集結
葉島航
第1章
バーの中は青い光に包まれていた。
本樫英梨はカウンターの一番奥に腰掛ける。
「何にいたしましょうか」
初老のマスターが尋ねてくる。彼は今、LPを取り替えて針を落としたところだ。Beatlesの"All you Need is Love"がもったりと流れ始める。
「レッドアイを」
英梨が言うと、マスターは白い髭の奥で微笑んでみせた。
「マティーニなどはいかがですか?」
英梨はしばし動きを止め、探るようにマスターの顔を見る。
その後、ゆるゆると首を振った。
「明日も早いのよ」
「オーナーから、ぜひと聞いております」
「オーナーから?」
「ええ」
英梨の顔に、あきらめに似た色が浮かぶ。
「それなら、マティーニを」
「かしこまりました」
マスターはカクテルの準備に取り掛かる。その手さばきには一切の無駄がない。
英梨は小さなため息をつきながら、手帳とタブレットモニターを取り出す。
翌日のスケジュールに指を走らせ、そのままタブレットに何ごとかを打ち込む。モニターには「キャンセル」の文字がいくつか踊っている。
「お姉さん、マティーニだって? ずいぶん強いお酒を注文したんだね」
横の席に座っていた男が声を掛けてくる。ダブルのスーツを着こなし、いかにも会社の重役という雰囲気だ。
「そうなの。お酒に飲まれないように気を付けないと」
「明日も早いとか」
「いやだ、最初から聞いていたんですね?」
「そのつもりはなかったんだ」
男は手を上げてひらひらとさせてみせ、コートを手に立ち上がった。
席に何枚かのお札を置き、
「マスター、これで失礼させてもらうよ」
ちょうどマティーニのグラスにチェリーを添えたところだったマスターは、手を止め、慇懃にお辞儀した。
「お釣りは、そのマティーニ代に」
男はそう言って店を出て行った。
英梨は軽く吹き出しながら、「キザね」と言う。
「よく利用してくださる方です。マナーも金払いもいい上客、と言うと言葉が悪いですかね――さて、マティーニです」
店内には英梨とマスターの二人だけだ。
青い照明の中に、海の底のような寂しさが漂っている。
Beatlesが"All you Need is Love"のフレーズを繰り返している。
英梨はマティーニのグラスを持ち上げ、その下に敷いてある紙を手に取った。
四つ折りになったそれを広げる。
紙面には、簡単な地図と時間が記載されているだけだ。
「私に依頼が来るなんて珍しいわね」
「それだけ大掛かりな任務ということです」
「私以外にも招集が?」
「そのようです」
英梨は紙をハンドバッグへ仕舞った。
「おあつらえ向きに、誰もいないわ。もっと詳しく、場所と時間と状況を教えてもらえる?」
「かしこまりました。まず、場所ですが――」
そのとき、バーの近くを列車が走り抜け、マスターの声はかき消された。
列車がトンネルに入ったので、窓に自分の顔がはっきりと映った。
萩野一生は、まじまじとその虚像を覗き込む。
「気分はどう?」
囁くように尋ねると、向こう側の自分が妙に上ずった声で答える。
「最低だよ」
「そりゃあそうだ」
なおも会話を続けようとする一生だったが、「何やってんのよ」という冷めた声で窓から目を離した。
「ここまでぶっ壊れているとはね」
そう言って隣に萩野夏実が腰掛ける。
「それが久々に会った弟に吐く言葉かよ」
「一人二役でおしゃべりしているやつに、『久しぶり!』なんて言える?」
「他に客もいないし、いいじゃないか。ひそやかな楽しみを――」
「え? あれが楽しいの? いよいよ末期ね」
一生は顎の下を擦る。
「そういう楽しさではなくて、何と言うんだろうね――」
夏実は彼の話など聞こえていないかのように、コーヒーをかき混ぜている。フレッシュがカップの中でまだらに広がった。
「――形而上的に楽しい」
一生が納得顔を浮かべる横で、夏実は眉をしかめてみせる。
「形而上的に楽しい?」
「うん」
「あきれた。『なんとなく楽しい』って言っているのと変わらないじゃない」
「いや、似て非なるものだと思うよ」
夏実はあきらめたようにため息をつき、話を打ち切った。
「それよりも、今回は本樫英梨も動くらしいわよ」
この情報には、ぶっ壊れかけている弟も比較的明瞭な反応を見せた。
「ベテランが来るんだね。そうしたら、僕らが働かなくても済む」
「何言ってんの。そんなにうまいこといかないわよ」
列車は駅に停まる。空気の抜ける音がして扉が開くが、乗り込んで来る者は誰もいない。
夏実はハンドバッグから、白い封筒を二つ取り出す。
「書いて来た? 遺書」
扉が閉まり、列車はまた走り出す。
一生は唇を横に結んで少しの間黙った。その後、コートの内ポケットをごそごそやり、同じように二つの封筒を見せつけた。
「一つずつ交換ね」
「同じことを二回書くのは面倒だった」
「わがまま言わないの」
夏実は二人分の封筒をまたハンドバッグに仕舞う。
「今回集められた人間のうち、何人が無事に戻れるか分からないわ。経験の浅い私たちが二人そろって元気に帰って来る可能性なんて、ほとんどゼロよ。でもこうやっておけば、少なくとも生き残った方がパパとママに手紙を見せられるでしょう?」
一生は何か言おうと口を開きかけたが、すぐに閉じて窓の方を向いた。
「姉さんはどこで降りるの?」
「次の駅。そこからは別のルートで向かうわ。目的地へたどり着く前に、そろって消されたくないからね」
「移動中を狙われるなんてことあるかな?」
「前例がないわけじゃない」
てきぱきと荷物をまとめ、仕上げにコーヒーの入った容器を持つ。
「それじゃあ、後で会えるといいわね」
そう言う姉に、一生は不器用な微笑みを向けた。
「幸運を祈るよ」
列車が停まり、再び扉が開く。
その向こうへ踏み出す寸前、夏実は笑顔で振り返った。
「こういうの、形而上的に悲しい、って言うのかしらね」
桐島総一郎が花壇に水を遣っていると、「旦那様」という声がして、女中のマリが駆けてきた。
「向かわれるんですか?」
「向かう? どこに?」
「へ?」
話がかみ合わず、互いに見つめ合ったまま首をひねる。
やがて総一郎は合点がいったようで、「ああ、僕が仕事に向かうと思ったんだね」と笑った。
「そう、そうなんです」
「僕が旅支度をしているように見えるかい?」
総一郎はいつもどおり、きつね色の着流しに下駄の装いだ。鞄の一つも持たず、代わりに右手には如雨露を握っている。
若い女中も、今更ながらそれに気付いたようだった。
「失礼しました。水遣りをなさっていたんですね」
「うん。ここの彼岸花が咲きそうでね。それにしたって、どうしてそんなに慌てて追いかけて来たんだい?」
マリの顔がほんのり赤くなる。
「それはその……旦那様が何も言わずにいなくなってしまうような気がして」
「なぜ?」
意を決したように、マリは総一郎の顔を正面から見つめた。
「今回のお仕事、相当危険なんですよね?」
総一郎は肯定も否定もせずに、ただニヤリと笑い――この男の笑顔はどこか狐に似ている――「本当に、こういう話はどこから漏れるんだろうね」と言った。
「本来は本家が担うべき案件なのに、どうして旦那様が?」
「分家は本家に逆らえないからねえ」
「――嘘です」
花壇の方に向き直りかけていた総一郎が、極めて興味深そうにマリの顔を見つめた。
「どうして嘘だと思うのかな?」
「みんな言っています。奥様を亡くされてから、旦那様は仕事の選び方が変わったって」
「変わった?」
「ええ。まるで――失礼を承知で――死に場所を探されているような」
曲げた人差し指を唇に押し当てて、まだ若造にも見える主人は笑った。
「そこまでバレちゃあ仕方がないねえ」
悲痛な表情を浮かべかけたマリに、総一郎は舌を出して見せる。
「――なんてね」
「……は?」
マリから思わず素の反応が飛び出す。
主人はそれが面白くてたまらない様子だ。得意げに、指折り話し出す。
「僕はねえ、そんなに使い勝手の良い男じゃあないわけだよ。さすがに今回はいくつかの手札が必要だったけれどねえ――本家十二代目当主の不倫、その次男の浪費癖、長女の入婿にまつわるよろしくない交友関係……」
「……脅迫?」
「とんでもない。小耳にはさんだ噂を話題にしただけだよ。由緒正しい本家で、まさかそんなことが起きるわけないからねえ。だけれども、なぜか危険なお仕事は全部本家が背負ってくれることになったわけ」
ほっとしたのか、マリは笑みを浮かべた。
「ならいいんです」
「水を遣り終えたらお茶にしようかねえ。他のみんなも呼んでくれ」
そう言って、総一郎はまた如雨露を傾ける。
マリは威勢よく「はい」と応え、来たときと同じように母屋の玄関まで駆けた。
「お茶菓子は何にしましょう? この前いただいたどら焼きが――」
言いながら振り向いた。
後の言葉は、風に散っていく。
花壇の脇に如雨露だけが置かれ、総一郎の姿はすでになかった。
野沢が入室すると、アクリル板の向こうで香月桜子が微笑んでいた。
そっけない舎房着姿だが、それを補って余りある美貌は相変わらずだ。
野沢は脇の刑務官に視線を送る。刑務官は無言で一礼し、面会室を後にした。
二人の女は、しばし無言で見つめ合った。
桜子は微笑を崩さない。ただ、目だけは鋭く光っている。
「任務の依頼に来たの」
根負けしたのか、野沢が口火を切る。
「対価は?」
桜子は即座にそう返す。抑揚のない平坦な声だ。
「刑期の短縮、あるいは仮釈放」
返事を聞き、桜子はくすくすと忍び笑いを漏らした。
「よほど切羽詰まっているらしい。受刑者の手を借りに、機関のトップクラスがこうやって出張ってきている」
「お願いできるかしら?」
桜子は野沢の問い掛けに応えない。
ゆっくり首を回して、髪を後ろへ送る。彼女の手には手錠がはめられ、それは机の下で固定されているらしい。
「お前たちは我々のことをまだ誤解しているようだ」
「我々とは?」
やはり桜子は質問に答えない。瞬きすらしないまま、野沢を凝視している。
「我々にとって、罪を犯すことには嗜癖が絡んでいる」
彼女の言う「我々」とは、つまり彼女と同様な受刑者を指すらしい。
「嗜癖、依存、中毒、addiction、呼び方はどうでもいい。重要なのは、嗜癖である以上、再犯が避けられないことだ」
彼女はジャラッという鎖の音を響かせて、自分の胸を指さした。
「仮に、日々罪を悔い、反省の言葉を心の底から幾度も口にしたとしよう。そのうち我々は釈放される。当面は保護観察のもと、職探しをしたり、更生保護施設の世話になったりするだろう。やがて、当然の如く環境に隙が生まれる。それは失職かもしれない。監視される時間が減ることかもしれない。あるいは、古い知人との再会かもしれない。もっと小さな何かかもしれない」
こらえきれないように、桜子は再びくすくすと笑い出す。
「そのとき、我々は再び罪を犯すだろう」
「何が言いたいの?」
「お前たちは、大きな脅威を避けるため、別の脅威を解き放とうとしている。機関も、いよいよ打つ手がないようだ」
野沢は青筋を浮かべながらジャケットの裾を握りしめる。
「そんなことは分かり切っているわ。でも今回は只事じゃないのよ」
「協力するには対価が不適切だ」
「何が要るっていうの?」
桜子はにんまりと口角を上げた。同時に、目を大きく見開く。
「刑期の延長だ」
「延長? それが対価?」
美しい受刑者は「無論だ」と頷く。
「先ほど言ったとおりだ。環境に隙が生まれたとき、我々は再び罪を犯すだろう。しかし我々はそれを自ら望んでいない。ならば、対価としてこれ以上のものはないはずだ」
野沢はため息をつきながら、頭を何度か擦った。
「昔からだけど、あなたの言っていることは全く分からないわ。でも刑期の延長を条件に、この件に協力してくれるってことでいいのよね?」
桜子は歪な笑みでまた頷く。
手錠がジャラリと音を立てた。
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