18 領地境 ~川べり (1)

 街道の土手下を流れる川の水は、本当に冷たそうだった。

 ノエルが本当に男の子だったらよかった。

 アーガンたちも一緒になって水浴びをしたいくらい気持ちよさそうだった。

 けれどノエルは、都合で男児の格好をさせているとはいえ、本当は女の子である。

 いくら子どもでもこんな人目につく場所で肌を晒させるわけにはいかない。

 セルジュは 「駄目だ」 の一言で終わらせるが、目に見えてしょんぼりするノエルを見て胸の痛みを覚えるお人好しのアーガンは一つの提案をする。


「ではこうしよう。

 これから行く宿で湯を用意してもらって、体を拭いてやる」

「いつも、おみず」


 マイエル家では、どんなに寒い日でもノエルだけは湯を使わせてもらえなかった。

 でも数日に一度はちゃんと体を拭かないと母親エビラに 「汚い!」 と大きな声で怒られたから、青の季節になると家族が体を拭くための湯を沸かすのはノエルの仕事だったが、ノエル自身は薪がもったいないからといつも冷たい水しか使わせてもらえなかった。

 けれど今はまだ全然寒くないこともあり、川の水で十分。

 ノエルは拙い言葉でそう伝えるけれど、アーガンは 「俺たちのついでだ」 とノエルを丸め込みに掛かる。

 それこそ自分たちの残り湯を使えばいい。

 ついでだから全然手間ではない、と。


 代わりに川の水で手や顔を洗い、砂でじゃりじゃりする口の中を漱すすぐようにとノエルを抱えて川へと向かうアーガン。

 どうやらセルジュもそのつもりらしく、当たり前のようにアーガンの隣を歩いている。

 そして川縁でセルジュ、ノエル、アーガンと並んで手を洗い、口を漱ぐ。

 落ち着かないノエルは、左右の大人二人を見様見真似である。

 ついでに顔を洗っていたアーガンは、豪快に水をはねながらも横目でノエルの様子を伺っていた。

 乾季の今は、川の水も少なく流れも穏やかだ。

 いくら痩せっぽちのノエルでも流されることはないだろうが、何が起こるかわからないから注意していたのである。


 そんな三人とは少し離れた下流で、足を浸したり水を飲んだりして休む五頭の馬。

 そのそばではイエルとファウス、それにセスが何か話している。

 短い話はすぐに終わり、その場にどっかりと腰を下ろしたセスは馬を見ながら昼食を摂り始める。

 年長の二人はといえば、川から離れて木陰に移動するノエルたち三人についてくる。

 もちろん最初に腰を下ろすのはセルジュ。

 そんな一行の昼食は、朝食を摂った赤の領地ロホの町でイエルとセスが露店で調達したたパンと干し肉、それに開放された井戸で汲んだ水筒の水である。


 風に守られる白の領地ブランカの土地柄か。

 しかも今は一年で一番空気が乾く乾季でもある。

 すっかり固くなったパンは中がかすかすに乾き、干し肉はからからに干からびている。


 その整った容貌を筋肉で作り出しているアーガンたちはもちろん、セルジュも特に問題はない。

 貴族とはいえ生まれながらの白の領地ブランカの民であり、今の地位に就く以前には記録係などで騎士団の演習に同行したことがある。

 騎士団に所属しない文官とはいえ、当然野営の食事は干し肉だ。

 パンがついているだけ、質、量ともにましな食事と言える。

 けれどノエルには固すぎた。


 誰かに促されるまでもなくさっさと当たり前のように木陰に入り、どっかりと腰を下ろしてさっさと食事を始めてしまったセルジュも、いつの間にかその近く、日なたと木陰の境界あたりで立ちんぼをしているイエルも、パンも干し肉も変わらない固さを思わせる感じで食い千切るように食べている。

 ファウスは、セルジュが背もたれにしている木を挟んだ反対側に、やはり立ったままで済ませるらしい。

 アーガンに促されてセルジュの隣にすわったノエルも、みんなの食べ方を真似て歯で食い千切ろうとするが……


(……かたい……)


 パンはなんとか食べられた。

 乾いた空気や吸い込んだ砂でヒリッと痛む喉で飲み下すのは少し辛かったけれど、なんとか食べられる。

 けれど干し肉は手強かった。

 小さな両手で握るのに丁度いいサイズに切り分けられているが、一口で食べるには大きすぎる。

 そこでセルジュやアーガンを真似、思い切り噛みしめて右に左に引っ張ってみるのだがビクともしない。

 いや、歯形はついた。

 歯形はついたけれど、つくだけで食い千切るにはいたらず。

 何度か噛み直しては、右に引っ張り、左に引っ張り。

 そしてまた右に引っ張るけれど全く千切れない。

 必死になるあまり、呆れ顔で見ているアーガンにも気づかなかったほどである。


「噛み切れないのか。

 ちょっと待て」


 アーガンは手元に残っていた干し肉を、わざわざ食い千切っていないほうから、まるで紙でも千切るように適当な大きさにし、ノエルの手に乗せてやる。

 それから、代わりに歯形のついたノエルの干し肉を取り上げる。

 彼なりに学習したのだろう。

 先に渡してから物を交換すればノエルも怯えないということを。


 ノエルも、アーガンは食事も水も取り上げないということをそろそろ理解してきていたから、おとなしく受け取り、おとなしく渡す。

 しばらく受け取った細切れの干し肉を眺めていたノエルは、やはりアーガンを真似て手で千切ってみようとするがビクともしないことに呆然となる。

 自分が脳筋とは対局のところで生きていることに全く気づいていないノエルを、隣にすわるセルジュが 「食べ物は遊ぶ物ではない、早く食べなさい」 と注意、かつ急かす。

 一瞬ビクリと体を強ばらせたノエルは反射的に一切れを口に入れたが、それは味のしない布を噛んでいるようだった。


「もう少し食うか?」


 アーガンにはそう言われたけれど、ノエルは首を横に振る。

 パンもまだ半分ほど残っていたけれど、もうお腹はいっぱい。

 さすがにこれ以上乾燥してはとてもではないけれど食べられなくなるからと、今回の残り物は全てアーガンの胃袋に収まることになった。

 そうして人心地ついたところでセルジュがひっそりと話し出す。


「そのままで聞きなさい。

 これからする話はセスあれに聞かれるのはよろしくない」


 片足を伸ばし、片膝を立てるようにすわるセルジュは、川辺で馬番をするセスを視線だけで見る。

 それに倣うようにノエルも視線だけでセスを見ると、改めてセルジュを見て小さく頷く。


(イエルさまとファウスさまは……)


 小さな頭でそんなことを考えていると、見透かすようにセルジュが先回りする。


「この二人はいい。

 アーガンも信頼しているようだし、ファウスは神殿にいたことがあるはずだ。

 ならばなにかしらクラウス様の話は耳にしているかもしれん」

「おとうさん」

「そうだ」


 応えたセルジュは、一呼吸ほどの間を置いて言葉を継ぐ。


「まずは昨夜話したとおり、わたしから詳しいことは明かせない。

 いずれ別の人物から聞けるだろう。

 だが白の領地ブランカに戻って少し支障もある。

 だから幾つか、わたしから話せることを教える。

 まず神殿に寄らなかった理由だが、わたしとアーガンは貴族だ。

 そしてそこにいるイエルたちは白の領地ブランカの騎士団団員。

 つまり白の騎士だ」


(きしさま……)


 黙って話を聞くノエルは、心の中でセルジュの言葉を反芻する。

 こうやっていつも、物陰からこっそりと聞き耳を立てた村人の話を覚えてきたのである。


「わたしたちはある御方の指示で内密にそなたを迎えに行った。

 神官にはわたしたちの顔を知っている者も多く、立ち寄れば挨拶など煩わしいこともあるが、それ以上に、領地内とはいえ、領都を遠く離れた場所にいることに興味を持たれてしまう。

 しかも騎士まで連れているとなるとさぞかし興味を引くことだろう。

 だがまだそなたのことを知られてはならぬとの仰せがある」

「まぁ公然と私事に騎士を動かせる人間は知れているからな。

 おまけに神官どもの情報網は侮れん。

 奴ら、日頃から噂好きでな。

 しかも大好物を前に待てが出来ない。

 とんでもない悪食だ」


 それでも領地境りょうちざかいを越えて赤の領地ロホに向かう旅には護衛が必要だった。

 貴族ならば個人的に護衛を雇えばいい話だが、領地境を越えるために必要な腕っ節となると簡単には見つけられない。

 だがどうあっても護衛は必要だ。

 しかも秘密の厳守も必要となる。

 質を求めれば求めるほど探すことが難しい。


 その点騎士は絶対的君主を頂点とした組織に組み込まれ、命令系統には逆らえない。

 任務における秘密の厳守も当然のこと。

 そんな中から選ばれたアーガンはセルジュの従兄弟であり、イエルとファウスはアーガンの絶大な信頼を得ている。

 セスを連れてきたことだけは失策だが……。

 そんなアーガンの、うっかり発言を含む補足に混乱するノエルは、相槌代わりに頷くことも忘れて眉間に皺を寄せる。


「しんかんさま、あくじき、すき」

「……難しく考える必要はない。

 目的地に着くまでわたしやアーガンが貴族であること、ファウスたちが騎士であることは秘密。

 だから誰かに話してはならない。

 それだけだ」

「わかった」


 応えながら大きく頷くノエルを見て、セルジュはさらに話を続ける。


「我々の目的地は白の領地ブランカの領都ウィルライト。

 領都ウィルライトに着くまでは、最初に話したとおりそなたは下働きの男児として振る舞うこと。

 特段仕事はしなくていい。

 そう見えれば十分だ」


 実はセルジュには、ノエルに自身の世話をさせたくない理由がある。

 もちろん理由を知っているアーガンも気づいているが、理由が理由だけに少しセルジュを不憫に思ってここは黙って話を聞いている。


「但し身の安全のため、セス以外の誰かの側にいなさい」

「セス、いや」


 これもなんとなくノエルにも理解出来たから、小さく頷いて応える。


「それから明日、我々はハウゼン家に寄る」


 今日このままハウゼン家に向かえば、到着するのは日が暮れる頃。

 あらかじめ約束があるわけでもなければ晩餐に招待されているわけでもない貴族の家を、そんな時間に訪れるわけにもいかないため、今日は早めに宿をとって時間を調整するのである。

 余った時間で、最低限の礼儀として身綺麗にするため湯を使って体を拭き、明日の明るい時間にハウゼン家を訪れる。

 それが一行の直近の予定だとセルジュは話す。


「もちろんそなたも連れて行く」

「ハウゼンさま……おとうさんの……」


 ポツリと呟くノエルの声に被せるように、不意にアーガンが 「そうだ」 と思い出す。


「そなた、前にクラウス様と見知らぬ男が話しているところを見たといったな?

 村の人間ではない男と……」


 クラウスが調剤などの作業に使っていた納屋の裏手で、人目を避けるようにひっそりと話していたクラウスと見慣れぬ男。

 その男の口からノエルは 「娼館」 という言葉を初めて聞いたのである。

 アーガンの問い掛けにノエルは小さく頷く。


「その男、確かにクラウス様を 【兄貴殿】 と呼んでいたのだな?」


 少し念を押すように尋ねるアーガンに、やはりノエルは小さく頷く。

 それから少し記憶を手繰り、あることを思い出す。


「……おとうさん、あぷらどの、よんでた」

「クラウス様がその男をアプラ殿と呼んでいたのか?」


 念を押すように語気を強めるアーガンに、ノエルは叱られるのではないかと急に怖くなり、肩から掛けたままの鞄を抱えるように身を小さくして震える。

 だがアーガンはセルジュと顔を見合わせていた。


「やはりアプラ・ハウゼンか」

「そうなるな」

「念のために確認するが、他の可能性は?」

「クラウス殿は末子だ。

 本来のご家族・・・・・・で、クラウス殿を兄と呼ぶ人間はいない」

「例えば従兄弟殿とか……」

「クラウス殿の従兄弟?」


 そう呟いたセルジュは、不意になにかを思い出してふっと皮肉げに笑う。


「バルザック・ハルバルトか?」


 意表を衝かれたようにアーガンが 「あ……」 と、間の抜けた顔をして呟くのを無視してセルジュは続ける。


「他にはマキャブ・ウェスコンティ卿。

 どちらもユリウス様と同じような歳と記憶しているから、クラウス殿より歳上になるはずだ」

「……アプラ・ハウゼン……俺ですら知っている、あのろくでなしか」

「だがそうであれば、それ・・が娼館という言葉を耳にしたのも納得が出来る。

 小遣い欲しさにそれ・・を売り飛ばそうとでもしたのだろう」


 セルジュがノエルを 「それ」 というのも面白くないアーガンだが……


「……クソ外道め……」


 なにもわからない子どもを食い物にしようとするアプラ・ハウゼンへの嫌悪感を露わにするアーガンは、怒りのぶつけどころを求めるように手元に生えていた草を無造作に握ると力任せにむしり取った。



【ファウス・ラムートの呟き】

「バルザック・ハルバルト卿、マキャブ・ウェスコンティ卿の従兄弟。

 そしてユリウス様。

 間違いない、クラウス様は例の追放されたユリウス様の弟君。

 だが追放された方の子どもを領都にお連れするとは、公子も隊長もなにを考えておられるのだ?

 出自を考えれば正式に召喚するわけにもいかないのだろうが、そもそもなぜ白の領地ブランカに召喚されたのだ?」 

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