第2章(1)
オキニイは自分のことをよく承知している。彼が今の仕事で重宝されているのは、視力と、頭脳と、口の堅さによるものだ。
視力六.〇と言うと、周囲からはアフリカ出身だからと納得される。
確かにオキニイの父方のルーツはケニアにあるようだが、彼自身はヨーロッパ出身で、狩猟の経験もない。むしろテレビやタブレットといったモニターは身近なものであった。
だから自分の視力が偶然の産物なのか、血筋によるものなのかオキニイには分からなかったし、知ろうとも思わなかった。
彼の仕事は、面白味のない縦縞の制服を着て、アイスクリーム店のレジに立つことだ。駅近くの地下街で人通りはあるが、すぐ近くに有名店があるため、驚くほどに売上は少ない。
この日も、オキニイは朝九時からずっと店頭に立ち続けていた。
すでに時刻は正午を回っている。
彼は何回目かの「ロビン・クルーソー」を脳内で読み返しており、開店から今まで、読書を邪魔する客はいなかった。
「ロビン・クルーソー」は良い。困難で危険な状況を描いているにも関わらず、無人島での生存にはどこか解放的なイメージが付きまとう。
コリンズの名作ミステリー「月長石」にも、この作品に心酔した老執事が登場するが、それもまた「ロビン・クルーソー」の価値を裏付けていると言えるだろう(とオキニイは考えている)。
そんな思索にふけるオキニイへ、くたびれたダウンジャケットの男が近付いた。
「いらっしゃいませ」
「バニラを一つ」
男はダウンのポケットをじゃらじゃら言わせ、トレーの上に一枚ずつ小銭を並べる。
その後、ぼそりと「Imechoka(くたくただ)」と呟いた。スワヒリ語だ。
「Natumai u mzima(お大事に)」とオキニイは返す。
男はバニラアイスを受け取ると、レシートを残して立ち去った。オキニイはその後ろ姿を目で追う。
少し先にあるコインロッカーの前で男は立ち止まった。内ポケットから何かを取り出し、ロッカーに入れる。
「〇一七」
オキニイはそのロッカー番号を、男の残したレシートの裏へメモする。
男はそのままロッカーの扉を閉め、暗証番号を設定する。
男の指がパネル上のどの数字を押したのか、オキニイにははっきりと見えている。当然、それらもレシート裏へと書き残しておく。
バニラアイスを注文しスワヒリ語を話す客の、コインロッカーの番号とパスワードを記録しておく――それがオキニイの仕事だ。
十分と経たないうちに、背の高い紺色の帽子とサングラスを身に付け、帽子と同じ色のコートを羽織った女が店へとやって来る。
彼の雇い主だ。
「オレンジシャーベット」
「かしこまりました」
オキニイは軽く頷いてから、手早く商品を準備する。
そして、アイスと一緒に先ほどのメモを手渡す。
「Asante(ありがとう)」
女は颯爽と歩き出し、当然のように〇一七番のコインロッカーを開ける。
中から取り出したのは折り畳み式の携帯電話だ。
彼女は年に何度か、このようなやり方で自分の足跡を残さずに通信機器を入手する。オキニイはそれをアシストし、莫大な報酬を得ている。
彼女の目的も、自分が担っている役割の意味もオキニイは知らなかった。それでいいのだ。
オキニイは再び、頭の中にある本の頁をめくり始める。
そんなオキニイを後に残して、女――本樫英梨は携帯電話をプッシュした。
本体を肩に挟んで呼び出し音を聞きながら、器用にカップのシャーベットをスプーンですくい始める。
二口ほど食べ進んだところで「はい」と応答があった。
「私よ」
「またあなたね。いい? 機関の人間と任務に当たる人間が、個別に連絡を取ることは禁じられているの」
「だから回りくどいやり方で、足がつかないように連絡しているんじゃないの。こっちは命が懸かっているんだから、情報収集くらいさせてもらうわ、野沢さん」
電話の向こうでため息が聞こえた。
「それで、何が聞きたいの? 私も今回は忙しくて――あ、ちょっと、勝手に動かないで」
「誰かと一緒なの?」
「ええ、ちょっとね」
常に冷静沈着で知られる野沢が、電話の向こうで少なからず狼狽しているようだ。英梨は吹き出しそうになった。
「本当にバタついているようだから、手短に済ますわ。本件の規模と、招集されている人間を教えて」
「規模は階層五。ここ十数年で最大級」
「依頼のとおりね」
「ええ。今回は上層部も危機感丸出し。依頼内容も馬鹿正直に書くもんだから、断る人間ばかりよ」
野沢の口調が荒れている。
「招集されたのは、萩野姉弟、桐島総一郎、香月桜子、そしてあなたよ」
英梨の脳裏を、一瞬にして様々な思考が駆け巡った。
萩野姉弟にはまだ荷が重いのではないかという懸念。桐島の存在は心強いが、あのひねくれ者をどう動かしたのかという驚き。そしてそれを全て覆うほどの――。
「香月桜子がいるの? 納得したわ。あなたがあの超危険人物のお目付け役ってわけね」
「ええ。そんなわけだから、もう切るわよ」
「もういいわ。ありがと」
プツリと通話が切れる。
英梨は携帯電話を二つにへし折って、カップやスプーンと共にゴミ箱へと入れ込んだ。
――香月桜子、ね。
不穏な何かを感じながら、しかしそれを振り切るように、彼女は歩き去った。
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