次こそは君と生きられる世界を

龍柳四郎

第1幕 第1話 プロローグ

 残酷な世の中だ。

 俺が何をしたというのだろうか。

 いたって普通に生きてきた。誰にも迷惑をかけずに生きてきたつもりだ。

 多少の欲に負けたことはあった。それでも犯罪行為に手を染めたことなんてない。せいぜい恋人に隠れて夜食をつまみ食いしたくらいだ。

 労働にも勤しんだ。ずる休みも数回しかしたことはない。会社のために、自分の生活のために、愛する恋人を喜ばせるために、社会のために、一端いっぱしの社会人として世界に貢献してきた。自分ができる全力を出して働いた。

 それが普通だと言われれば、そうなのかもしれない。わかっている。

 でも・・・・なら・・・・なんで普通に暮らしている俺にこんなことが降りかかっているんだ。もっと不幸になっていい人だっていただろう。

 俺より屑みたいな生活をしている人なんて五萬ごまんといるはずだ。それなのに、なんで・・・・その中で選ばれたのがなんで俺なんだ。


 クリスマス。それは本来キリストの誕生日を祝う宗教の日だけれど、日本では恋人たちの日。家族の日。そういう認識がある。

 そんな日でも俺、水鳥天馬みずどり てんまは会社で働いていた。

 往来を行く多くの人は幸せそうな顔をしているのに、俺は仕事という精神的苦痛を感じながらパソコンとにらめっこをしている。キーボードを無心で叩いている。

 でもいいんだ。そんなのものは一時の苦痛だ。これさえ終われば、この資料さえ終わらせてしまえば、待っている人に会える。恋人として過ごす、最後のクリスマスという最高の夜が。

 スマホの連絡アプリを起動し、彼女の名前が表示されたトークルームを表示し、もうすぐ仕事が終わる旨を彼女に伝える。

 十八時に集合の約束だったのが、現在時刻十八時半。三十分も遅刻しているというのに、彼女から返ってきた返事は、可愛らしいクマが親指を立てて了解の旨を伝えるスタンプのみ。

 けれどわかる。これは・・・・少し怒っていらっしゃる。返事がスタンプ一つのときは何かしら不機嫌の証拠だ。今から怒りを納めるための方法を考えておかなくては。

 仕事をさらに急いで片付けて会社を出た。

 外に出て感嘆の声を漏らす。会社の中で感じた異常なまでの寒さの理由に。

「綺麗だ・・・・」

 東京ではなんとも珍しい雪景色。アスファルトは見えず、靴の底では雪の感触をしっかりと感じることができる。

 その珍しい景色に、それ相応の歳なのにやけて浮足立ってしまう。

 彼女に『雪‼ 綺麗だね』なんて少年のような連絡をすると、『今更気づいたの?』という冷静な返事・・・・仕事をしていたので。

 はしゃぐ気持ちも少し冷静になると、彼女から写真が一枚送られてくる。

 そこに映っていたのは、指先が寒さで赤くなっている彼女の小さな手で作られたピースサインと、小さな雪だるま。

 冷静な返事をした彼女でさえも雪だるまを作ってしまうくらいには、みんなこの景色を見ると浮足立ってしまうのだ。

 雪だけのせいではない。クリスマスという特別な日に降る雪だからという理由もあるのかもしれない。

 ホワイトクリスマス。そんなロマンチックな言葉だけで、世の中の恋人たちは浮足立ってしまうのだろうか? 少なくとも、俺と彼女は浮足立つようだった。

 道路に大量にある雪を少しかき集め、二つの雪玉を作る。それをくっつけて顔を描く。

『俺も作った』

 写真と一緒に連絡を入れると、『早く来てください』と連絡が返ってきた。

 そうだった、こんなことをしている場合じゃない。

 彼女を待たせていることを、景色のせいですっかり忘れていた。

 転ばないように地面をかみしめて、彼女との待ち合わせ場所に急ぐ。

 雪国の地方から来た彼女から教わった雪の上での走り方を忠実に守り、集合場所へと走る。

 彼女とは三年前のこんな雪の日に出会った。慣れない雪に転んでいる俺に声をかけてくれたのだ・・・・そして今では俺の奥さんだ。

 正確にはまだ結婚はしていない。でもすでに婚約もして、四月にある彼女の誕生日には、結婚式を挙げる予定だ。それゆえに、『恋人として』過ごす最後のクリスマスなのだ。

 さらに、彼女のお腹の中には俺たちの大切な宝物を授かっている。

 次のクリスマスが来る頃には、家族三人で過ごすクリスマスになることだろう。

 だから二人ともまだ独身である最後のクリスマスは、最高の夜にしようと約束したのに、あのクソ部長・・・・許さねぇ。

 自分が独り身だからって、俺のこと妬んでんのか?

 でも今となってはそんなことどうでもいい。彼女に会えるのだったら妬みにまみれている嫉妬深い部長のことなんて水に流して、彼女の機嫌を直すことに意識を割くべきだ。その後の幸せな時間のことを考えるべきなんだ。

 彼女との集合場所が近づいてくる。二人の会社から一番近いコンビニで待っているはずだから、彼女の好きなコーンスープを買ってあげよう。きっと寒さで震えているはずだ。

 寒さで吐く息が白い。走っているから息を吐く量が多くて、真っ白な息が自分の目に入ってきて、少し痛い。

 思うように呼吸ができず、鼻の奥が寒い冬の日特有のつんと刺すような痛みに襲われる。

 早く彼女の温もりに触れたい。彼女もきっと寒いだろうけど、二人でいればそんな寒さも吹き飛ぶに違いないから。

 だんだんとコンビニが近づき、この信号を渡った先をもう少し行ったところに最愛の人がいるはずだ。

 青になるのが待ち遠しい。その場で駆け足してしまうくらいには。なんでかって?

 横断歩道の先に、俺の最愛の人が待ってくれているのだから。俺が来る方向を知っている彼女は、そろそろ来る頃だろうと予測して迎えに来てくれたのだ。

 手には二本のコーンスープ。すでに一缶は開いていて、湯気が立ち上っている。寒さに耐えられなかった彼女が飲み始めたのだろうか。そんなところも愛らしい。

 横断歩道の先でくすくすと笑っている彼女を早く抱きしめたい。その衝動に駆られる。

 信号が青になった瞬間走り出す。一速く彼女の温もりを感じたい。早く抱きしめたい・・・・けれど皮肉にもそれは別の形で叶うことになったのだ。

 彼女の元へ向かうことに夢中になっていた俺は、気づかなかった。停車することに失敗し、スリップしながらこちらに走ってきているトラックに。

 前にいる彼女が一瞬で血相を変え、引き返すように言ってきて初めて気づいた。

 すぐに立ち止まり引き返すように振り返り、走り出そうとする。でも都会人の俺には、教えてもらったとはいえ、慣れない雪の上でそんな器用に方向転換はできなかった。

 雪で足がもつれ、転倒する。その瞬間に悟った・・・・死ぬのだと。

 トラックに止まる気配はなく、一直線にこちらに向かって走ってくる。立ち上がり、歩道に駆け込むより、俺とトラックがぶつかるほうが先なのは明白だった。

 こんな時、周りの風景がゆっくりに流れて見えるというが、本当だった。

 だってはっきりと見えたのだから。こちらに向かって走ってくる彼女の姿が。

 次の瞬間、二度何かにぶつかる感覚があった。二度目の衝撃のほうがずっと大きくて、些細の事のように感じたけれど、もう一つの衝突の感覚もしっかりと感じた。

 立ち上がった俺を歩道に押し込もうと彼女がぶつかってきたのだ。

 そうして皮肉にも、彼女の衝突によって彼女の温もりに・・・・否。冷たくなっていく彼女の身体と、真っ赤な鮮血に染まる雪の上で俺も意識が朦朧としていった。

 周りの野次馬の叫ぶような悲鳴と、救急車を呼ぶように喚く声が、耳の奥底で聞こえてきたことだけわかった。


 すぐに俺と彼女は救急車によって病院に搬送される。この間、俺にはほとんど意識がない。

 ただ朦朧とする意識の中、真っ暗な視界の中、救急車のサイレンだけが聞こえているような気はしていた。

(助けて・・助けて・・・・どうか、俺たちの幸せな未来を・・・・奪わないで・・・・神・・様・・・・)

 残る意識でできるのは神に祈ること。別の救急車で運ばれている彼女と、願わくばお腹の中の赤ちゃんも無事であってくれと。俺たちの幸せな未来を奪わないでくれと。神様に祈るしかできなかった。

 世はクリスマス。こんなめでたい日であることが逆に皮肉にも幸いしたのだろうか。声が聞こえてくる。人間の声じゃない。俺の脳内に直接語り掛けてくる声。

 誰だ?

『祈りなさい。祈りは通じます。あなたの祈りの力に必ずや応えて見せましょう』

(・・・・誰なんだ?)

『私は神です。このような祝い事に死者などあってはいけません。さぁ祈るのです。神への祈りが強ければ強いほど、私はあなたに応えて見せましょう』

 その声が真実かどうかなんて、今の俺には関係なかった。

 ただ縋り付くように祈った。俺の意識が途切れるまで祈った。それしかできないから。

(どうか・・・・どうか・・・・助けて・・・・)

『・・・・・祈祷力の寄付、ありがとうございました』

 最後に聞こえた気がしたのは、嘲笑うような声だけだった。

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