叛逆の意思 その7
気が付くと、ミレイユは一面、白色で満たされた部屋の中にいた。
いや、部屋というのも正確ではない。
白で満たされた空間には影がなく、奥行きもその幅も、計れる物差しとなる一切が存在していなかった。
ただ、どこまでも続く空間、どこまでも広がる空間に見えるのに、ミレイユには不思議と大きな部屋の中にいるのだと思えた。
白の部屋に音は無く、空気の揺らぎまでも感じない。
何もかもが制止していて、また何物も存在していない。
ミレイユは部屋の奥――奥と思われる、正面方向へ歩き出した。
行きたいという気持ちからではなく、行かなければならない、という使命感からでもなく、ただ漠然とした気持ちから動いたものだった。
だが、歩き出して数歩、ミレイユの足が鈍る。
――何か恐ろしいものが、この先にある。
その予感が、胸の鼓動を早くさせ、足の動きを遅くさせた。
予感を得てからは、近付きたくないと思う気持ちが溢れて来る。
それなのに、足の歩みは止まらない。止めようと思っても、意思と反して止まらなかった。
一歩踏み出す毎、一歩近付く毎に、母親が𠮟る様な居た堪れなさが去来する。
幼子が母に頭上から怒鳴られるような、萎縮し、俯くような気持ちにさせられるのに、それでも足を進めてしまう。
――あの先にあるものは、恐ろしいものだ。
それが一歩進む毎、何かが警告してくれている。必死の呼び掛けだから、その様に感じてしまうのだろう。
ここに音は無く、誰からの声も聞こえないが、それでも必死な呼び声が発せられている、という感覚はある。
ただ必死に呼び止め、この場に縫い止めようとしている声が、音ではなく感覚として伝わって来るのだ。
後ろを振り返っても、やはり何者の姿もない。
正面と同じ白い空間が、ただ広がるばかりだ。
それでも足の歩みは止まらず、引っ張られるようにして、強制的に正面を向かされる。
更に一歩進めば、今度は直接身体を萎縮させてしまう様な、強い咎めを感じた。
大喝を受けたような強い衝撃で、ミレイユは前に進むのが恐ろしくて堪らなくなる。
行きたくない、
その気持ちは強まるばかりなのに、この身体は、歩みを止める事だけは決してしなかった。
既にミレイユは、涙を流したく思えるほど恐怖を感じ、とにかく心が落ち着かなくて顔を左右に向ける。
何もない、白い部屋の中では縋るものも、何かに掴まる事も出来なくて、恐ろしい気持ちが募っていくまま進むしかなかった。
そうして、歩き続ける事しばし、視線の先に何かがあると気付いた。
白い空間に、白く発色する巨大な光球。
それが遠くにある。遠近感が掴めないので、それが本当に遥か遠くなのか、それとも案外近いのか、それも判然としない。
だが、ミレイユが思う恐れ、そして近付く事を恐れるモノの正体が、
――あれは良くないものだ。あれこそが、良くないものだ。
その確信だけはある。
あれに近づけば、あるいは触れるような事があれば、己の死を確約する事になる。
それは単なる予感に過ぎなかったが、確信にも似た思いを抱いていた。
後ろから聞こえていた、咎める様な思い。
大喝されるような引き止め、それはこれに近付けさせたくないからだと、改めて気付いた。
ミレイユもまた、身が竦み、近付く事に恐怖を覚えている。
もう嫌だ、帰りたい、その気持ちが胸を占めた。
――その時だった。
白い空間の中にあって、色とりどりの光が後方からやって来ては、ミレイユの身体を包むかのように囲む。
ミレイユの周囲を旋回する光の大きさは様々で、また形までが違う。
だが、それら一つ一つが、ミレイユを慕う気持ちである事は理解できた。
あるいは、それを信奉と呼ぶのかもしれないが、詳しい事は分からない。
ただ、それまで怯えていた気持ちは鳴りを潜め、薄まったその分だけ温かな気持ちが溢れて来る。
色とりどりの光はミレイユを押し留める様に動いていたが、足の動きが鈍るだけで、足の動きそのものは止まらない。
そうして気づけば、ミレイユは白い光の前に立っていた。
光の球は巨大で見上げる程もある。それが一メートル程、地面から距離を離して浮いており、そしてこれが球ではなく孔だと分かった。
――これは岐路だ。
その岐路に立つ事で、ミレイユはようやく足が止まった。
そうして思う。
もしも三途の川というものがあるとしたら、これがそうなのだという気がした。
潜れば死ぬ、あるいは触れれば死ぬ。そういう類いのモノなのだと、直感で理解する。
その孔の前にあって、ミレイユは一人の女性の声を聞く。
それは泣き声だった。嗚咽に塗れた、ミレイユを呼ぶ声だ。
――帰りたい。あの声の元へ。
そう思った時、ミレイユの許へ先程とは比べ物にならない光が殺到した。
先程の光よりも小粒に思える。しかし、その数が尋常ではない。
あっという間にミレイユの視界は、色とりどりの光で埋まってしまった。
到底、目を開けていられず、目元に手を翳して庇う。
その瞬間、不思議な浮遊感が身を包み、身体を宙へと引っ張り上げる。
そうすると、今度は来た道をそのまま逆行し始め、光の孔はみるみる内に小さくなった。
安堵感が胸の内を支配し、遠退く光の孔を、色とりどりの隙間から見つめる。
そうすると、光の孔が急激に小さくなった。
ミレイユが離れているからと思っていたが、もしかすると、孔の方から遠ざかったからなのかもしれない。
◇◆◇◆◇◆
ミレイユの意識が暗闇から薄っすらと戻った時、聞こえてきたのはフラットロの悲痛な叫び声と、女性のすすり泣く声だった。
「あぁ、いやだ、消える! どんどん……、ミレイユ! いやだぁぁぁ!」
「うっうっう……っ!」
胸の奥から抉るような激痛、それが鎮まっている間でも、常に付き纏っていた鈍痛……。
それらが治まっている間であろうと、頭痛か胃痛が警笛の様に蝕んでいた筈なのに、今ではすっかり綺麗に消えていた。
健康な身体とは、これ程までに快適なものだったか。
一切に枷なく動かせる身体とは、どれほど偉大なものなのか、改めて実感した。これが俗に言う、失ってから気付く大切さ、というものなのかもしれない。
「消える……っ、体が……体が……? 消えない? ――戻ってる! ミレイユ!」
「うっう……、ミレイユ……っ?」
「……聞こえてる。そうか……。あの泣き声は、お前だったか……」
うっそりと目を開き、顔を見ようとしたのだが、抱き込むような格好をしていた所為で、ユミルの顔が良く見えない。
顔を上げようとして、額にユミルの顔が乗っている事に気付いた。
ユミルが涙声に怒声を含ませて、肩を殴りながら言って来る。
「起きてるんなら、早く目ぇ開けなさいよ! 何度呼んだと思ってるの!!」
「すまなかったが……。多分、一度死んでいた」
「馬鹿よ! 何でそんな無茶するの! 大神の鼻を明かすより、殴り付けてやるより、もっと自分を大事にしなさいよ!」
「あぁ、これからは精々、大事にするさ……」
結構な力で何度も肩を殴られるが、痛みは全く感じなかった。
揺すられている感触自体はあるので、無痛症になった訳ではないらしい。
そこでフラットロが、そわそわと目の前を右往左往している光景が目に入った。
ミレイユはある種の確信を持って、フラットロを手招きしてから腕を拡げた。
「……ほら、来い」
「――ミレイユ!」
それこそ犬と変わらぬ仕草で腕の中に飛び込んで来て、鼻面をぐりぐりと胸や首筋に押し当てる。
高熱である筈のフラットロを腕に抱いているというのに、魔術の防護も無くして難なく受け止める事が出来ていた。
神の肉体とは、相当に頑丈であるか、あるいは鈍いものらしい。
ミレイユはその背を優しく撫でてやりながら、気遣わしげに声を掛ける。
「心配かけたな」
「そんなのしてない! ただ、嫌だっただけだ! すごくすごく嫌だっただけだ!」
「……あぁ、ありがとう」
更に優しく撫でてると、頭上から憮然とした溜め息と雰囲気が伝わって来た。
「何よ、アタシにも何かもっとあるんじゃないの!? ズル……まぁ、いいわ。今はね! それで、身体の方は大丈夫なの?」
「……うん、昇神しても分かり易い変化がない、と言っていたオミカゲは正しかったな……」
その一言でユミルはハッと息を呑み、探るような目を向けて来る。
その目を見返しながら、ミレイユは優しく問うた。
「……お前から見て、どうだった?」
「確かに……分かり易く光ったりとか、そういうのは無かったわね……」
「素体の時でも十分、痛みに強い身体と思ったものだが、神の身体はまた違うな。根本的に何もかもが違う。鈍感になり過ぎて、痛みを忘れないようにしないと……」
「大丈夫でしょ、アンタなら。忘れそうになっても、アタシが傍で殴ってやるしね」
「そうか。それなら……、安心だな」
それはきっとミレイユの身体には痛みを与えないだろうが、何より心に響く痛みだろう。
その痛みを、すぐ傍で見守るユミルが伝えようとしてくれるなら、きっとミレイユは傲慢にはならない。
ミレイユはそう自分で納得して、次いで悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ところで、もう名前で呼ぶのは止めにしたのか?」
「――うるさいっ!」
ユミルは抱き留めていた身体を乱暴に離し、土を払って立ち上がる。
「寝てる場合じゃないわよ! 大神を本当に弑したかどうか、確認しないと!」
「……そうだな。手応えを確認する前に意識を失ったから……、待て。オミカゲはどうなった?」
「見てないけど、頑丈らしいというなら、大丈夫……とも言えないわよね。あの爆発規模は、神であろうと心配になるし」
フラットロを抱いたまま、ミレイユは軽い調子で立ち上がる。
寸前まであった不調など全く感じず、それどころか全盛の時より尚、身体が軽い。
魔力については使い切ってしまったので、その部分は変わらない。
初級魔術さえも今は扱えないかもしれないが、自らが生成するマナで魔力の回復が行われている。
即座には無理でも、時間さえ置けば、再度の使用に問題はなさそうだった。
自らの身体を確認している間に、ふと違和感を覚えて、頭上へ視線を向ける。
そうすると、既に結界が張り直された後なのだと分かった。
しかし結界術士とて、箱詰め理力で回復したものは多くないだろう。乏しい理力では、この展開も長くは保持できまい。
『地均し』の身体や魔物の死骸も含め、これらは現世の中で残しておきたくないものだ。
結界が時間切れと共に解除される前に、いつものように結界封印と共に消滅させる事が最も望ましい。
無いとは思うが、それらを研究用などと持ち帰る者がいては、いらぬ争いの種になる。
ミレイユの見立てでは、結界は五分と保たない。
それまでに、全ての決着を付けてしまうのが最善だった。
その為には、オミカゲ様の手助けは必ずいる。
『禁忌の太陽』の爆発規模は想像を絶する。それは原爆にも匹敵する、凄まじいものだ。
それを権能も用いて防ぐつもりだったのだろうが、一点に集中すればともかく、余計な護りに多くを割いたままだった。
オミカゲ様は非情になり切れず、足りない分は、自らの防膜で補うつもりだった。
実際の結果を見る前に気絶したから、どうなったのか分からないが……到底、無事で済んでいるとは思えなかった。
ミレイユはその手からフラットロを離し、歩き出そうとして空気を踏む。
そのつもりはなかったのだが、自然と宙へ留まる形になってしまった。
更に一歩踏み出すつもりで動かせば、滑るように浮かび上がる。
フラットロをが嬉しそうに駆け回り、ミレイユの周りを飛ぶ姿は、まるで犬の習性そのものだ。
ミレイユが困ったように笑っていると、足元からユミルが皮肉げな笑みを向けて来た。
「それじゃ、行きましょうか。ミレイユ……神?」
「やめろ、馬鹿」
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