第十章
森の中で その1
ナトリアから再びの接触が来ないまま、既に一ヶ月が経過した。
その間、ミレイユといえば無為な時間を過ごしている。
――いや、決して無為とばかりも言えない。
ヴァレネオからエルフを預かる、と啖呵を切った手前、その救済に動くのは当然の事だった。
その為には、森に住む人種とその幅、また総数を把握する必要があり、そして知る毎に懸念が的中して頭を抱える破目になった。
予想よりは随分多かったが、エルフの数は千に満たないもので、そして森に住む多くの者達は獣人の方が多かった。これは種族的な生殖問題にも関わる事で、毎年のように赤子を産める獣人と、十年は間を取らなければ埋めないエルフという差があった。
そういう理由があるから、人口差が拡がるのは必然と言える。
エルフの総数が千にすら届かないなら、やはり最初からミレイユに信仰を向けさせる意図など、神々には無かったのだと証明されたようなものだった。
無論、一つの懸念として、エルフが崇拝を向ける事で、それに教化される獣人、という構図は有り得る。だから、テオによる洗脳も無意味ではない。
だが、ミレイユを昇神させる事を目的としていない、と言っていたカリューシーの発言に、信憑性が増したのは間違いなかった。
とはいえ、その目的は何なのか、となると全く読めなくなって来る。
――そもそも、ボタンの掛け間違い。
それこそが、目的を読みきれない理由、という気がした。
思考の材料、判断の材料が足りない現状、幾ら考えても仕方ない事ではある。しかし、考えを放棄するのは悪手だ。多角的に物事を見直す事で、見えて来るものもあるだろう。
それがいずれ対面の叶うルヴァイルから話を聞く時、自らの考えを補強する材料ともなる筈だ。
しかし、一向にルヴァイルとの対面が叶う気配がない。
ナトリアは幾度か転移陣から姿を見せたし、その度に催促もしているが……現状、未だ対面をすべき時機ではない、という言い分が返って来るだけだった。
神々がミレイユの動向を注意深く見つめている、という理由を教えられてはいる。迂闊な接触は、ルヴァイルとしても出来ない事だろう。
それは分かるから待ってやりたいが、待たすというには、少々長くなり過ぎている。
既に邸宅は結界で囲ってあるし、神の眼からの捕捉からの逃れられている筈だ。
結界がなくとも屋内まで見通す事が出来るものでもない、というのはユミルの談だが、念の為を考えての事だった。
これは見た目通り、神々を警戒している事をアピールするものでもあるし、常在化させる事でいざルヴァイルが来た時、欺瞞工作として機能する事を期待してやっている。
その日にだけ、わざわざ結界を張っていたら、注目してくれと言っているようなものだからだ。
ルヴァイルから色好い返事が返って来ないのは、単にミレイユを監視している事が理由ではなく、神々の方にも動きがある所為だろう。一応は、あちらの計画通りに策は成っている訳で、詰みの段階まで進んでいるという話だった。
神々が今もルヴァイルの裏切りを警戒しているかどうか、そしてミレイユ同様に監視の目が付いているかどうか、それ次第では、確かに今は動きようがないだろう。
いざという時、失敗出来ないと考えているのは、ルヴァイルも同様だ。
だから接触時機についても、慎重にならざるを得ない、という考えには理解できた。ならば来臨し易いよう、陽動の一つでも手を打ってやるべきか、と考えているのだが――。
目の前の状況が、それを許してくれなかった。
ミレイユは草で作られた紙を手繰り寄せ、羽根ペンとインクを近くに置き直して溜め息を吐いた。
現在は邸宅を離れ、里長の屋敷にやって来ていて、そこで里全体の問題と解決を図っている。
嘘を吐いたり、簡単に反故にするような真似を軽々しくしたくないが、ミレイユとしては最早投げたしたいと思うほど、現状を悔いている。
問題は多岐に渡り、そして一つ一つの数も多い。
到底一人で捌けるものでもないから、元より業務をこなしていたヴァレネオが手伝ってくれているものの、ストレスは苛立ちを生む。
紙の繊維は荒く、それも手伝って羽根ペンは良く引っ掛かるし、書き方に注意しなければすぐ滲んで読めなくなる。インクの色が青しか無いの文化の違いと受け入れるとして、乾きが遅すぎるのもストレスだった。
書いた書類の上に別の書類を重ねる、などというのは、ミレイユにとって常識の様なものだったが、ここで同じ事をすれば文字が潰れて読めなくなる。
その所為でひたすら場所を食うし、だから片付けるべき量が全く減らない。
悪夢のような状況だった。
風で仰ごうとも全く凝固せず、それどころか仰ぐ内に文字が変わってしまう危険もあるので、やろうとするだけ無駄だった。
火を使えば早く乾くという発見をしたが、代わりに変色が起きてしまう。それを嫌がって止めるよう懇願したヴァレネオだったが、これには里長権限で黙らせた。
一つの書類が乾かなければ、終わりと判断する事は出来ない。
サインするだけで終わる様な物でも、即座に仕舞う事が出来ないので、その迅速さは山と埋もれた書類から解放されるのに必須だった。
今ではフラットロが表に出て来るのも必須になり、彼はご機嫌であるものの、代わりにボヤ騒ぎが絶えなくなった。
これは果たして楽になっているのか、書類が早く片付けられる代わりに、別の問題を増やしていないか、と頭を悩ますものの、フラットロは鍛冶仕事だって覚えられたのだ。
今を耐え忍べば、いずれ頼りになる相棒となってくれるに違いない。
そのフラットロは既に渡した書類を乾かし終わって、屋敷の外で空中の自由遊泳を楽しんでいる。時折、子供が構って欲しくてじゃれかかろうとしているが、それを大人に止められていた。
その様子を窓から見つめていると、叱責とは違う、しかし明らかに注意を促す声を掛けられる。
「……ミレイユ様、手が止まっております」
「分かっている……。分かっているが、こんなに激務なのか、里長とは……!」
「は、いえ……。まぁ、そうですな……」
ヴァレネオが自分の分の書類を捌きながら、言葉を濁しながら答えた。
「やはりまぁ、問題はそれなりに……。現状、戦時中でもある事ですし」
「だったとして、小さな田舎村程度の規模で、どうしてこうも問題が頻発するんだ!? それも一つ一つは結構下らないし!」
戦時中となれば、確かに普段の生活とは違う問題は起こる。
怪我人の治療、武器の生産、糧秣の確保など、普段は表に出ないか、影に追いやられている問題が目を出すものだ。それについて、ミレイユは文句を言いたい訳ではない。
問題はむしろ、そことは違う、平時であれば起こるような、平和な諸問題こそにあった。
ヴァレネオは言葉だけでなく仕事の手も止め、諦観に似た表情で顔を逸した。
「あぁ、それは……。恐らく、誰も彼もがミレイユ様に構って欲しいからでしょうな」
「構って!? 馬鹿な問題を持ち出す事で、私が喜ぶと思っているなら大間違いだぞ! むしろそんなの、利敵行為だろうが!」
「あらあら、いつになく余裕のない表情で……。ここまでアンタを追い詰めたのって、いつ以来? 案外これって快挙なんじゃないの?」
仕事には一切関与しないが、自分の居場所だけはしっかり確保しているユミルが笑う。
かつて執務室にはヴァレネオ一人の机しかなかった。だがミレイユが使う事、そしてヴァレネオが補佐として入る事で、机が全く足りない事に気が付いた。
それで机を増やす事になったのだが、ついでだからと、ユミルも自分の机を欲しがり、しかし仕事は増える一方なので、更に机を増やして更に補佐官も増やしている。
そこへルチアやアヴェリンが、ミレイユ専属補佐として仕事を受け持つ事になったので、やはり小さいながらも机を用意する事になり、部屋の中が一気に手狭となった。
根本的に書類仕事に向いていないアヴェリンは、色々と里の中を動いてもらう便利遣いとして役に立って貰っているが、ユミルはやはりというか気紛れ程度にしか仕事をしない。
同じく大人しく書類仕事が出来ないタイプではあるが、ユミルはむしろ気分屋の側面が強すぎて、ろくに仕事をしてくれない事に理由があった。
興味のない仕事には、全くこれっぽっちも手を動かさないのだ。
今となってはユミルに仕事を回す時間すら惜しく、だから彼女の仕事は、ミレイユが苦慮する姿を楽しむだけになっている。
ミレイユはそちらへ恨みがましい目を向けながら、書類の一つを手に取った。
「そう思うなら、少しは手伝おうという気持ちにならないのか。こちらはいつでも手を欲しているぞ」
「気の向く仕事があるなら、考えてあげてもいいけどねぇ……」
「随分勝手を言うな、お前は」
不遜とも取れる台詞を過敏に拾ったアヴェリンが、鋭く睨み付け物申した。
「協力できる事なら進んでやらんか。ご不憫でならんと思わんのか」
「思うわよ。だから楽して苦労なく、楽しそうでアタシ向きなら手伝うって言ってるんじゃないのよ」
あまりにふざけた物言いに、ミレイユも黙っていられなくなって、視線を書類に向けたまま口を挟む。
「あるか、そんなもの……! 仕事なんて、どれもこれもやりがいを搾取してやらされるものだ」
「不思議と含蓄を感じられる台詞だコト……」
うるさい、と吐き捨てて、ミレイユは手に取った書類を一読する。
異世界へやって来て、やる仕事がデスクワークというのが、大いなる理不尽を感じずにはいられなかった。心躍る冒険をしたいなど、今更口にするつもりもないが、しかしこれだけは違うと断言できる。
剣を握り、魔術を使った戦いをしたい訳じゃないと口にした事もあった。だからといって、書類仕事を任されるのは、それもまた違うだろう、と声を大にして叫びたかった。
「大体何だ、構って欲しいというのは! 私への思考誘導、テオはしっかりやってるんだろうな!? 信仰を向けたりしないよう、私が起こした功績その他はテオのものにするよう、言った筈だろう!」
「軍隊の襲撃から救ったり、先の邸宅で起きた爆発を伴う事件など、その首謀者を叩き返したのは、テオという事になっておりますな。彼の人気ぶりも、まぁ、やはりそれなりに高いものです」
ヴァレネオが実情を補足して伝えて来て、それでテオは問題なく仕事していると分かったが、それならば何故、と思わずにいられない。
彼に功績が移ったなら、やった事が事だけに、もっと目移りするものではないか。
英雄の誕生だと、注意が逸れても良い筈だ。里中の者が信じるなら、実際そうなっている筈なのだ。
ミレイユなど完全に日陰者で、現在はそのテオを補佐する様に見えていなくては可笑しい。
彼の仕事がやり易い様に、彼が思う存分力を振るえる様に、と雑事を片付けている様に見えているだろう。その様に感じる思考誘導を、実際テオにやらせている。
それは間違いない筈なのに、と臍を噛む思いをしていると、ヴァレネオは首を左右へゆっくりと振った。
「ミレイユ様は思い違いをしてなさる。テオが何を成したか、それは確かに大事な事です。里の一大事には違いなく、その危機を救い、そして里の背後――村の最奥から襲い掛かって来た者すら撃退した。森が焼け落ちるかどうかの瀬戸際だったのです。私からも、その様に説明いたしました。――しかし!」
ヴァレネオは一度強く言葉を切って、ミレイユへと視線を合わせる。
「しかし、貴女様がここにいる。何も成さず、ただ森の奥に居ただけだったとしても、我らの前に姿を見せ、そして里を救おうという姿勢を見せている。それが何より嬉しいのです。それに感謝しておるのでございます」
「その結果が……、私の仕事を増やす事なのか? 二百年姿を見せなかった事を、実は相当恨んでいるとか、これはそういう話か?」
「滅相もない。ただ、関わりを欲しているのです。何か小さな事であれ、自分の問題を解決して頂きたいと思っているのでしょう。他の誰かの問題を解決され、その者が自慢気に語ったのではないかと推測いたします。それで羨ましくなった他の者も、ならば自分も、と
「それはやはり、嫌がらせではないのか!?」
「……滅相もない」
ヴァレネオはにこやかに笑って返答したが、その一瞬の間をミレイユは聞き捨てなかった。
本意ではないにしろ、ミレイユに迷惑が掛かると知っても、要求を止められなかった……そういう事だとしても――ヴァレネオは、敢えてこれを止めなかった。
熱が収まるまで、その僅かな時間だけは許してやろう、と民に優しさを見せた格好なのかもしれない。
明らかに有難迷惑だが、ミレイユはこれを強く非難できなかった。
彼らが受けた二百年の迫害という時間は、決して軽いものではないのだ。
ミレイユにその責があるとは誰も言わないし、思いもしないが、姿を見せた現在、物言わぬ抗議をしたい気持ちはあるだろう。
そしてミレイユには、その気持ちを受け止めてやる義務がある。
諦めの境地で息を吐いていると、その気持ちを知ってか、ユミルが顔を向けてチラリと笑った。
それを見て、また新たに息を吐く。
今は何より、その笑顔が憎らしかった。
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