第4章(4)
――誰か一人は残らねばならない。
その結論に達したとき、英梨と総一郎は目を合わせた。
言葉など不要。互いに頷き合う。
「そっち側の一生君。一回、膜を切っちゃってくれる?」
『へ? あ、はい』
向こう側の一生が、メスで膜を裂く。あっけなく切れ目が入った。
そこからの動きは早かった。総一郎と英梨が一生の両肩を拘束する。
「え? ちょっと」
問答無用で立たせ、膜の隙間から外へと押し出した。
「うわあ」
抵抗する間もなく、一生は外側へと転がり出る。ここへ入って来たときと同じ、待ち受けのソファや受付があるスペース。
「若者が残るのは禁止だからね」
総一郎が手を振る。瞬く間に、膜の切れ目はふさがってしまった。
膜の向こうで、一生がもう一人の自分と相対している。
『お疲れ』
片方が、もう一方の肩を叩いている。
『じゃあ、俺は行くわ。また呼んでくれよ』
残りのメスを渡し、大きなあぶくが散ったかと思えば、もうそこに一生は一人しかいなかった。随分とあっさりと消えてしまったものだ。
「さて、どうしたものかしら」
英梨は口を開く。
とは言え、総一郎が何を言い出すのか、すでに予想はついていた。
「僕はねえ、美矢の理論を証明できたわけだし、もう満足なわけだよ」
――やっぱり。
英梨は「馬鹿言ってんじゃないの」と切り捨てる。
「その証明できた理論とやらを、あなた以外の誰が伝えるのさ」
総一郎の表情から察するに、納得はしていないようだ。しかし、これは機関にとっても重要なことなのだ。
「私はずっと現場畑でやってきた人間で、ここで起こっていることを理屈立てて説明することはできないわ。『階層をずっと降りて行ったら、青い砂漠がありました。刃物があるとよかったです』、以上終わり。でもあなたがその理論を体系化してくれれば、今後の階層で犠牲が減ることにつながるのよ」
言葉にしてみると、もっともらしく聞こえた。英梨は自分の二枚舌に苦笑しそうになる。
目を覚ましたとき、総一郎は奥さんと――あるいは彼の中にいる奥さんと――対峙していた。
「生きて」
彼女はそれだけ言って消えた。
それが彼女自身の言葉だったのなら、無下にはできない。
それが総一郎自身の(自覚のない)言葉だったのなら、彼は生きたいはずなのだ。
結論として、英梨は彼をここに置いておけない。
「理論のメモは残してあるから、機関の人間がそれを見れば分かるはずだねえ。それに、現場に出向こうとしない僕が生き残るより、英梨さんが戻った方が犠牲は減るだろう?」
ああ言えばこう言う。この男の悪癖だ。素直に受け取ればいいものを。
英梨はため息をつき、一つのカップを差し出す。カップアイスの容器だ。
さすがの総一郎も意図を汲めなかったらしい。「これは?」と尋ねてくる。
「この場所にいる間に拾った、私自身の記憶」
ぐい、とカップを差し出す。
「ここに埋まっている記憶は、ほとんど一生君とあなたの物。私には、これしかないの。なぜなら、記憶を消しているから」
「記憶を――」
「この仕事をしていると、互いの内側へ潜り合うような戦闘に発展することも少なくないのは知っているわね? そのとき、大切な記憶は致命的な弱点になる。だから、私は定期的に、必要最低限以外の記憶を消去しているの。私が第一線で、いわゆる『ベテラン』として続けてこられたのはそのおかげ」
カップを砂の上に放る。それは空っぽな音を立てて、砂の中へ沈み込んでいった。
「あのね、内側に取り残されたからって、死ぬわけじゃないの。私はここで、この子の一部になる。いつか会えるかもしれないわね」
総一郎は聡明だ。英梨の言わんとするところを理解したらしい。
肩を落とし、反論をしようとしない。
「私はこの子の一部になって、いろんなものを見て、いろんなことを感じたいの。ね、そろそろ私を解放して」
総一郎はゆっくりと頷く。決着はついたらしい。
膜の外で二人を見守っていた一生に、総一郎が「頼む」と声を掛ける。
「お願いします」
そう言うと、総一郎は振り返らずに膜の外に出て行った。
膜はすぐにふさがってしまう。
ぶくぶくと水泡が上がり、膜の向こう側がくすむ。もう向こう側の様子を見ることは叶わない。
英梨は膜に手を当てた。
青い光がきらきらと瞬いている。
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