第2章(3)
マリは顔を上げた。ふすまが眼前にある。
総一郎の部屋だ。
総一郎が姿を消してしまってから、マリは彼が部屋に戻ったのではないかという希望にすがった。
離れの扉を開けてみて、そうでないことはすぐに分かった。履物もなく、離れ全体がしんとしていて人の気配がない。
――旦那様。
呼びかけようとして、口をつぐむ。
マリが使用人として桐島家に雇われたとき、総一郎はすでに結婚した後だった。
だから、それ以前の総一郎について、他の使用人から聞いた以上のことは分からない。
誰の手にも余る放蕩息子。
名門私立大学に進んだものの、授業に顔を出そうともせず、たまに足を運んだかと思えば誰彼構わず舌戦を仕掛ける。
一度など、国文科の教授に「あんたの垂れ流す文学の解釈が世の中で何の役に立つのか」と吹っ掛けて、教授のシンパたちに追い回される羽目になったこともあるらしい。
どこで学んだのか弁だけは立つものだから、面子のある教授たちからは相当疎まれていたようだ。
大学へ行かないときに何をしていたかと言えば、家の金を持ち出して当てもなくあちこちをぶらついてばかりだったと言う。ふらりと立ち寄った美術館で浮世絵を見れば、「感動した」と宣って高額な模写を何点も買い込む。何気なく降りた駅の土産屋で焼き物を見れば「奥深い」と得心して高額な壺やら食器やらを買い込む。
使用人の古株たちが言うには、父親との関係がそういった行動の根底にある(ように見えたそうだ)。
心臓の弱かった母親は、彼を産んだ予後が良くなくて、やがて亡くなった。
家を守るため本家との関係に腐心していた父親は、息子が能力を授かったと知るや、幼い頃から徹底的に訓練を積ませた。それは、忘れ形見を死なせたくないという愛情と、妻を失うきっかけとなった人間への憎悪とがないまぜになった峻烈さだった。親子らしいやり取りは一切なく、父はひたすら息子に強さを求めた。
だから総一郎の放蕩ぶりは、家への反発に由来している。
彼自身には、主義主張も、好みも趣味もないのだ。
相手を言い負かすためだけに議論を仕掛ける。散財して周囲を困らせるためだけに高価な物を蒐集する。
話を聞いただけのマリをして、さもありなんと思わせる典型的な天邪鬼と言えるだろう。
しかし、結婚が彼のすべてを変える。
勤めることになった初日、マリを出迎えたのは、温和な総一郎と、妻の美矢だった。
総一郎の天邪鬼は影を潜め、使用人たちには礼を言い、放浪も散財もせず、家で美矢と談笑している姿しかマリは見たことがない。表には出さないものの、父親の難しい立場にも理解を示していたらしい。
美矢は穏やかで純朴で、しかし自分の芯をもつ女性だった。総一郎のことを一から十まで理解し、時に称え、時にたしなめた。彼女の意見に、総一郎は反発を見せたことがない。
彼女は機関の所員で、総一郎があるとき嫌々ながら機関の施設へ赴いた折に出会ったという。
マリが来てから二年目の春に、総一郎の父が病没した。総一郎と美矢は落ち着いてその後を引き継ぎ、周囲の誰もが安堵した。
――そんな折、美矢が命を落とす。
マリは、ふすまに手を掛ける。
家を継いでから、総一郎たちは母屋で暮らしていた。しかし美矢を失ってから、主人はよくこの離れを訪れていた。
総一郎の部屋。
普段は、「昔集めた浮世絵の中に、春画も多いからね」とうそぶかれ、入ることのできなかった場所だ。
――旦那様がいるはずはないのだけれど。
マリはふすまを開け放った。
おびただしい数の浮世絵や焼き物が目に入った。
博物館のような棚がいくつも備えられ、そこに今まで蒐集した物が飾られているのだ。なるほど確かに、中には猥雑なものも混じっているようだ。
奥へと進んでいく。大きな棚を五つほど数えたところで、質素な机が現れた。学習机と言ってもいいような、およそ総一郎らしくない机である。
そして、その横の壁一面に、おびただしい量の紙が貼り付けてあった。
――何、これ?
近づいてみる。
紙には数式が書き込まれていた。鮮やかな紫色で書かれた、端正な数字たち。
マリには見覚えがあった。その紫色は、美矢が好んで使った万年筆のものだ。
これは美矢の研究成果なのだ、とマリは直感した。
機関の中で、美矢は研究職の立場に属していた。
彼女は「まだ仮説段階だから」と多くを語ろうとしなかったが、一度だけ、総一郎に研究について語っている様子を見たことがある。
「もしこの仮説が正しいと証明されたら、一緒に見てみたいわね」
――見てみたい。
彼女は確かにそういった。マリにはその意味するところが分からなかったし、総一郎も同じだったのだろう、「何のこっちゃ」と返しただけだった。
そして美矢は、研究の一環として、深い階層へと潜る任務に同行。命を落とした。
マリは数式を見つめる。
紫色の数式に、いくつもの矢印が引っ張られていた。その先に、おそらく鉛筆で殴り書きのようなメモがされている。
メモの量は、数式の何倍にもなり、書いて消してを繰り返したのか、中には潰れて読みづらいものもある。
――美矢様の字じゃない。
マリはそっとそのメモを指でなぞる。
『階層の収束性を定義する数式(これは二重線で消されていた)? 階層の次元に関する数式』
『未証明事項二←階層三にて確認済み』
総一郎の字だ。
美矢が情熱を傾け続けてきた研究を、彼は理解しようとしたのだ。妻の思考過程をなぞっていくように。
まだ証明されていない事柄は、自分の目で確認したのだ。
――そのために、最近は危険な任務ばかりへ?
数式とそれを理解しようとあがく総一郎のメモは、長く長く続いた。マリの指もそれに合わせて動く。
最後の一枚。
そこに数式はなかった。
ただ、美矢の手によって、一つのイラストが描かれている。
袋状の何かが、口を下にして中央から沈んでいく。言ってしまえば、裏返りかけた靴下のような図だ。これが彼女の見つけた「仮説」なのだろう。
その横にも、総一郎の書き込みがあった。
『絵心なさすぎだろう、美矢』
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