星天の夜更け(side ルーナ)
「ここまでくれば――大丈夫だろ」
夕暮れに昇った半月が沈みかけ、北の七星と逆向きの天馬が映る星天。
とっぷり更けた夜半。わたしとフェルナンドは山裾に口をあけた洞の中にいた。
フェルナンドがことばを唱えると、小さな光霊が宙に浮く。旅人を装った二人の影が洞窟の中に映った。
「もう、上手くいくって嘘ばっかり」
わたしが口をとがらせると、フェルナンドはまいったなぁと言わんばかりの照れ笑いを浮かべて、洞の中にどっかり腰を下ろした。
「悪かったって、ルーナ。帰ったらうまい飯作ってやるから」
「じゃあトマトとチーズのリゾット。チーズはトロトロで」
「子供舌のくせにまた贅沢な要求を……」
「フェルナンドが作ったのなら絶対美味しいもん」
「お褒めに預かり恐悦至極。――ほれ、星天術書よこせ」
「ん」
わたしは言われるままに首からかけていた小ぶりの本をフェルナンドに手渡す。
代わりに彼は、背負っていた革袋から同じ大きさ、同じ装丁の本を取り出した。
「ほれ、予備」
「ありがと」
ゴツゴツした手から渡された新しい本を受け取ると、表紙に手を触れる。
星よ、応えよ。簡単な呼びかけで、この本はわたしだけの術具となる。
そうして『起こした』本を閉じると、さらに意識で本の中へ『潜る』。
表紙の術式を媒介に、たくさんの記述の中からわたしは周囲を探る術を選ぶ。
「ことばよ、星を得てかたちとなれ」と一言。それで術は空間に広がった。
それらの作業を終えると、わたしは本を革ベルトで固定して首にかける。少し重いけれど、大仰な杖を持ち歩くよりずっと軽い。
その間に、フェルナンドは彼自身の作業を進めていた。
腰の後ろに吊っていた本を取り外して手元に置く。わたしのものよりも一回り大きな本。厚みも倍ぐらい。
革地にからくり装飾を施された表紙。
そこに星図を模して埋め込まれていた宝石は、くすんだ灰色に変わっていた。
フェルナンドはバネの仕掛けで一度に宝石を取り外すと、革袋へ放り込む。
それから本を開けば、前半の三分の一ほどは白紙。残りのページにはびっしりと術式が書き込まれていた。
空白になった一ページ目から、フェルナンドは羽ペンで新たに術式を殴り書いていく。すごく崩した筆記体。わたしにはさっぱり読めない文字。けれども、意味は通じるはずの、術式の羅列。
集中している彼は、わたしのひいき目を足せば、とてもかっこいい。
だからどうしても、邪魔をしたくなってしまうのだろう。
「フェルナンドは、死ぬのは怖くない?」
「なんだ、いきなり」
声では答えてくれる。視線はそのまま、羽ペンを持つ手は止まらない。そんなところもかっこいい。
「こんな仕事して、死にそうな目にあって、追っかけられて、怖くない?」
「さんざん駄々こねてついてきたお前が言うことかよ」
「わたしは怖いよ。すごく怖い。フェルナンドがいなかったらこんなことしないもん」
「だからやめとけって、あれだけ言ったんだ」
「でも。フェルナンドがここにいるから」
「…………」
わたしは、彼のことをまだ全然知らない。
何が好きで、何が嫌いなのか。
星天術士なんて素敵な名前の魔法使いなのに、どうして外を走り回って、お貴族様の屋敷に忍び込んで、盗賊みたいな仕事をしているのか。
――どうして、たったひとりで死にかけていたわたしを助けてくれたのか。
「……俺もこの仕事は怖いさ。けど慣れちまったんだ。他にできることもないしな」
すこし真面目な顔で、ペンの動きは止めないままフェルナンドはため息。
「こんな仕事にお前も巻き込んで悪いとは思ってる。本音を言えば連れて来たくはなかった」
『少しでも才能がなけりゃ置いていく』。それはフェルナンドの口癖だ。
けれども幸い――(彼に言わせれば『厄介なことに』)わたしには才能があったらしい。それも、十年にひとりぐらいの。
とても難しいことをいくつも叩き込まれ、でもわたしは必死で食らいついた。
危ない仕事だからこそ、せめてその瞬間にそばにいられるように、と。
いまはやっと、文句を言われながらも彼を助けられるようになったばかり。
「ぜんぜん。悪くないよ。家にひとり置いてかれるほうが、ずっといや」
「だがなぁルーナ。……術は上手くてもお前、夜更かし苦手だろ」
「もう平気だよ。……ぁふ。大人、だから……」
最悪のタイミングで襲ってきたあくび。わたしはそれを見事に飲み込み損ね、それを見たフェルナンドが笑いを噛み殺していた。思わず頬が熱くなる。
「動くときには術式で目ぇ覚ましとけよ?」
「だっ、だから、大丈夫だって――」
恥ずかしさに目を回していると、唐突に術式の警告がわたしの意識を叩いた。
展開していた警戒網に追手が引っかかったのだ。
「っ! ……来た! 敵、五人。北北西から」報告しながら、わたしは意識を仕事へ切り替える。「ゆっくりこっちに向いてる。見込みあと十分」
「ち――流石にしつこい。ここで仕留めて先へ行くぞ」
フェルナンドは羽ペンの手を止め、すぐに本を閉じる。それから革袋から予備の宝石を取り出すと、手早く本の表紙へはめていく。
かちり、かちり。留め具が音を立てて、やがて表紙に色とりどりの星図が完成する。「星よ、応えよ」フェルナンドの一言に光を得て本が力を取り戻す。彼はベルトで本を縛ると、腰裏に吊り下げた。
「今書き足した分が五ページちょいか――小さい方の予備は残り二冊。恐らくこれで帰るまでもつはずだが……」
「信じていい?」
「当てにしない程度にな」
「かみさま、わたしはもうダメみたいです。背教者は永遠の業火に落ちますのでどうぞさがさないでください……」
「おいおいこらこら」
困ったように頭をかくフェルナンド。わたしはどうしてかそんな姿が好きで、ときどきいじわるになってしまう。
でもたぶん、これはわたしの特権。今のところ、彼にとっても『たったひとり』であるわたしだけの。
上手な甘え方なんて覚える前に、ひとりになってしまったわたしの、せいいっぱい。
「ふふふ」
「ったく。いい顔しやがって」
「大丈夫。絶対二人で帰れるって、信じてるから」
「それだけわかってりゃ上等だ」
互いに笑みを向け合うと、頷き合う。
明かりにしていた光霊をフェルナンドが消し、二人の準備はできた。
「先手を打つぞ。カウント、五――」
「ん」
もう言葉は要らなかった。わたしは胸元の星天術書に手を添える。
「四、三――」
フェルナンドのカウント。聞き慣れたテンポで低い声が数字を減らす。
「二、一――」
そして、
「ゼロ」
瞬間。星が
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