7.極楽寺良観の祈り

極楽寺良観は、貧しい人や病気の人、おれみたいに行き場のない人を救う活動をしていた。療養施設を作ったり、仕事を与えてくれたりしてね。これは本当のことだよ。みなしごだったおれも、そのおかげで、生き延びることができたんだ。


極楽寺の土地の中には、人間だけじゃなくて、馬の怪我や病気を治すための病院まで建ててある。あと、名のある名医を集めて、薬や治療法の研究なんかもさせている。


だから、良観がたくさんの人から敬われているのは、ウソやまやかしで人をだましてるだけとは言えねえ。そういう、実績の裏付けがあるのさ。


その一方で、人を苦しめることもやっていて、恨みを買っているのも事実だ。


極楽寺では、念仏も盛んにやっているけど、もともと良観は律宗の坊さんだから、一応、戒律を守ることが大事だってことを教えている。これが面倒なもんで、自分が自分の心がけとして戒律を守ってるだけならいいが、他人にも強制しだすと、いけない。


たとえば、不殺生戒ふせっしょうかいっていう戒律があるね。生き物を殺しちゃいけない。これは大事なことだ。だけど、すべての人がどんな生き物も殺しちゃいけない、なんてやり出したら、大変なことになっちまう。


極楽寺良観が貧しい人や病気の人を救済しているのを見て、感激した貴族や武士が、良観のところへ来る。良観の教えに帰依したいと、頭を下げる。すると良観は「受戒」という儀式をやって、その貴族や武士に、戒律を厳格に守ることを誓わせる。


戒律を守る取り組みとして、良観が貴族や武士によく勧めたのが、そいつらが持っている土地の中に、不殺生の領域を設けることだ。わかるかい。その貴族や武士が支配している地域の中に、

ここからここまでの場所では一切生き物を殺しちゃいけねえ、違反したら厳しく罰するぞ!ていう掟を作るのさ。


これはひどい迷惑だよ。漁師は魚をとらないと生きていけねえし、鳥や鹿をとって食べないと暮らしていけない地域もある。そんな人たちが生活している場所を、不殺生の領域にしてしまって、漁師たちに向かって、魚をとってはならん!もし魚をとったらひどい罰をくらわせるぞ!て脅かすんだもの。


そうやってたくさんの人を苦しめておいて、良観や貴族たちは、不殺生戒が守られて素晴らしい、これで過去の罪が許されて、来世はいいところに生まれるぞ、と喜んでるんだ。そんなの、罪は余計に増えちまうよ。


それから、道に関所を作るってこともよくやった。


鎌倉を出入りする商人や荷物運びがたくさん行き来する大事な道を、極楽寺が集めた人夫たちを使って整備して広くする。ああよかったときれいになったと思ったら、極楽寺がそこに関所を設けて、通るにはカネをよこせ、カネを払わねえやつは通さんという。


これは、おれも極楽寺の人夫として関所を建てる工事をしてた側だからでかいクチはきけねえが、どうもタチの悪いことをやるもんだと、釘を打ちながら思ってたよ。そこを通らないと、ぐるっと狭い山道をまわり道しないといけねえ、ていうようなところに、関所を設けて、カネをとるんだもの。


もし関所でカネを払わねえと、幕府の役人に連れて行かれてしまう。そういうのは、幕府が極楽寺に指示をしてやらせてる、幕府の公の仕事ってことになってるからね。そこで良観と平頼綱はガッチリ手を組んでいて、幕府から道路の整備や橋の建設の依頼が極楽寺に来ることになってる。極楽寺は、日ごろ守ってやっている貧しい人たちをかき集めて、安い賃金で工事を請け負う。道路や橋ができあがった時には、そこに関所を設けて極楽寺が通行料をとっていい、とこれも幕府が認めている。


いや、そういうカネでその頃おれはメシを食っていたから、何も言えねえけどね。そういうわけで極楽寺良観ってのは、感謝されてもいたけど、恨まれてもいたよ。慈善活動は立派だけど、ウマイ汁も吸っていた。


そして、人には厳しい戒律を守れと言いながら、極楽寺の坊さんたちはいい生地の服を着ていたし、仏具なんかもピカピカだったよ。


さて十一通の書状を送った後、おやじとその弟子たちは、さぞかしひどい仕返しがあるだろうと思って、覚悟して待っていた。けれども、何も起こらなかった。


返事もちらほらとしか来ない。法論での公場対決なんてひとつも無い。これはおやじからしたら拍子抜けだったかも知れないね。


それでそのまま三年ほど過ぎた頃だ。


鎌倉で、大干ばつがあってね。長いこと雨が降らなくて田んぼも水も干上がっちまった。地面はカサカサに乾いて風が吹くと土煙が舞うし大変だった。海は目の前にあっても、塩水じゃあ飲んでも余計に喉が渇くからね。


そこで幕府は、関東の大きな寺の坊さんたちに祈祷を頼んだ。雨乞いの祈祷だ。極楽寺良観のところにも、その祈祷の依頼が来た。良観ていうのは、芸の多い奴なんだが、祈祷きとうのほうでも有名だ。雨乞いをして成功したことも何度もあった。エライ人の病気を治るよう祈祷したらホントに治ったって話もある。


良観が雨乞いの祈祷をやるって話を聞いた日蓮のおやじは、良観の子分の坊さんの、周防房って人に声をかけて、良観への伝言を頼んだ。こう言ったんだ。


良観は間違った教えを説く悪人だから、祈ったところで絶対に雨は降らない。もし七日のうちに雨が降ったら、日蓮は良観の弟子になる。もし降らなかったら、良観の教えは間違ってるってことの証明になるから、日蓮の教えに従うように。


とね。


それまで良観は、おやじに法論を求められても、どう批判されても無視してきたが、これには食いついた。


周防房からおやじの伝言を聞いた良観は、喜んでその勝負に乗ったんだ。雨乞いは自分の得意技だから、法論では勝てなくても、これなら勝てる、日蓮をへこます好機と思ったんだろう。


良観からの返事を聞いたおやじの弟子たちは、この勝負のことを鎌倉のあちこちで言いふらしてまわった。すぐに鎌倉中がその噂でもちきりになった。


日蓮が良観にケンカを売った。良観がそのケンカを買った。


こんなおもしれえ対決はそうそう無いもの。武士たちの合戦は恐ろしいし迷惑千万だが、この勝負なら安心だしね。どんどん噂は広まって、みんな良観の雨乞いに注目した。


さあ、極楽寺の坊さんたちが良観を中心にして祈り始めた。


ところがなかなか雨は降らない。三日たち、四日たっても雨は降らない。空にはお日さまがギンギン照っている。大勢の坊さんが声を枯らしていろんなお経を読むんだが、降らない。五日たったとき、多宝寺からも百人以上の坊さんを追加した。それで真夏のセミの何千倍もの勢いでわんわん声を響かせて祈るんだが、ダメだ。


おやじは弟子たちを極楽寺につかわして、おいおい、まだ降らねえのかと責めた。良観の教えは間違っている。間違った祈りはかなわない。雨は絶対に降らない。弟子たちはそう言い放って去って行く。これには、極楽寺の坊さんたちも何も言えない。


とうとう七日たっても、雨は降らなかった。おやじの使いとして日興が極楽寺にやってきて、祈りつかれてヘトヘトの坊さんたちに、おやじの言葉を伝えた。


【一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか】


幅が一丈の堀を越えられない奴に、幅が十丈、二十丈ある堀を越えられるわけがない。


つまり、必ず雨を降らせる、という祈りすら叶えられないチンケな教えでは、過去の罪業を消したり、成仏を遂げたりするほどの大目標を叶えられるわけがない。日蓮のおやじは良観に、それから鎌倉の人たちに、そう言ったんだ。


何しろ雨は降らなかった。良観はケンカを売られてそれを買ってそして負けた。ついでに言うと七日たった時、良観はおやじに泣きを入れて、何日か期限を延ばしてもらったんだが、それでも雨は降らなかった。


この時おれは十二、三ぐらいになっていたが、日蓮ってのは何だかすげえなあと思った。


寺もなにも持ってない、松葉ヶ谷に小さな草庵を構えてるだけの、位も何も持たない坊さんなのに、極楽寺みたいなバカでかい寺で、何百人も弟子を持って、聖人として鎌倉中から敬われている良観を、負かしちまうんだもの。


おれは、どうにも興味がわいてしかたなかった。ついつい、極楽寺で良観たちをへこまして松葉ヶ谷に帰ろうとする日興に声をかけて、日蓮ってのに会わせてくれと頼んだ。その歳になってもまだおれはやせっぽちのチビ助だったから、日興もガキと思って油断したんだろう、帰ったら晩メシにするから一緒に食っていけ、と言ってくれた。


日興について松葉ヶ谷の草庵に行ってみると、弟子たちが二十人ばかり集まっていた。日昭や日朗、日向もいたし、池上の宗仲と宗長の兄弟もいたし、金吾のだんなもいた。おれと日興が着いたころにはもう酒盛りが始まってて、笑い声が響いてたよ。もちろん、良観を打ち負かしたことを祝ってたのさ。


鍋やら魚やら餅やらが並べられて、それをみんなで囲んでいるその中心に、日蓮のおやじがいた。


最初見たときは、どう思ったかな。想像していたより背は小さいと思ったし、顔立ちもわりと上品な人相だと思ったね。それまでは、虎みたいに目の吊り上がったした大男を想像してた。


日興が一応おれをおやじに紹介してくれて、おやじは笑顔でそうかと言って皿と箸をとって、さあ何がいい?ときいた。


おれは、人見知りするほうじゃねえんだが、これがあの日蓮かと観察するのに夢中で、聞かれたことに答えられなくて、もごもごしてたら、おやじはそのあいだに、これが美味いからこれを食べてみろ、あとこれだと、魚やらイモやらをどんどん皿にとって、わしわしと山盛りにしてくれて、おれにその皿を突き出してにんまり笑った。思わずおれも笑顔になって、ありがとうと言ったよ。


それからおれはどうにもおやじのことが好きになってねえ。極楽寺に戻りたくなくなっちまった。その日だけは戻って寝たんだが、翌日は早起きをしてもう松葉ヶ谷に向かって走って一目散だよ。それきり極楽寺には戻らなかった。


親もいねえみなしごのおれは、そのころ太郎と名乗っていた。簡単でいいからね。チビ助の太郎だったが、おやじは、おれがやせてチビなのを見て、強そうな名前をつけてやると言ってくれた。


紙に筆でさらさらと、「熊王丸」と書いてみせてくれたんだ。


でまた笑顔で、どうだ!って言う。嬉しかったね。


だって、鎌倉の街の片隅でごそごそしてるだけの、クソほどの価値もねえガキんちょだよ。そんな勇ましい名前が、自分のことだなんてよ。パッと目の前が明るくなった気がした。そんなわけでおれはその時から、熊王丸と名乗ってる。


前にも言った通り、誰だって仏性っていう宝の珠を持ってる。それが法華経の教えだ。


【如来とは一切衆生いっさいしゅじょうなり】


おやじはそう言い切った。その日その日のメシと寝床があれば十分だと思ってたおれに、熊王丸って名前をつけてくれたのも、もっと自分に誇りを持て、おまえも一人の立派な人間じゃねえか、仏性を持ってるじゃねえかって、励ましたい気持ちからだと思う。


それはそうと、まずいことになっちまったのは極楽寺良観だ。


もちろん、勝負に負けたからといって、約束どおり日蓮のおやじの弟子になるわけにはいかない。おやじも、まさかそこで良観に、早く弟子になれなれ、約束はどうしたんだ、なんて追い込むつもりはなかったよ。


だとしても、敗れた良観は、さぞもがき苦しんだことだろう。でかい寺をいくつも持って、何千人も弟子がいて、幕府のお偉いさんたちでさえ揃ってひざまづくような地位にありながら、ただの坊さんである日蓮のおやじに、きれいに打ち負かされちまった。悔しいなんてもんじゃないよ。はらわたに火がついて焼かれるような辛さだったろう。夜も眠れなかったにちげえねえ。


良観は、自分で手を出すことには懲りたお今度は、行敏っていう、念仏の坊さんだ。




行敏が言うにはだよ。そもそも日蓮って奴は、仏法にも背いてるし、幕府が掲げる政道にも外れる逆賊であり大悪人だ。悪人が悪知恵を働かせて策略を設けてそれに引っかかってしまったとしても、そんなのはそもそも無効であって、従う必要はない。雨は降らなかったけれども、それが何だ。日蓮の弟子になんかなる必要はない。




とこういうわけさ。




じゃあ日蓮のおやじがどういう悪事を働いてたかっていうと、行敏がまとめたところでは、亡くなった北条時頼や北条重時が地獄に堕ちたと吹聴したり、そればかりか、松葉ヶ谷の草庵に武器を蓄えて、暴徒を集めて、幕府に反逆する準備をしていることがわかったっていうんだ。




まあよくそんな言いがかりをデッチあげたもんさ!




けれど、ウソも百回言えば本当になるっていうからね。重要なのは、真っ赤なウソだろうと何だろうと、何百回何千回と繰り返して、言いふらして、信じ込ませて、そのへんの子供や年寄りばかりでなく、立場のあるエライ人たちの間でも話題になるようにして、「そこまでみんな言うんだったら本当なんじゃないか?」と誰しも思うぐらいにやり抜くってことだ。




行敏は、良観を守る尖兵として、日蓮のおやじを幕府に訴えた。松葉ヶ谷を拠点にして幕府に対して謀反を起こそうとしている反逆者として、告訴したのよ。




これに対しておやじは、しっかり反論した上で、やるんだったら公の場できっちりカタをつけようじゃねえかと言い返した。もともと、十一通の書状を出した時だって、おやじが良観や道隆に求めていたのは、公開法論だからね。




公の場で法論して、白黒つけようじゃねえかと。




でも、そうなるとやっぱり良観は出て来ない。行敏の訴えは、言いっぱなしで尻つぼみに終わっちまった。

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