをセルジュが止める。
その指先から滴る血が、水分はすぐ乾いた地面に吸われるけれど、色だけが地表に残され赤い水玉模様を描く。
「だがソレ呼ばわりは聞き捨てならぬ。
クラカラインの一員だぞ」
「名門アスウェル家の公子ともあろう御方がなにを仰いますか」
「ユマーズとやら」
「クラウス様は追放された身でございます。
クラカラインの血統は現当主の血筋のみ。
他があってはならない、そうではございませんか?」
「貴様がハルバルト卿の配下であることは間違いないようだ」
ユマーズの考えはハルバルト卿バルザックの受け売り。
それを認めるセルジュに、ユマーズは少し肩をすくめてみせる。
「話を戻しましょう。
自分にお偉い貴族の方々の事情はわかりませんが、おそらくクラウス様が、ソレの保護を城に求めたのは
「
クラカライン家のお家騒動もとい、兄弟喧嘩の後始末と考えていたセルジュは、ユマーズの口から出てくる意外な言葉に、わずかに眉をひそめる。
そして探るような目でユマーズを見る。
「最近の
その
「どういうことだ?」
各領には他色の神殿があり、神官たちが派遣されている。
それは他領に生まれる色違いの魔力を持つ者を正しく導くことを目的の主としているが、必要とあれば、その加護をもって領主に手を貸すこともある。
だが神官は魔術師である。
ぬぐい去れぬ宿業が根深く残っているため、派遣される他領の神官は任地、あるいは神殿を勝手に離れることが出来ない。
なにかしらの用があって離れる時は、護衛騎士とともに、案内という名目で監視が付くもの。
ユマーズの話では、ノエルが生まれ育った村を訪れた緑の神官には、監視としての赤の騎士がついていなかったというのである。
「奴ら、いつものようにフードを深く被っていたのですが、そのうちの一人がうっかり風に飛ばされたのです。
その時、自分は確かに見ました、額飾りに
護衛武官も左腕に緑の腕章を付けていました」
「
その訪問の目的はわからない。
けれどクラウスが書信を出した時期にあった、いつもと違う出来事としては、他に思い当たらないとユマーズは話す。
「裏付けは城に戻られてからとっていただくしかありませんが、最近の
ただこれは、監視すべき
先代領主の早世により就任した幼い領主に代わり、その母が摂政を務めているロードレリ家。
女が領主の真似事をすることに
そんな状態の
このことにどんな意味があるのか?
あるいはどんな目的があってのことだったのか?
わからないが、セルジュにとっては興味深いことであった。
もしこのまま
それは
再びあの戦乱の時代の訪れを意味するのだから……。
だがもちろんユマーズの言葉を鵜呑みにすることはないし、すでに騎士団では情報得ており、精査の段階に入っている可能性もある。
それにユマーズの立ち位置の都合上、このことはハルバルトの耳にも入るはず。
セルジュにとってはそちらの方が面倒であった。
いっそここでユマーズを殺して口を封じてしまいたいところだが、そうもいかない事情もある。
そこでセルジュはおもむろに話を戻す。
「……話はわかった。
だがこの話だけで、そなたがクラウス殿を手に掛けていない証にはならない」
「結構です。
自分の、
「ハルバルト卿の命を受け、クラウス殿の監視をするためあの村に向かった。
その貴様が、今さらわたしたちになんの用だ?」
すでにクラウスは亡くなった。
そこでハルバルトに命じられたユマーズの役目は終わったはず。
その彼がどうしてここに来たのか?
アーガンの傷も浅くはなく、あまりゆっくりしている時間はない。
そう思ったセルジュは本題を切り出す。
だが、そもそもセルジュたちは大きな勘違いをしていたのである。
「なにか勘違いをしていらっしゃるようだ。
自分が主人から受けた命は、クラウス様の監視ではございません」
答えるユマーズは、再びアーガンに向けて斬り掛かった。
【アロン・ハウゼンの呟き】
「ハルバルト様からの遣いはまだ来ぬかっ?
ハルバルト様がわたしを見捨てるはずが……なんだ、どうした?
アプラがあの使者一行を探してるだと?
放っておけ!
今はそれどころでは……いや、待て。
いま余計な騒ぎを起こされては、却ってハルバルト様の不興を買いかねん。
アプラに見張りをつけろ!
いや、すぐにでもあの愚か者を見つけだして部屋に閉じ込めておけ!
わたしがいいと言うまで絶対に出すな!」
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