ボトルシップ
村上ꓘ(ムラカミトーレプーキ)
ボトルシップ
本当に永遠なものは目に見えない。
永遠とは何か、という問いにアジロはそう答えることにしている。
蟻は一生を賭しても、巨象の全容は掴めないだろうし、人類にとっては宇宙がそうだ。
だからまだ十四歳のアジロにとっても、将来なんて物が永遠に来るとは思えない。未来のことはもっと未来が近付かなければ考えも及ばない。本当ならそんな現実逃避に身を捧げたい盛りの夏の筈だった。だが、事態は急を要している。事の発端は二時間前に遡る。
その日、三時限目の終わりを告げる予鈴が鳴り止むや否やという頃、学級担任のヌァシタ教諭が慌ただしく教室に駆け込んできた。次の授業は彼の担当科目である化学(ばけがく)では無い。加えてこの時間は本来、休息時間に当るので、アジロを含め三十三人いる同級生(女子十八名、男子十五名)は各々親密な集団内で、教諭の闖入に何事かと騒ついていた。
学生の混乱を受けてかは分からないが、教室の喧騒を断ち切る様に、彼の教諭は教卓に大きく両手をついて口火を切った。
「皆、落ち着いて。くれぐれも落ち着いて、聞いてください」
こういう話の切り出しは話者本人が己に言い聞かせている節があるよな、とアジロはぼんやり考える。
「たった今、官邸から大規模な極移動が二日以内に起こることが発表されました。発表と同時に緊急事態宣言及び特別警報が発令されています」
教諭の言葉は耳馴染みのないものばかりで直ぐにぴんと来なかった。〈カンテイ〉とは何処だろう。〈キョクイドウ〉も意味を図り損なった。ただ大変なことになったのか、という印象は認識より先に訪れて、これは学校が休みになりそうだな、というのがアジロの得た一先ずの見解であった。
アジロは教室前方に備え付けられた黒板から三間(一間は一・八米)ほど後方、運動場側の窓付近に級友のデン、クヮシヲらと陣取っている。そこからはほぼ学級全体が見通せたが、他の集団を見ても、意味がまだ飲み込めていないような呆けた顔が過半で、中には教諭の真剣さが逆に奏したのか薄ら笑いを浮かべている者もいた。それに比べればまだ自分は理解度が高いのではないだろうか、とアジロは年頃の自負心を磨きもした。
「あの……」
壁に寄りかかっているアジロから見て左前方、学習机を椅子替わりにして腰掛けていたデンが、教卓方向に身を捩りながら徐に手を挙げる。
「極移動ってどんだけ危ないんですか?」
寝ぼけ眼を日中も湛え、見た目通りに性質もおっとりしたデンから目の冴えた質問が飛び出す。教室内にはデンの質疑に同調する空気が満ちた。ヌァシタ教諭も学生皆の理解度が把握できたようだった。ただ教諭の表情に爆発物を解体する様な緊張感が過ぎったのをアジロは見逃さなかったし、その重い空気に当てられ、思わず唾を飲んでいる自分に気づいた。ヌァシタ教諭は重々しく口を開く。
「極移動、というのは簡単に言うと北極と南極の位置、地軸がずれる現象です。過去にも同様の現象が、小規模なものでは数万年間隔で、定期的に起こっている事が知られています。しかしながら今回予測されている極移動は数億年に一度の規模で、地球全域に及び人類の文明全体、のみならず生存自体を脅やかす災害が起こる可能性が非常に高い、そうです」
言葉を選んでいるのだろう、神妙な面持ちを崩さずに教諭は続ける。
「主な影響は、太陽風から地球が無防備になる事で、宇宙線を多量被曝する事が挙げられます。また極移動には地球核活動の活性化、つまり火山噴火や地盤移動が関係していて、それによる大規模な地震や津波が世界中で何度も繰り返し発生することも予想されています。これらの複合的な災害から人類を守る技術はありますが、それでも人類の絶滅する確率は五割を超えています」
核心を吐き出したのだろう、教諭は教卓に肘を突き、項垂れてしまう。学生達の視線から逃れたい欲求が明白(あからさま)に現れていた。
「ヌァシタ先生、絶滅って、私達死ぬって事ですか?」
視線を逸らした教諭に追い打ちをかける問いを投げたのは、学級の中でも発言力のある女子生徒、ノォミだった。彼女の口を吐いた同義語反復は動揺の表れに違いない。日頃快活で歯切れの良いノォミの声が小刻みに震えて聞こえた。それはノォミ自身に由来するのか、それともアジロ自身も事実を飲み込めず狼狽えていたからだろうか?しかしその考えは否定される事になる。ノォミが震えているのではない、アジロが震えているのではない、世界が、全てが揺れている。地震だ。
大太鼓を渾身の力で叩いたような衝撃が、足元を基点に頭頂まで駆け登り、間髪を入れず視界に入る机が、椅子が、筆記具が、重力を失い、宙に浮いた、かと思えば次の瞬間には法則性なく千々に散らばって、鴉が首を絞められた様な声が級友の口から放たれ、器物が床に叩きつけられる種々の打音に混ざり合う。身を守ろうと誰もが必死だ。狂乱の時間は永遠に思われた。ただ実際はおそらく数十秒だったのだろう。揺れは収まった。アジロも生きた心地はしなかったが、廊下で鳴り響く警報器の音が現実感を引き寄せている。助かったという安堵が先にあった。その次にあったのはヌァシタ教諭の話が裏付けられたという確信だった。
「なぁ、とりあえずこういう時、どっかに逃げた方がいいんじゃ……」
這々の体で、机の下から身を起こしたクヮシヲが、背後からアジロに声を掛けていた。振り返ると、何かに打ち付けたのだろう、腕を摩ってはいるがクヮシヲに大きな被害は無さそうだった。級友の皆もそれに続く様に、身を伏せる姿勢を解き始めていた。
「皆、無事か?怪我をしている人はいないか?」
ヌァシタ教諭の声だ、教諭も無事だった。非常事態にアジロ達子供だけでは何も決断出来ない事に悔しい思いはあるが、彼の安全確認が出来た事で学級内は指揮系統を取り戻せそうだ。
「皆、動けそうだな。また今の規模の揺れが来ると危険だ、建物の外に移動しよう。その後の避難についても話したいが先ずは安全確保が優先だ。ノォミを先頭に全員校庭に移動してくれ」
教諭の指示は的確だろう。逡巡を断ち切る様に互いに目を合わせながら、級友達は皆その指示に従った。これが訓練ではないことをたった今、身を持って知ってしまったのだ。
校庭に避難すると、其処には既に他学年他学級の者も揃っていた。どちらかと言えばアジロ達は避難の後発組だったらしい。一瞥した目算ではあるが全校生徒の八割程は避難が完了しているようだ。ただ先刻の揺れで負傷した生徒も居たらしく教諭達はその応急処置に追われている。ヌァシタ教諭も校庭に着くなり救護の人手として駆り出されていった。
「俺らどうなるんだろうな」
避難し、地面に腰を下ろしたデンが弱音を溢す。アジロも分からないと答えるしかない。
「どこに避難しても、人類ゼツメツだろ?」
同調するようにクヮシヲが応じた。二人が切り出さなくても、ここにいる皆が思っていた。突きつけられた不可避の終末を避ける道が無いのでは動きようが無い。地震という直前の恐怖が避難までの動機付けになったのは、ある意味で幸運と言えただろう。逃げ延びた生徒達に暗澹たる思いが滲むように伝播していくのをアジロは感じていた。沈黙が十分程続いた後、一つの声が上がる。それは拡声器を通したタニァベ教頭の声であった。
「皆さん。先生方からもある程度説明があったと思います。混乱し、また不安も強く持っているでしょう。ですが、安心してください。間も無く国防軍の輸送機がこちらに到着します。皆さん全員をより安全な場所に避難してくれます」
安心?何に?学校より安全な場所?地下壕でもあるのだろうか?地下壕は安全なのか?多くの疑問がアジロには浮かんだ。教頭の言葉は続く。
「このような災害に備えて、我が校は緊急対策運用書を作成しています。そしてその中には、皆さんの命を守る為、人類の存亡を守る為に取るべき行動が記載されています。我が校の生徒、皆さんは政府決定に基づき人類滅亡危機がある災害下に於いて優先避難の特例対象となります」
優先避難?特例?悪くない話のようだ、とアジロは思った。アジロだけではない、口を閉ざしていた生徒達に騒めきが戻りつつあることがそれを物語っていた。その希望的観測は糠喜びとはいかないものの、直後に続くタニァベ教頭の言葉で些か手触りを変えることになる。
「皆さんは現人類の示準として、災害を乗り越えた後世に、現在の生活や文化の証拠や記録として受け継がれる必要があります。それを成す為に、これから政府施設で人工冬眠〈コールドスリープ〉の処置を受けて貰いたいのです」
生徒達の騒めきは一層、いやその比ではない程に膨らんだ。アジロだって例外ではない。不可解な点は幾つもあったが、そもそも人工冬眠なんて話を聞かされて易々と飲み込めるものではない。それでも、この瞬間に再び災禍の本流が訪れるとも知れない状況に比べればは幾分救われたのだろうか。生徒達の混乱を他所に、気づけば頭上後方に輸送機の飛来する羽音が聞こえていた。もう迷う時間すらアジロ達には残されていないのかもしれない。
到着した輸送機は全部で三機で、僅かに風を巻き上げながら校庭に着陸した。一機が丁度一学年の人数に相当する容積を備えているようだ。到着するや否や、中から砂色の服を着た軍人が十余名程降りてくる。軍人達はタニァベ教頭や他の教諭に駆け寄り、指示を出し、状況報告を受けている様子だった。大人達同士で首肯を数回繰り返す動作が行われた後、一人の軍人がアジロ達の方に向き直り機敏な動作で近づいてきた。
「二年生は貴方達?」
近づいてきた女はそう尋ねてきた。一瞬響めきがあったが、ノォミが生徒を代表して、肯定を返した。
「全部で二学級?」
その問いにもノォミが答える。
「そう、ありがとう。私は貴方達の避難誘導を担当するミヒュネ二曹です。早速で申し訳ないけど時間も限られています。私に続いて輸送機に乗り込んでください。さぁ皆、立って立って」
彼女の言葉に背を押されるように、二年の生徒達は地面から立ち上がり、離陸を用意を始めたのか羽音を僅かに大にした輸送機へと足を進めた。デンが立ち上がるのに少々もたついた(どうもミヒュネが魅力的だったらしい)せいで、アジロは最後尾から列に続く形になった。アジロ達が輸送機に乗り込んだのを確認するとミヒュネ二曹が扉を締めるように他の軍人に発号する。扉が締まり切ったのとほぼ同時に輸送機内の照明が一段明るくなる。二曹は生徒達全員に姿が見えるように群の前方に移動して、正対する様に向き直った。
「皆さん、迅速な避難に協力してくれてありがとう。既に説明を受けていると思いますが、これから軍部の避難施設に貴方達を送り届けます。少し揺れるかもしれないので体調が優れない場合は声を……はい、ミヒュネ二等空曹であります。はい……はい。ではそのように。」
アジロは自身の体に昇降機に乗るような浮揚感と、耳奥に気圧の変化を覚えた。輸送機が上昇し始めたのだろう。二曹が発言を止めたのは、耳に付けた無線機から何か指示を受けているようだった。
「失礼、体調が優れない場合は声をかけてください。本機が施設に到着するまでに、これからの事を皆さんにお伝えしたいと思います」
ミヒュネ二曹の言を要約すると、こうだった。アジロ達は軍の施設で人工冬眠した後、地球圏外へ飛行体で射出される。射出された後、地球の静止軌道上に留まり、地球が安全な状態になった後、外部あるいは人工冬眠を解除して内部から地球に帰還作業を行うのだという。この説明の間には何度も生徒達の混乱や不安を慮り、慰める言葉が差し込まれ二曹の為人(ひととなり)が汲み取れた。その度デンが胸を抑えて悶えるので、アジロはクヮシヲと肩をすくめた。生徒達にとって一番響いたのは避難計画全容ではなかった。計画の説明に続いて、最終的な意思決定は施設に着いてから確認される事、また街区毎に分けられて各学級は編成されており、施設には生徒達の家族も避難を始めており、到着後家族と会えることが知らされた。家族と会えるという話に皆一様に安堵の声を漏らした。デンとクヮシヲも顔を見合わせて喜んでいたが、アジロに気を使ったのか直ぐにその喜色を抑えた。別に気にしなくてもいいのだが。却ってアジロは申し訳ない気持ちになってしまう。ノォミに至っては張り詰めていた物が堰を切ったのだろう。ぽろぽろと泣き始めてしまい、同じ集団のトァンとレャンナが彼女を宥めていた。
最悪の状況から少しずつ光明が差していくように思えた。確かにこれでアジロ達は助かる目があるのだろう。それは本当に幸運な事だと思う。望んで得られない好機なのは確からしい。ただ、だからこそ僅かな染みにアジロの心は囚われてしまう。人工冬眠とはこんな短時間に出来るものだったろうか?
軍施設に着くと其処にはアジロ達を宇宙に運ぶと思われる一基の飛行体が聳え立っていた。クヮシヲが感嘆の声を漏らす。
「すごい、よだか六式だ」
クヮシヲ曰く、この飛行体は現在の航空技術の粋を極めた、所謂最新式のものらしい。
それがどれくらい凄いのかアジロには分からなかったが光速の十分の一も出せると自分事の様に誇らしげであった。このクヮシヲの様子は空元気かもしれないな。生徒達皆少しずつ緊張の糸が解れていたが、輸送機から降りてから既に二度ほど小さな揺れがあった。避難に残された猶予がいつ無くなってしまうか、それは誰にも分からない。今はただ先に進むしかない事を皆背中に感じていた。
帯同してくれたミヒュネ二曹達は生徒達を施設に送り届けた後、別区画の避難救助に向かうと言い取って返すように輸送機で飛び立っていった。デンは名残り惜しそうに彼女の背中を見つめていた。また会えるさ、と声をかける事が出来ない現状にアジロはもどかしさを感じた。刹那の邂逅が、今生の別れになる事をデンも、アジロも今日この時初めて実感したのだと思う。
施設に入ると、既に避難していた市民の姿が多く見られた。見知った顔も多くあり、デンの父母兄、クヮシヲの両父、トァンの姉と祖父母、ぱっと気付いただけでもそれだけいたし、級友達が我先にと駆け寄ったのを見れば大体誰の親類縁者かは分かるのが道理だった。合流できた家族から別室に誘導され、再度計画の説明と最終同意の確認をされるような放送があった。アジロはなるべく自分の姿が見えないようにそそくさとアジロ個人に用意されている別室に移動した。
アジロは体外受精培養児だ。施設で一緒に過ごした者や、施設の職員は縁者と呼べるかもしれないが、家族や血縁と呼べるような者はいなかった。必定、こういった家族という集団行動を要請される時、アジロは孤立してしまう。生まれた時からそうであるので、今更寂しいという気持ちは湧かないが手持ち無沙汰になるのはあまり好きではなかった。室内に用意された丸椅子に腰掛け、重心を様々にずらす一人遊びをしていると一名の白衣を着た男がノックの音に続いて入ってくる。男の首から吊るされた名札には研究主任イツァンニと書かれていた。
「こんにちは、えぇとアジロ君だね。僕はイツァンニ、ここの研究主任なんだけど人手が足りなくてね。こうして問診の頭数に入れられてしまったよ。医療者の真似事をしてるようで誤解を生むといけないから言っておくけど、僕の専門は理論物理学。さぁ、という訳で悪いけど、ちょっと時間を貰えるかい?」
彼はそう言うと、アジロが同意を示す前に室内で余っていた車輪付き椅子を、手元にぐいと引き寄せると、音が鳴るのを憚ることない勢いのまま腰を下ろした。小脇に抱えていた書類とアジロの顔を見比べる。
「ふぅん、君は第五世代かぁ、君ならもしかすると成功するかもしれないねぇ。ほら僕もこう見えて体外受精培養児なんだよ。まぁ第二世代だから君ほど遺伝子修飾はされていないけどね、おやどうしたんだい?浮かない顔をして?体調でも悪いのかい?」
「いえ、別に。人工冬眠の前って色々手続きがあるんだなって思っただけで。でも今は昔より技術が進んでるんですね。てっきり数日前から体液交換とか準備が必要だと思ってました」
不承不承応えながら、アジロは思った。苦手なタイプだと。このイツァンニという男、聞いてもいない事を勝手に話しかけてくる。そして男の話には何か引っかかる点もあった。ただ眼前の男の表情の異様さへと今は気を注がざるを得ない。数秒呆けたように口を半開きにし、考えるような素振りでイツァンニは停止している。奇妙では有るが、束の間の静寂が心地よい、と思った刹那、饒舌が再起動する。
「あ、いやいや、今のは失言だったね、忘れてくれ。確かに第五世代の遺伝子修飾を受けた君くらいだよ、事前準備なく人工冬眠が出来るのなんて。だからと言って僕達は何も死地に君達を送り出そうなんて思っていない。蘇生の公算は地球に残るよりも高いからね。この計画は避難と言って差し障りないだろう。それに何より人類史の記念碑になるなんてとっても名誉なことだよ。誇ってもらっていいんだからね」
死地?今死地と言ったのか?、アジロはこれが発声されたのか心の声だったか、驚きのあまり直ぐには区別がつかなかった。ただアジロの様子で眼前の学者は、自ら失態を上塗りした事を理解したようだった。軽薄な態度は完全に消えて、意気消沈している。
「済まない。昔からそうなんだ。一言も二言も多くて。頼むよ、大事な任務なんだ。皆に迷惑を掛けたくない」
「皆?皆知ってるんですか?」
「あぁ、大人達は知っているよ、そうでないとこんな大掛かりなことは出来ない」
「僕達を宇宙に放り出して、見殺しにするのか!何も知らせないで!」
アジロは激昂し、思わず声を荒げた。自分の中にこんな強い感情があることにも驚きがあった。感情の振れ幅の大きさは、僅かに冷静な客観をアジロに与えたが、まだ頭の奥の方は熱く脈打っている。申し訳なさそうにイツァンニが応える。
「それには誤解がある。アジロ……君にはきちんと伝えるよ。子供達に伝えてある計画には嘘がある。本当はね、君達には静止軌道を越えて、黒洞々〈ブラックホール〉を目指して貰うんだ。地球から最も近いものは一角獣座の赤色巨星にある。大体一五〇〇光年くらい先かな?あぁ安心して人工冬眠の耐用年数は問題無いし、自動誘導で寝ている間に着いちゃうよ。永久凍土だって何万年も持つんだから。計画の肝はここからさ。黒洞々の境界部を越えた先には物質の純粋情報を記録出来るとされている、理論上はね。それが出来なくても光学的には、君達が取り込まれる瞬間に固定されて黒洞々の寿命と同じだけ留まり続けるんだ。人類の存在証明、記念碑としてね。黒洞々の先に別宇宙が有るという学説に僕は懐疑的だけど、その可能性は君達の生存可能性を伸ばしてくれる。兎に角、星の寿命と等しい情報となれたなら、いつか人類が再生、再発展した暁には黒洞々からの情報復元を可能にする技術で蘇生を試みたり、君達が赤色巨星に到着する前に亜光速や跳躍航法で先回りして回収できる目だってある。君達は苦しむことなく、同時に人類の永遠が保障される。こんな事態で無ければ、もっと時間があれば別の方法もあったのかもしれない、けれど今はこれで精一杯なんだ。これでも君達はまだ幸せな生き方だと思う。地球で地下壕に避難しても生存率は一割未満、運良く残っても、その一割を生かせる物資は早晩底をつく。その後は三日と持たず略奪と賊害によって支配され、理のある者は自決を選ぶ、そんな世界がもうすぐやってくる。僕はきっと耐えられないよ。君達が人類の証明として宇宙を旅しているという希望がないとね」
イツァンニの話をアジロは全て理解出来ているとは思えない。あまりにも訥々とした吐露に、複雑な感情が入り混じったが、反論の言葉は浮かばなかった。
「ねぇアジロ、君は永遠について考えたことがあるかい?」
別れ際に彼は白衣の隠しから小さな錠剤を取り出し、少しでも気が楽になればとアジロに手渡した。それがイツァンニと交わした最後の言葉だった。
面会時間の後、集合場所とされた廊下の待合場所には何人かの級友の姿が無かった。デンが居ないな、とクヮシヲに声をかけられたので、順番があるんだろうとアジロは答えた。幸せは人の数だけあって、結末も人の数だけあるということかもしれない。今生の別れを前に、何が起こったか。彼らとその家族の心中をアジロは斟酌した。
今、アジロを含め施設に留まった十数名が人工冬眠の最終行程に入り、格納容器の中でその時を待っていた。結局、アジロは誰にもイツァンニから聞いた真実を伝えなかった。
アジロは僅かに開いた瞼から、睫毛越しに最後の景色を見ている。最終凍結室と銘打たれたこの部屋は、アジロ達の人工冬眠に必要な機材と格納後の搬出に使われるであろう運搬機械以外には何もない。壁は扉部分以外に凹凸を感じさせず、無機質な立方体を思わせる。研究施設なんてのはどこもこんなものなのだろうか。建造経費と衛生配慮が人類の辿り着く先とは。不謹慎かもしれないが、花に囲まれた葬儀の方が最後の景色として理に適っているな。由無し事を考えているうちに、一層強い眠気がアジロを襲った。静かに格納容器の蓋が閉まっていく音を何とか耳が捉えた。その他に冷却液が流れる配管の脈打ち、揚水機に繋がれた原動機の唸り。アジロは知る由のない母親の胎内で聴く鼓動に思いを馳せると、不思議と深い安堵と穏やかさを覚えた。頃合にイツァンニがくれた薬の効果も出てきたのだろう。恐怖も後悔も薄らとして、感情が頭の表層で透明度を増していく。この瞬間も人類の叡智は素晴らしく、アジロを救っている。
未来は見えない。太陽すらも山椒の粒となる星の図歴の中では、人の一生は塵にも届かない。僕達は人類の最後の悪足掻きだ。ならば果てを見てやろうではないか。この目に触れた途端、那由多の時の束すらも観測可能な一糸に撚られる。永遠が時間の連続に佇む限り、その来訪は予感されるのだから。冷え切った少年の軀にはそんな確かな願いが刻まれている。そうして人類は永遠の眠りについた。
ボトルシップ 村上ꓘ(ムラカミトーレプーキ) @etalpyek_mrkm
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