希求 その7

「いつまで寝てるつもりだ。早く帰るぞ」

「ちょ……、ちょっと待って下さいよ……。無理です、絶対無理……!」


 仰向けに転がり、息も絶え絶えに返事が返すのがやっとで、とても立ち上がる体力は残っていない。アキラは起き上がろうと努力したが、頭が持ち上がるばかりで、腹筋はとうに音を上げていた。


 あれから一時間、打っては打ち返され、躱せば追い詰められた。そして時に投げ飛ばされ、時に蹴り飛ばされる行為が繰り返し行われた。

 寝転がっていると容赦ない追撃が来るので、起き上がらなければ痛い思いをするだけだ。それが分かっているので、とりあえず痛みを抑え込んで立ち上がるだけはした。


 しかし、相手はまるで厚い壁か要塞を相手にしているかのようで、何をしても押し返される。防御と回避に専念しようとしても、相手の方が数段上手うわてで、どうやっても即座に突破されて転がされた。


「もう少し、手心を……っ! 加えてくれても、いいんじゃ……! ないですかっ!」


 息を整えつつ嘆願しても、返ってくるのは梨の礫のような返事だった。


「甘ったれるな。お前の弱さには、ほとほと呆れさせられる。お上品なお貴族道楽とは違うんだ、身体に叩き込まなくては覚えられん。泣き言の前に自分の弱さを嘆いていろ」


 吐き捨てるように言って、アヴェリンはアキラを抱え起こす。

 抱え起こすというよりは、腕を持ち上げて無様な姿で起こされた、という方が正解な気がする。とにもかくにも、立ち上がらされて何とか両足で大地を踏む。

 足は震えて酸欠で頭も痛いが、それでもこれから家に帰り、学校の準備をしなくてはならない。


「へぇ……、はひぃ……!」


 口から情けない声が漏れて、眉も情けなく垂れ下がった。

 これから朝食を食べる元気は取り戻せそうになく、ご飯抜きで登校する事になるだろう。そして、この疲労困憊の身体で放課後まで生き抜かなくてはならない。

 想像するだけで気が滅入る思いだった。


 しかし、そればかりではない。

 恐らく、この生活が長らく続くのだ。朝に足腰立たなくなるまで扱かれて、朝食を摂る元気のないまま登校するような生活が。

 アヴェリンの合格が貰えるまで。


 アキラは心の奥底から涙が漏れ出るような感じがした。

 しかし、これは自分が望んだ事なのだ。

 ――自分の守れる範囲で守れる人達を守りたい。

 それを可能とする手段を、いま与えられている。全く足りないという指摘は当然で、躊躇も遠慮もない暴力で襲ってくる相手に、アキラが十全に立ち向かえる筈もない。


 当初は楽観的に考えていた、最低限をこなせる実力が、今や遥か遠くに感じられる。しかし、やると決めたからにはやる。心が折れる音が聞こえようと、接着してでも続ける。それだけの気概はあった。


「ふぐ、ふぐぐぅ……!」


 しかし、気概だけで身体は動いてくれない。

 生まれたばかりの子鹿のように足を震わせ、支えがなければ崩れ落ちてしまいそうになる。

 その様子を見て、アヴェリンが呆れを存分に含んだ溜め息と共に問いかけてきた。


「ハァ……。それで、歩いて帰るか? それとも背負ってやろうか?」

「……歩きます。歩いて帰ります……!」


 アキラは抱えられていた腕を振りほどき、刀を袋に収めながら歩き始めた。

 しかし、その歩みは遅々として進まず、時折ふらついては震える足を叱咤して、それでも歩き続ける。それは老人の歩みと変わらない程に遅いものだ。


 しばらくはその歩みに付き合っていたアヴェリンだが、とうとう痺れを切らしてアキラを抱え上げる。米を肩に載せるかのようにして、刀袋も奪い取り、己の棒と一緒に一握りにして歩き始めた。


「ちょっ……! 大丈夫です、自分で歩きますから!」

「お前のヨチヨチ歩きを見守っていろとでも言うつもりか? 私が帰るのは何時になる? 置いて帰れとでも?」

「そうです、置いて帰って下さい」

「それでお前が倒れ、一日中日干しにされでもしたら、私がミレイ様にお叱りを受ける。いいから黙って運ばれろ」


 思わず身を捻ったアキラだったが、強引に掴まれ降りるに降りれず、結局は成すがままに背負われる事になった。

 アヴェリンの歩みは軽快で、男一人の重みを感じさせないほど安定したものだった。

 しばらくそうして運ばれていると、縦揺れも殆どしていない事に気が付いた。


 重心の位置からの体幹のブレが殆どないのだ。

 アキラも剣術をやっているから分かる。剣を持って摺り足で近づくのは、一撃を加える一瞬を重心の安定させた位置から行う為だ。上下左右、どちらに動きが傾いても、理想の一撃は放てない。


 だが普通に歩けば、その歩行の性質上、上下に動きが発生しやすい。

 それを補う歩法が摺り足なのに、アヴェリンはそんな事をせずとも重心の位置を固定し動く事が出来るのだ。

 恐らくは、走りながらこれだけ安定した重心を維持できるなら、動いていながらでもも同じ事ができるだろう。

 アヴェリンの強さをまた一つ垣間見た気がして、尊敬の意を強くする。


 しかし、とアキラは思う。

 思わずボヤいただけのつもりが、口に出ていた。


「田舎で良かったな……」

「なに? 何か言ったか」

「あ、いえ……。こんなところ、他人に見られたくないですから」

「ああ……。だが、これから住宅地に入るだろう。無駄な願望だったな」


 言われてアキラは、言葉に詰まる。

 そう、見られず済むのは今だけだろう。このペースだと、二分も掛からず住宅地に入る。早起きの人には目撃されてしまうに違いない。

 今日はなるべく遅起きの人が多くいますように、と願いながら、アキラは背負われるがままに足を揺らした。



 ◆◇◆◇◆◇



 部屋の中にあるソファとテーブルを移動させて、いつものように代わりの家具を召喚した辺りで、階段を昇ってくる音が聞こえてきた。

 ミレイユは手早くテーブルクロスも用意して、ルチアに合図してパンやミルクを用意させる。朝食のメニューはいつも変わり映えないものだが、今日ぐらいはアキラに合わせて内容を変更させれば良かったかもしれない。


 朝食のメニューがテーブルに並ぶと同時、アキラが玄関に頭から飛び込んで来るのが見えた。


「まるでアヴェリンの肩に載せられていたものの、家に着いたから投げ飛ばされたかのようだな」

「かのよう、じゃないです。正にその通りですけどね……!」


 アキラが痛みを堪えた涙声で、非難するかのような目でアヴェリンを見るが、本人はどこ吹く風。靴を脱ぎ捨て、アキラを足蹴にして部屋に入ってくる。


「見ていらしたのですか?」

「いいや」ミレイユは小さく笑う。「どうせ帰りの事を考えずに叩きのめして、案の定抱えて帰る破目になったのだろう、と思っただけだ」

「慧眼、恐れ入ります」


 アヴェリンが苦い笑みを浮かべ、やはりか、とミレイユが笑みを深くする。

 アヴェリンは鍛練用に用意した鉄棒と、刀袋を入り口脇の壁に立て掛け、自分の席に座る。

 アキラが這々の体で部屋の中に入り込むと、最近よく見かける家具が部屋を占領していて、まさかと期待に胸を膨らませる。

 ミレイユがアキラにちら、と視線を向けて、小さく頷く。


「ルチアに朝食を用意させた。食べる時間にも余裕はないだろうが、何か腹に入れておけ」

「あ、ありがとうございますぅぅ……!」


 アキラは嬉しくて涙が出そうな勢いだった。

 相変わらず這うようにして席に近付いて、椅子の縁を握って立ち上がる。震える足を叱咤して立ち上がり、全体重を乗せるように椅子へ座り大きく息を吐いた。

 その一部始終を見ていたミレイユは、その滑稽な姿に笑みを隠せなかった。


「おはよう。……しかしまた、随分と痛めつけられたようだな」

「おはようございます……はい、本当に酷いです。ボコボコにされました。多分、私怨も入ってました!」

「……私怨?」


 ミレイユが怪訝になって訊けば、アキラはこくこくと頷いて続きを話す。


「そうなんです、ミレイユ様。鍛練を始める前から機嫌が悪くて、というか刀の説明をした辺りから、明らかに機嫌が悪くなってました」

「……そうなのか?」


 ミレイユがアヴェリンに顔を向けて訊けば、返ってきたのは朗らかな笑顔だった。


「まさか。そのようなこと、あろう筈がございません。不機嫌なのは、これの脆弱さに対してですよ」

「ふぅん?」


 ミレイユが再びアキラに視線を戻せば、浮かべているのは苦い苦い表情。脆弱と言われた事にも、私怨についても、両方について快く思っていないようだった。


「そのような事、どうでも良いではありませんか。それよりも、アキラ。お前、何よりも先にミレイ様へ礼を述べんか。無礼だぞ!」

「……そ、そうでした!」


 アキラがハッと表情を崩し、両手を足の付根に置いて、ツムジが見えるほど頭を下げた。


「あの、刀! 本当にありがとうございます! 僕なんかの為に、あんな立派なもの用意してくれて、本当に感謝しています!」

「うん、お前の志に敬意を表して、とでも思っておけ。実際のところ、私は今でも逃げ出せばいいとすら思っているが……。でも、やる気なんだろう?」

「はい、やります」


 アキラは顔を上げて言い切った。その視線は、どこまでも真っ直ぐで揺るぎない。


「今日も沢山、痛い目を見たろう。自力で帰れないくらい、痛めつけられた。今日が休みなら、もっと長時間、鍛錬を続けられていただろうな。もっとずっと苦しい思いをする筈だ。……それでも続けたいと思うのか?」

「はい、返事は変わりません」


 そうか、とミレイユは視線を切り、テーブルに肘をついて頬を乗せ、横を向いた。


「まだ死ぬ目にもあっていないから、そう強気の発言が言えるのかもしれんが。だがまぁ、まだ始まってすらいない、というのなら同じ事か」

「はい、怖い目にも死ぬ目にも遭ってないから言える台詞だと言われたら、確かにそうかもしれません。でも、だったら尚の事、死ぬ目に遭ってから己の進退を決めたいと思います」

「死ぬ目どころか、考える間もなく死ぬ事になるとは思わないのか。瀕死だからと、見逃してくれる相手はいないぞ」


 これにアキラは迷いなく頷いたものの、すぐに首を捻るようにして困った顔を見せた。


「分かっています。死ぬのは嫌だし怖いです。でも、自分がどうにか出来たかも、と迷いながら思い詰めるような事だって、やっぱり嫌だし怖いです。……上手く言えないですけど、僕はもう嫌な事から目を逸しているんです。その、より嫌な方から目を逸した結果が、いま僕の立ってる位置なんです」


 ミレイユは目だけ動かしアキラの表情を見て、小さく笑う。


「面白いことを言うやつだ。……ま、武器を渡した時点で、私はお前を認めている。好きにすればいいが……」

「はい、ありがとうございます」


 アキラはもう一度頭を深く下げ、数秒姿勢を維持した後で顔を上げた。

 ミレイユはそれをつまらなそうに見ていたが、ルチアが自分の横に立ったのを感じて、身を起こして椅子に背を預ける。ルチアがパンや食器を置いて行くのを見ながら、アキラを指差す。


「こいつの傷を癒やしてやれ。このままじゃ学校にも行けないだろう」

「あら、大盤振る舞いですね」


 ルチアが次に、アキラの前へパンとスープを用意しながら魔術を使う。

 白い光がルチアの手から広がり、アキラの肩に触れると、そこから流れるように光が移っていく。

 アキラは自分自身の身に起きている事が信じられず、ルチアと己の腹とを交互に見ていた。光が数秒で収まると、服を捲って傷を確かめる。

 おそらくは青痣、擦り傷、その他諸々、大小様々な傷があったのだろうが、綺麗さっぱり消えている。

 アキラは喜色満面の笑みでルチアに頭を下げた。


「ありがとうございます、ルチアさん! これで体育の着替えでは、変な事言われずに済みそうです」

「そうですか。よく分からないですけど、良かったですね」


 小馬鹿にするような笑みを浮かべて、ルチアは次にアヴェリンの前へ朝食を用意し始める。その時、箱庭からユミルが出てきた。欠伸混じりで自分の席につくと、アキラの前に緑色の液体が入ったガラス製の筒を置いた。

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