第5章(1)


 奥野と森上は、警視監が前に立って放った言葉を信じられなかった。

 曰く、ここに集結した人間たちが失敗すれば、隊員たちの安全を保障できない。

 それどころか、その後には日本、世界が危険に晒される可能性がある。

 だから、家族との時間を大切にしたい者については、この場所に留まることを強いない。

 警視監が拡声器を置いた。沈黙が流れる。

 わずかに戸惑いの声が上がり始め、それは留まるところを知らずやがて喧噪へと発展した。

「どういうことだ?」

 森上が、この日何度目かになる台詞を奥野に吐く。

「分からん。あの五人は、何に命を懸けてるんだ?」

 分からないことばかりだ。

 明確なのは二つだけ。何かとてつもなく大きなことが病院の中で起こっているということ。そして、その対処を秘密裏に進めている者たちがいるということ。

 奥野は病院の入口に目を向ける。まだ動きはなさそうだ。

「一人大学生みたいな男がいただろう? あんな若いやつも体張ってるのか?」

 そう言う森上は、昔から後輩に目を掛けるタイプの男だった。それゆえに、若く気弱そうな人間の安否が気にかかるのだろう。

「紺の帽子を被った女と、あの着物の男は『只者でない』感じがしたけどな」

 奥野が言うと、

「そうかもしれんが、もしこれがテロなら、どうにかなるものなのか? たとえば、病原菌をばらまいたとかだったら――」

「それはシャレにならんな」

「一人、防護楯を殴りつけていた女もいただろう? あれは味方なのか?」

「いや、俺に聞かれてもだな……」

 そのうち、その場を後にする隊員が出始めた。当然のことだろう。

「俺たちはどうする?」

 森上が焦った様子で聞いてくる。

 奥野も森上も独身だ。だが、親は存命だし兄弟や親戚もいる。機を逃して後悔することはしたくなかった。

「どうするも何も――」

 実際に命に関わる場面へ晒されると、どうも現実感が無い。大丈夫だろうという甘い考えと、今すぐ逃げるべきだというアラームが同時に押し寄せ、足がすくんだように動けない。

 

「おい、出て来たぞ」


 誰かの声で、再び沈黙が訪れた。

 病院の扉が開け放たれる。

 着物の男が子どもを二人抱えて出てきた。

 子どもたちは衰弱しているようだったが、奥野たちの場所からでも命に別状はないと分かる。

 大学生らしき男が、ぐったりとした少女を抱いてその後に続く。

 さらに、スーツ姿の女が、最後の一人を背負って現れた。

「おい、スーツの姉ちゃん、怪我してるぜ」

 森上が言う。

 スーツの女はこめかみから血を流していた。争ったのか、スーツにも汚れが目立つ。

 四人の子どもたちは、待機していた救急隊に引き渡された。

 病院の出入り口からは、あの「防護楯殴りつけ女」が顔を出した。相変わらず満面の笑みだ。右手に何かを引きずっている。

「警官だ!」

 誰かの叫ぶ声がする。

 女は、黄色い粘着テープでぐるぐる巻きにされた警察官の頭髪を掴んでいるのだ。

 警視監が駆け寄り、スーツ姿の女が何かを説明し始めた。

 事情を聴き終えた警視監は、右手を挙げて近くの隊員を呼ぶ。

「連行!」

 奥野と森上は、「女を連行しろ」と言っているのだと合点した。見るからに危険人物で、疑いようもない。しかし、連行されていったのは、警察官の方だった。

 何があったのか、警察官は意味の分からないことをわめいている。一目で正気を失っていると分かった。

 森上が眉をひそめる。

「なあ、奥野。あの女はやっぱり、味方なのか?」

 警視監が、四人に対して頭を下げている。

 どうやら、「命の危険」という状況からは脱したらしい。

「紺の帽子を被った姉ちゃんがいねえな」

「ああ」

 おそらく警視監も同じことを尋ねたのだろう。

 着物の男が首を振り、警視監は肩を落としてみせた。

 犠牲が出たのだ。その場にいる全員が、そのことを感じ取ったようだった。

 四人は言葉少なに警察車両に乗り込む。そしてあっけなく、朝もやの中へ消えて行ってしまった。

「俺、帰ったら母ちゃんに電話しようかな」

 らしくないことを森上が言う。奥野も頷いてみせる。

「俺もだ」

 朝焼けの中を鳥が飛んでいた。

「よし、片付けだってよ」と誰かが言った。

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