新たな騒動 その1

 フロアに降り立って感じたのは、様々な調味料が合わさった不思議な香りだった。香辛料をふんだんに含んだ香ばしさの中に、油を大量に使った匂いが混じり、更にそこへ甘い香りも追加される。

 良い匂いと感じた瞬間、次々と違う香りが鼻孔を突き抜け、結果どういう反応をしていいか迷うという有様だった。


 エスカレーターの降り口からすぐ目につく場所には、お洒落な喫茶店があった。清潔感の中にモダンを感じさせる外観で、外から伺う範囲では暗めの照明が居心地の良さを演出している。


 まず最初に目につく店舗だけあって、客の入りも良さそうだった。

 他に目を移して見ると、ファミレスらしき店の他に、ラーメン店や蕎麦屋、アイスクリームの専門店まである。統一感のない店舗がひしめき合う様は、ここがレストラン・フロアである事を如実に告げていた。


「色んな店があるのねぇ」

「うん、デパートのフロア一つ全てが食事処となると、このようになるのだろうな。……それに、なかなか盛況のようだ」


 休日の昼間、デパート内で買い物を済ませ、ここで食事も取ろうと考える客は多い。ミレイユ達もその一人なのだから、人混みの多さに文句は言えない。

 ルチアも周囲の店を興味深そうに見つめていて、アヴェリンは人混みの多さに警戒心を強めていた。ミレイユの傍にピタリと寄り添い、決して不用意に誰かを近付けさせまいと目を光らせている。


 その中で、ルチアが一際強く興味を示す物があった。

 店の入口横、ガラスで隔てられた棚の上に、様々な種類の料理が置かれている。出来上がったばかりの物をそのままに、時を固めて展示しているかに見えて、ルチアはそれに思案顔で近付いていく。


「何ですか、これ。一体どうなってるんでしょう? 美味しそうに見えるのが、逆に不気味です」

「ん? ああ……、食品ディスプレイか」


 ルチアが指さしているのは、食品ディスプレイの中でも特に目を引くスパゲティだった。他の商品は単純に皿の上に出来上がりが盛られているだけだが、スパゲティだけは少し違う。

 フォークに麺を絡めて持ち上げ、それを空中で固定している――しているように見える。またスパゲティのソースが絡まり、油分が麺の表面を覆っている様は、湯気が立っていないのが不思議に見える程だった。


「このガラスの向こうだけ、時が止まっているんですか? 無駄に凄い技術を持った術者がいるんですね」


 感心して唸るルチアに、ミレイユだけでなく周囲にいた客までも頬を緩めた。

 おそらく外国から来た若い観光客が、そのディプレイの出来栄えに素直に感心していると見えたのだろう。また、ルチアは実年齢と違い若く見える。それが拍車をかけていた。


 振り返って周囲から生暖かい視線を向けられていたルチアはたじろぎ、そそくそさとミレイユの元に帰ってくる。

 そこにミレイユがつい優しくなってしまう声音で、帽子のツバを下ろしながら尋ねた。


「じゃあ、今日はあそこで食事にしようか」

「いえ、別に。あれが気になったのは食べたいからではなく、純粋に疑問を解消するための観察なのであって、特別食欲に身を任せた行動という訳ではなくてですね――」

「分かってる。お前があれに興味を持ったのは、単にガラスの向こうの技術についてということは」

「悩んでいると決められないですし、ぱぱっと決めて入るのがいいですよ」


 唐突に饒舌に語り始めたルチアと、それを宥めようとするミレイユ。長引いてしまうと席が埋まって更に食事が遅くなる。

 だからアキラが割って入って指摘したのだが、ユミルもアヴェリンもそれには否定的だった。


「でも、他にも色々お店があるじゃない。次にいつ来れるか分からないんだから、一番興味のある物を食べたいわ」

「それは別にどうでもいいが、席があるかも問題だろう。この人数が座れる場所が確保できるか、ミレイ様の身を守るに適した場所であるか、そこを確認するまで決める訳にはいかない」


 アヴェリンの発言にユミルは呆れた視線を向けて、大仰に溜め息を吐いてみせた。

 対してアヴェリンも眉をぴくりと動かし、ユミルに身体を向けて睨み付ける。二人が向かい合って対峙する事になり、それをはじまりの合図と見て、ユミルは指を突きつけた。


「だから、それはいらないってば。ここで身の危険まで発展するような敵なんて出ないから」

「そうとは限らんと、先ほど証明されたばかりだろうが」

「へぇ、チンピラごときにどうにかされてしまう危険があるって?」

「馬鹿を言うな。あれでこちらをどうにか出来ると思う奴がいるなら、それは単なる馬鹿よりたちが悪い」

「ああ、そう、じゃあ問題ないわね」

「ない訳があるか。チンピラはどうでもいいが、監視されているというのは事実じゃないのか。それなのに隙をわざと見せてやる必要があるのか? 奴らは絶対に手を出して来ないか?」

「来ないでしょうよ。するつもりがあるなら、もうとっくにやってる」

「決めつけられるものか。増援を待っているだけかもしれん。急なことで数がいないから戦闘を見送っただけの可能性もある。油断は許されない」


 一理あると思ったのか、ユミルはほんの少し虚を突かれたような顔をした。


「そうだとしてもね、アンタのは過剰だって言ってるの。アンタ一人しかいない状況ならまだしも、アタシ達全員揃ってる状態なら、どんな問題にも対処できるでしょ」

「それが油断だと言うんだ。対処できるからと、楽に問題を起こさせる訳にはいかない。機会があると判断すれば、敵はそれに向けて作戦を立てるだろう」


 白熱してくる口論を前に、ルチアは大いに眉を顰めた。

 ミレイユも内心は同様で、同じ議論を戦わせるにしても時と場所を考えて欲しいというのが本音だった。その証拠に、道行く人が唐突に強い口調で言い合いを始めた美女二人に注目を向けている。

 ルチアは顰めた眉をそのままに、横に立っていたアキラへ呟くように言った。


「あれ早いところどうにかしないと、終わる頃には私、新しい趣味でも見つけてますよ」

「……そうなんですか?」

「皮肉に決まってるでしょう。あれを待ってたら、時間が幾らあっても足りないって言ってるんです」

「う、いや……まぁ、そうかもしれませんけど。僕にあそこ割って入れなんて言いませんよね?」

「言って欲しいんですか?」

「どうせ僕があの二人に割って入っても、転ばされて終わりですよ。そんな無駄をさせるなら、素直にミレイユ様に頼んで下さいよ」


 ルチアはその当人を見て肩を竦める。


「ミレイユさんは、二人のああいう言い合いを見てるの好きなんですよ。何が楽しいのか私には分かりませんけど、急用がある時以外、止める事はまずないです」

「昼食の席が埋まるっていうのは、十分急用な気がするんですけどね……」


 アキラに視線を向けられたところで、ミレイユは自ら動こうとはしない。それどころか、組んだ腕から指先だけ上げて、指示するように二人へ動かす。

 アキラは明らかに怯んだ様子で見つめると、渋々首を縦に振って二人に近づく。


 すみません、と声を掛けたところで、アキラは動きを止める。二人の視線や気配に恐怖したという訳でもない。何しろ二人はアキラなど眼中にはなく、未だに言い合いを続けている。

 では何かと思っていると、不安げに顔を左右に向けて辺りを見渡し始めた。ミレイユの帽子に目を留めて、次いでユミルへと振り返ってその帽子を奪った。


「だからアンタは難しく――は? あ、ちょっと何するのよ!」


 口論を続ける二人を止めるのは不可能と思ったのか、ユミルから帽子を取る事で注意を別に向けようという作戦なのかと思えば、アキラはおもむろに帽子を深く被り、顎を引いて顔を隠す。

 何をしたいのか見守っていると、奪われた物を取り返そうと、ユミルはアキラの頭を上から押さえつけた。


「いや、あ、ちょっと待って下さい。ちょっとだけでいいんで……!」


 アキラの弁明はあまりに必死で、それが悪戯ではないとすぐに分かる。顔を隠して俯き、肩を窄めてミレイユの元に帰って来たかと思うと、肩を押してレストラン方面へと追いやろうとする。


 敢えて抵抗せずされるがままにレストランへと踏み入り、続く者たちは大丈夫かと後ろを見れば、呆気に取られながらもしっかり着いて来ている。


 中に入っても順番待ちではなかったようで、すぐに席の方に案内された。入ったのが大きな席面積を持つ、ファミレスだったから良かったのかもしれない。これが洒落た喫茶店だったりすると、こうは行かなかっただろう。


 席に案内され、どこに座るかをアヴェリンが仕切り出したところで、ユミルが後ろからアキラを小突いて帽子を奪い返した。

 そのまま指先で帽子を一回転させてから被ると、アキラに顔を近づけ凄みを利かせる。


「アンタね、これが屋内だから許したけど、もし外だったら容赦しなかったわよ」

「すみません……っ! こちらも緊急事態だったもので!」

「何があったんだ。別に戦意を持つ者は、あの場に居なかったが」


 アヴェリンがミレイユを奥の席へと恭しく誘導しながら、アキラに視線だけ向けて聞いた。


「それとも見られたらまずい相手でも居たのか」

「ええ、まぁ、はい……。そのとおりで」


 ルチアがミレイユの対面になる奥側に座り、行儀よく手を膝の上に乗せて周囲を見回すのを見ながら、アキラが続ける声を待つ。


「知り合いがいたようで……、いえ、確実ではなくて、似たのがいたというだけの話なのかもしれませんが、とにかく見られたくなかったので……」

「なんでよ?」


 ユミルがわざとらしく首を傾げながら、ルチアの横にアキラを座らせる。席位置に恣意的なものを感じつつ、結局力に押し負けるような形で従った。

 アヴェリンはそれについて本気で理解が及ばないらしく、不思議に思いながらミレイユの隣に一人分のスペースを開けて座り込む。

 その対面にユミルが座り、結果としてアキラを包囲するような形で席順が決まった。


「いや、もう、この状況で分かりませんか。こんなに華やかな女性たちに囲まれる自分の、身の置き場のなさと言いますか、知り合いに見られたら嫉妬で殺されると言いますか……」

「なんだ、それしきの事か……」


 アヴェリンは明らかに興味を失って、水を運んで来たウェイトレスに警戒を向けた。一つ一つ丁寧に水を置いていく、その一挙手一投足にすら注視している。


 誰しも興味を持たなかったアキラの言い分だったが、しかしミレイユにはアキラの言い分がよく理解できる。

 アキラもこの中に紛れていられるほど容姿に優れているという訳ではないが、可愛い見た目である事は変わりない。しかし男と知っている者からすれば、それを利用して近づいているようにも見えるだろう。


「そんな事で店を勝手に決めたというのか。最終的な決定権はミレイ様にあるのだぞ」

「でもまぁ、あそこで勝手に言い合いしてた貴女にも、そんなこと言って貰いたくないですけどね。食事処の前にいるのに、いつまでも場所を決めないって、ちょっとした悪夢ですよ」


 ルチアの言葉に窮したアヴェリンに、助け船を出すような形でミレイユが言う。


「だが結果として見れば、そう悪くない選択だろう。メニュー自体は豊富だから、何かしら好ましい物が見つかるだろう。……それに、甘味も用意されているしな」

「ほぅ……あ、いえ、勿論ミレイユに異存なければ、何の問題もないのですが」


 甘味と聞いて思わず声を出したアヴェリンが、慌てた調子で首肯する。それを横目で見つつ、口の端に笑みを浮かべながら端に設置してあったメニューを取った。

 合計で三つある大き目のメニューを、それぞれ広げて見せながら、自身もまたそれらを覗き込む。


「まぁ、とにかく今は、何を食べるか決めてしまおうじゃないか」

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