待望 その1
結局、その日一日で長蛇の列を捌き切れなかった。
座っているだけでも疲れるものだし、途中で食事など休憩も取らねばならない。話し掛けられれば、つい反応して幾らか言葉を交わすこともあり、順調に消化とはいかなかったのだ。
ミレイユとしては、最低でも戦士は全員強化対象と見ていたし、それは誰もが望むところだった。だから、そういう者から優先して調整したいと思っていたのだが、同時にミレイユと対面したい者も多い。
感謝を一言申し上げたい、という者は存外多く、ただ手を握られるチャンスだと、それを目当てに来る者もいた。老若男女問わず、そういう動機で来る者は多かった。
信奉を歪めた結果なのかは分からないが、それでガス抜きの様な作用が見込めるなら、ミレイユとしても応じない訳にはいかない。
結局、テオの洗脳一つで任せるより有効な手段なので、少しでも危機回避するつもりがあるのなら、彼らにも応じなければならなかった。
何しろ、こちらは待つ事しか出来ない身だ。時間ならば、たっぷりとあった。
だから三日も掛けて終わらせたのだが、その間にも全く動きは無い。デルン王国は元より神々の動きまで、見えるもの、感じられるもの、何一つ無かった。
何かしたいと思っても、ルヴァイルが好機と思わない限り、こちらからも動き出せない。
時折、連絡要員としてやって来るナトリアに催促したところで、返答はいつも変わらなかった。
出会う前から信用を失墜したくないルヴァイルとしても、単に返答を濁すだけでは逆効果だと理解している筈だ。
それでも同じ返答を繰り返すといるのだから、そうせざるを得ない、という事なのだろう。
だが、神々の動向など分からないミレイユからすると、単に焦らしている様にも感じられてしまう。待たされれば、それだけ神々の罠が完成を見る事にもなる。
それを考えるだけでも、焦燥が胸を締め付ける様な気がした。
ただ待つ事だけ、というのは辛い。忍耐と言っても、限度というものがある。
二ヶ月程経って尚、何の変化もないまま時間が過ぎた。時折ユミルが勝手に森を抜けだす様な事はあるが、都市の様子を伝えてきたり錬金素材を購入して来たりするので、頭ごなしに叱るのも難しい。
森の中でも素材を育成していたりするのだが、植生の問題で手に入らない物も多い。
そうした不足を補う役割もあるし、効果の高い水薬を作る手助けにもなる。これからの事を考えると、水薬は幾つあっても足りないだろうから、むしろ有難い事だった。
そして今、ミレイユは定例報告となっていたナトリアの到着を、邸宅の談話室で待っていた。
邸宅では常に結界を張っているが、これは実際的な意味合いの他に、外から誰も来ていない、という証拠になると期待してのものだ。だが、果たして転移陣という抜け穴が、神々にも盲点たり得るものだろうか。
当初は名案に思えたが、考える時間が多くなる度、月日が重なる度、ただ不安ばかりが増していった。
何が正しいか、何が狙いで足元を掬われるのか、それが分からないから不安ばかりが募る。
邸宅の地下から僅かな揺れを感じて、ミレイユはいつもの様にナトリアがやって来たのだと自室で知った。彼女が味方であるという認識は無いので、そうとなれば常に緊張した空気が流れる。
ナトリアの到着と同時にアヴェリンとユミルが地下へと赴き、そして二人に前後を挟まれて食卓のあるダイニングへ通されるのが、いつもの流れだった。
ここで何を聞いても梨の礫で、今しばらく待つよう申告されて終わりなのだが、今日の所は勝手が違った。
「ルヴァイル様のご用意が整いましたので、お知らせ致します。明日、そちらのご都合が宜しければ、日暮れより前に供を連れて
「無論、構わない。随分待たせてくれたんだ、都合なんてとっくに付いてる」
「畏まりました。では、返答はその様に」
ナトリアが立ち上がって一礼する。
茶の一杯も出さず、そして義務的やり取りで全てが終わる。ナトリアが来た時同様、二人に挟まれて立ち去って行くのを、ミレイユは無言で見送った。
アヴェリンとユミルが、連れ立って地下まで送っていくのには理由がある。目を離した隙に罠を仕掛けられても困るからだが、それ以前に、何をするか分からないのが神というもの、という理由があった。
その意図も含めて、分からないこと、読み切れないことが多い。
特にミレイユの昇神が目的だと、そう思わされていた事が問題で、想定と大きく異なる事も多い。
事前にオミカゲ様から教えられていた情報は、ミレイユへ伝わる事を前提に欺瞞情報を握らされていたと考えるべきだった。
今となっては、聞いていた情報のどこからどこまで信じて良いのか、それすら確信が持てない。
事前にそれだけの手を打っておく者が相手となれば、警戒しておいて、し過ぎるという事もないだろう。
――何を信じるか、それは自分で決めるしか無いにしろ……。
地下室の方向を睨む様にして見つめていたところで、傍で待機していたルチアが声を掛けて来た。
「それで、どうします? 予め、こちらから罠を仕掛けておく、って事で良いんですよね?」
「初手から裏切りは無い、と考えているが、備えておく事は必要だしな。ルヴァイルからしても、この密談は誰に知られてもならないだろうし、だからこそ、その調整に多大な時間を掛けていた」
「ルヴァイルにそのつもりでなくとも、嗅ぎ付けた何者かが転移陣を利用するかもしれませんね?」
「その可能性を、排除できないからこその備えだ。いざとなれば、邸宅ごと爆破し生き埋めに出来る規模の罠は、張っておきたい」
ミレイユが試すような視線をルチアに送ると、得心した様な頷きが返って来る。
「その為の準備なら、既に完了しています。あとは、ミレイさんにも手伝って貰えれば万全ですね。ただ、神すら滅する攻撃は不可能ですし、最大限の威力を引き出そうものなら、里ごと吹き飛びかねませんから……。その辺りは、上手く工夫する必要がありそうです」
「地下深くへ突き進む形か、あるいは空に威力を逃すか……。まぁ、その辺りが妥当だろう。使われない事を祈るばかりだが……」
「そうでね……。それもまた、相手次第ですが」
頭の痛い事だ、と互いに苦笑して席を立つ。
地下から軽い振動が伝わり、ナトリアが出て行った事を察すると、早速罠の準備に取り掛かった。
明日の夕刻まで十分な時間があるし、それまでに完成させれば良いものなので、作業自体は気楽なものだ。
罠の準備やその威力の調整は、それなりに難事だろうが、これから対面する相手の事を思えば、それより面倒な事などないだろう。
胸中で一人悪態を吐きながらルチアを伴い地下へ赴き、壁にどういう陣を隠し刻むか相談を始めた。
――
翌日、ミレイユの邸宅は静かな緊張感に包まれていた。
今日ばかりは早めに仕事を切り上げ、ヴァレネオには誰にも近付けさせないよう良く含めてある。
これまでもミレイユの邸宅に近付こうと思う者は居なかったが、本日ばかりは強く警戒しておいて貰わねばならなかった。
そもそも、この邸宅は天然の要害があって近付くのも簡単ではないし、里長の屋敷を通らなければ訪ねる事もできない。
そのうえ屋敷にも用事なくして訪ねてはならない、という不文律が出来上がっているので、普段から寄り付く者は皆無だった。
それを知っていても尚、今日は厳戒態勢を努めて欲しい、とヴァレネオには伝えていた。
それも、外部からは普段と同じ様にしか見えない、という形でだ。難しい事をヴァレネオに頼んでしまったと思うが、普段から訪ねて来る者も少ない邸宅だから、何とかやってくれるだろう。
ミレイユは談話室で他の皆と寛ぎながら、窓の外を時折睨む。
陽は傾きつつあり、窓に差す光も橙色に変じて来ている。日が暮れるより前、という表現は曖昧だが、そろそろ来るという前提で準備を初めて良い頃合いだった。
形の上では客人という事になるのだろうから、せめて茶の用意くらいはしておかねばならないだろう。腹の底に何を隠していようと、同盟関係を築きたいと申し出て来た相手には、相応の歓迎が必要になる。
そうでなくとも、相手は神だ。
神を迎え入れる作法も、適した饗しなども知らないが、ユミルに聞いた限りでは必要ない、との事だった。彼女の事を思えば、例え正しい作法があろうとも教えてくれないと思うので、それならそれで来賓ぐらいの扱いであれば良い。
ルチアに茶の準備をして貰おうと思ったところで、地下から振動が伝わって来た。
互いに目配せして、クッションに埋めていた身体を持ち上げる。ユミルもまた同様に、大義そうに首を巡らせて立ち上がった。
「とうとう来たって感じよね」
「……あぁ、待ち詫びたよ。これで取り返しが付かないような事態になったら、容赦しないなんて言葉が生易しく思える攻撃をくれてやる」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、アヴェリンとユミルを地下へ行くよう指示した。
「アタシも色々想定してみたものだけど、どうすれば良いかなんて、今更考えても仕方ないしね。順番は先にアタシを譲りなさいよ。アンタの後じゃ、やるコト無くなりそうだから」
「いいから行くぞ。曲りなりにも、神を迎え入れようというのだ。ここで揉める様な馬鹿な真似をしたくない」
アヴェリンがせっつくように、ユミルの肩を押した。
誰にも同じ事が言えるものの、やはり彼女にも緊張の度合いが色濃く表れている。この先、正念場など幾つでもあるだろうが、その最初がここ、というのは全員一致の見解だ。
だからユミルもここで茶化す様な真似はせず、素直に従って地下へ降りて行く。
ルチアには予定通り茶の用意をして貰って、ミレイユはいつもの食卓で、いつもの席に座って待つ。今回ばかりはある程度気を配って、作られたばかりの白いクロスを掛けてあるし、中央には花も生けてある。
椅子にしても上座の対面となる場所に、ミレイユと同等に豪華な椅子を用意した。
本来なら明らかに格上の相手に対し、その饗しにも相応の格を用意すべきなのだろうが、対等の立場で接する、と見せる必要もある。
ミレイユの事を、駒の一つとして動かそうと思っていないのは、こうして自ら敵地へ足を運ぶ事からも察せられる。だが、それでこちらが譲ったと思われても困るのだ。
これはあくまで対等な関係の、互いに利をもたらす同盟だと、印象付けなければならない。
最初から
改めて決意を胸に秘めていると、アヴェリン達が食堂にやって来た。流石に座ったままでいる訳にはいかず、ミレイユも立ち上がって迎え入れる。
いつもの様にユミルとの間に挟まれやって来て、ルヴァイルらしき者のみならず、見知らぬ誰かも随伴員として付いて来ている。予め、来訪時に共を連れて来る、と知らされていたので、それは構わない。
だが、てっきり神使であるナトリアが、その随伴員だと思っていたので面食らってしまった。彼女より有能な、あるいはより戦闘に長けている神使が、いま共に来た随伴員なのかもしれない。
アヴェリンのすぐ後ろを歩いているのがルヴァイルだろう。以前、ユミルから聞いた特徴と一致している。
銀の髪は背中に届くほど長く、頭に被った宝冠は両端に角があり、それが上向きにそそり立っていた。
白いヴェールを重ねたような服装に華美さは無いが、代わりに首飾りや腕輪、足輪など、至るところに装飾品が輝いている。
神として相応しい格好なのかミレイユには分からないが、これが気高い姿形なのだと言われると、納得してしまいそうな迫力があった。
だがそうすると、後ろについて来ている女性の格好もまた、ルヴァイルに負けず劣らず見事なものに見える。薄い青のヴェールを重ね、宝冠ほど華美ではないが、気品のあるサークレットを身に着け、そして両腕に装飾品がある。
ルヴァイルがヴェールを上から垂れ流しているだけに対して、こちらの女性は腰元で宝石を連ねたベルトを締めていた。そのせいで身体のラインが強調して見えてしまっている。
随伴員にも正装をさせて来た、と言われれば納得してしまいそうになるが、互いに着ている物のが似すぎているだけでなく、格調も同じに見えた。
まるで同格と言わんばかりの格好で、それだけ、この随伴員を高く買っている、という表れなのかもしれない。
ルヴァイルと対象的に、金の髪で短髪。そして、健康的に焼けた小麦色の肌と、とこまでも対称的だった。
ルヴァイルがおっとりとしてそうな外見に対して、勝ち気そうな目をして、挑むような雰囲気を発していた。この状況を楽しんでいそうですらあり、緊張感とは無縁だった。
ミレイユ達が緊張感を持って迎え入れた事が、まるで馬鹿に見えるかのような気楽さだ。
興味深そうにミレイユとその周辺、調度品などに目をやり、次に自分が座る位置に対して、疑問を感じるように首を捻る。
案内は済んだ、とアヴェリンがさっとミレイユの傍に立ち、そしてユミルも逆側となる場所に立った。ルヴァイル達とは互いに机を挟んで立つ格好になって、そこへルチアが帰って来る。
テーブルの上にカップが置かれ、それぞれの席の前に並べられていく。給仕も済むと、ルチアもミレイユの傍に立つ。
互いに無言なまま視線を交わされ、元より高かった緊張感が、更に圧力を増して場に満ちた。
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