除け者

くろかわ

化け物

 1


「おい坊主」

 食っちまうぞ、とそれは僕に言葉を掛ける。


 なるほどこれが例のアレか。聞きしに勝る異様である。

 一人得心していると、それは再び顎を開いた。

「聞いてるのか、テメェ」

 口の悪い男だ。


 男かどうか判然としないのが実情ではあるのだが、真っ裸の上半身に膨らんだ乳房は見当たらず、隆々とした胸板があるばかり。ならば雄ではあるのだろうと思うことにした。

 背は高く、僕よりも優に三十センチは上だろう。顎の下に僕の頭がすっぽりと入るくらいだ。高いといよりむしろ長いと形容すべきだろうか。

 手指の先も尋常のそれでは無い。爪は鋭く、凡そ人のそれとは大違いだ。人里へと降りてきた熊の死骸を見たことがあるが、その爪にそっくりだ。

 開いた口から覗く犬歯も薄気味悪く伸びており、喋る度に無理やり人の声を模しているのだと解る。


 それは小首を傾げこちらに近寄ってくる。生まれてこの方一度も切ったことがないのかもしれない、長く黒い髪を揺らして歩を進めるそれ。


「坊主、聞こえてるか」

 聞こえてはいるのだが、どうしたものかと悩む。


「見無ぇ顔だな。何者だ」

 不用意に近づくそれを見上げた僕は喉をトントンと叩いてから指でばつ印を作る。

 これなら如何に学が無くとも理解できるだろう。

「なんだ、坊主。オマエ、失声ひごえか」

 応じて頷く。なんだ、やっぱり話の通る者じゃないか。



 2



 ひごえ、つまり声の出せない人間に、あまり価値はない。より正確に記するなら、普通ではない人間の価値は極めて低い。つまり、僕の価値は相対的に兄よりも低く、当然の帰結として僕は気ままな次男坊を演ずる事と相成った。


「お前さんが女だったら良かったのにねぇ」

 母親はそういうと聞こえるように大きく溜め息を吐き、わざわざ弄くり回す必要も無い火鉢を鉄棒でぐりぐりと玩ぶ。視線をこちらに合わせないのは、会話をする気も無いからだ。無視してしまえば簡単に済む話にもかかわらず、口に出さずにはいられない。僕が厭い僕を厭う性分である。一方僕は何処吹く風、沸いた湯を器に移して、障子戸を開く。外は雪。一面の白。姦しい母屋から逃げ、自らの離れに引きこもりの用意だ。


 廊下で女中とすれ違いざまに軽く会釈をするも、女は少し困った様子で苦い笑いを浮かべる。

「ちょっとあんた、早くしとくれ。寒いったらありゃしない」

 今しがた出てきた部屋からきんきんと甲高い声がざわめく。

「はい、大奥様」

 苦笑いを止めた女が慌てた様子ですれ違って行く。どたどたと煩い足音にうんざりするが、自分の喉はそうはならないのだと考えると少し心が軽くなる。


 飯時まで時間もある。少しばかり積んだ本を崩していれば、そのうち飯も運ばれて来るだろう。


 ───


 離れに住まうとは言え、しんと静まり返った冬里であるから、声は誰のどんなものでもよく響く。夜毎煩い兄夫婦や、両親の馬鹿騒ぎなど、日常茶飯事は慣れたもの。だからだろう、裏口から聞き慣れぬ音がした時は少しばかり心をときめかせた。


「どなたか、いらっしゃいませんか」

 老いた男の出す音だ。

 覚えのない声に、誰も返事をしやしない。それもそうだ。時は夜半に近く、屋敷の男は三人だけ。商売する気ならこんな時分に訪ねて来るわけもない。

「どなたか」

 母屋の連中は皆揃って無視を決め込んだのだろう、男の声は雪に沁み入っていく。


 どうせ僕が何をしても家のものは誰も興味を持たないのだから、絵に書いた野放図のように振る舞っても良かろう。


「どなたか、」

 からりと裏戸を開くと、そこには猟銃を背負った老人が一人。しわがれ声で嗚呼と安堵の声を漏らす。

「丁度良かった。新しい地主さんに、ちょっとばかり話がありまして」

 丁寧な物言いの老人には残念だが、相手が僕では『新しい地主さん』の丁稚小僧にもなりはしない。勿論そんなことは言えないので、紙を一枚見せる。

『喋れませんので、お話だけお聞き致します。夜分遅い時間ですから、明日主人に話を通します』

 そう、丁稚小僧の真似事というわけだ。


「そうかい兄さん。そいつはありがてぇ」

 金を持たない相手だと解ると直ぐ様態度を軟化させる。人とは、得てしてそういう特性がある。この老人も例外ではない。

「実はだな、あの山、あんたの旦那さんが買い取った山なんだが、西に星が出る刻限になったら入っちゃなんねぇぞ」

 何を当たり前の事を言っているのか。夜山になど誰も用事はないし、そもそも危険極まりない。

 首を傾げて続きを促すと、老人は声を潜めて再び口火を開く。


「良いかい、兄さん。あの山には夜魔やまが出る」


 やまにはやまが出る?

 何を言っているのかよく理解できない。

「夜と山の神様が出るんだ。良いかい、絶対に夜になったら入っちゃなんねぇぞ」

 要領の得ない話ではあった。あったが、取り敢えず頷いておく。

「伝えたからな。それじゃあ、絶対に守るんだぞ」

 そう言って老人はそそくさと逃げるように帰っていった。


 やまにはヤマが出る。

 意味不明である。音声でしか喋らない人間の大きな欠陥だ。せめて、どんな文字で書くのか判れば字面からある程度は類推できるのに。


 だが、それはそれとして興味はわいた。

 山に座する物の怪のようなものだろうか。巷で不謹慎とされる小説にあるような、不可思議な存在だろうか。

 無論、真っ当な神経の持ち主ならこう結論付けるだろう。否、と。

 日本の外から人が来て交流が進み、都会では夜の間でも行燈以外の灯りで見通しが効く。闇などもはや人の敵ではなく、そして山も同様だ。

 農業は最初の自然破壊だが、人間は更なる開拓を求めて山の開発に手を出した。

 そこは既に敬われるべき神域でなく、膨大な木材資源を蓄えた不便な土地である。


 しかし。しかし、だ。またぎを始めとする山に住まう人々が、一定の理由付けをもって「夜山に入るな」と言っていたとしたら。

 そこには何かがいて、何かがあって、害をなし、時に益をもたらすとしたら。


 どうだというのだ。どうせ熊か猪か、そんなところだろう。

 では仮にそうだとして、僕がそれに遭遇したらどうか。


 にたりと口の端が持ち上がる。


 僕は爪弾き者で、家のお荷物で、しかしいなくなればそれはそれで慌てる者がいる。家の者がいなくなれば体面が保てない。大慌てする親の姿が目に浮かぶ。バツの悪そうな顔をして僕の死体と鉢合わせる兄など傑作だろう。

 そうして里の者たちからこう言われるだろう。

「あの家は禁を破った、信用ならない金満家だ」

 最高だ。

 地元の人間から信頼を失った土地持ちなど、白眼視されて事あるごとに軋轢を生むだけの厄介者に成り下がる。表立って非難されずとも、空気はまるで変わるだろう。


 よしんば何事も無かったとして、僕が独り山の中に入っても母親の小言が増えるだけだ。誰も気にしてなどいない。皆、不機嫌な激発家がまた何やら噴火しているだけだと思っておしまいである。


 行かない理由は無い。寒さなどこの際どうでもいい。

 僕は喜び勇んで雪駄を探しに戻った。



 3



 僕を失声と呼んだそれは、やはり人ではない。

 冬の雪山で上半身裸、動物の毛皮で作った粗末な腰蓑一つだけを身につけて、こちらを睨めつけている。そんな姿でいたら、普通の人ならあっという間に凍死する。

 化け物の類い、というわけだ。


 それを承知でちょいちょいと手招き。それは訝しみながらも近づいてくる。

 阿呆なのか。僕が銃を持っていたらどうするつもりだ。


 地面に枯れ枝で文字を書く。

『よめるか』

「テメェ、俺をなんだと思ってやがる。こちとら百年とちょっとばかし前は、里のやつらに読み書き算盤教えて回ってたんだぞ」

 思いの外、学のある化け物だったようだ。


「で、なんでまた里のやつらの禁を破った。殺しちまうぞ」

 まっすぐ立てば僕の頭がすっぽりとそれの顎下に入るであろう身長差でありながら、そいつは下から覗き込むように威嚇する。

『それはおもしろい』

「面白くもなんともねぇ。用が無ぇなら帰ンな、坊主。風邪引くぞ」

『そのかっこうでいうせりふか』

 ご丁寧に、僕が枝で文字を書く間はじっと待つ化け物。長い歯と相まって、まるで巨大な犬のようにも見える。理性的で、話を聞く気があって、しかし孤独を選んだ。こいつはそういう化け物なのだろう。


『もののけが本当にいるとはおもわなんだ』

「近頃じゃあ文明開化だのなんだのうるせぇもんなぁ」

 それは結構昔の話だ。

 もしかしてこいつ、時間の感覚が怪しいのか?

 少し考えて、それもそうかと一人納得する。何せ山の中だ。暦が正確に解るわけでもない。人の行き来は絶えて久しい。自ずから孤高を選んだ存在に、正確な歴を刻めというのも酷であろう。


「夜山は俺の領域だ。人の子は入るな。二度は言わん。次は殺す。熊だの猪だの、獣に出会ったと思って諦めろ。良いな」

 言われてみれば確かに、そういう獣の類いをとんと見ずに深山まで入り込んだ気がする。つまり、眼の前のこれは本当に山の化け物なのだ。


 こいつは、独りで、百年以上もここにいる。

 そんなことが、喉に引っ掛かった小骨のように僕を苛む。話し相手のいない時間は面白くない。僕に話し相手のいた経験は無いが、こいつは違う。昔は居たのだ。それを失った。

 だから。


『おまえ、はなしあいてがほしくないか』


 僕の書く文字を待つ。必ず答えで応じる。こいつが欲しいものをくれてやる。


 それは、僕が欲しいものと同じだからだ。


「俺は、俺にはそんなもんはいらん」

『ばけものだからか』

「神だからだ。山を座と呼ぶのは知っているだろう、坊主」

『おそれられるだけのものはかみか』

「喋れねぇのにうるせぇやつだなテメェ」

『おまえ、名は』

「無ぇよ。生まれた時からここで人と山との狭間を渡している。そんなもんに名前は要らねぇ。あっちゃいけねぇ。敢えていうなら、人がこの山を呼ぶ時、俺もまた同じ名前で呼ばれている。そういうもんだ」

 饒舌な化け物だ。よほど言葉に飢えていたと思われる。

『そうじろう』

「なんだそりゃ」

 疑問を吐いた牙の視線を指で誘導し、僕は自分の頬を指した。

 そして今度は、化け物を指差す。そのまま指を下へと向けて、

『おまえは ヤマ だ』

 しばらく無言で考え込んだ獣は、ゆるりと顔を上げて、これまたゆっくりと、吐き出すように言葉を紡ぐ。

「人の子。禁を侵すな。人と神の域を跨ぐな。俺はその一線を越えられん」

 緩やかな拒絶。先程までの脅しとは違う、窘めるような口調。


「朝までには、山を出ろ」

 そいつはそう呟くと、文字通り山野に分け入り、溶けるように消えていった。



 4



 親父が酒を飲みながら品のない笑い声を上げて喜ぶ。

 酒の席は母屋で開かれており、同席しているのは兄と母。そして鉄道会社の人間のようだ。

 鉄道。

「えぇ、もちろんですとも! 山なんぞ開いて、さっさと鉄道を通しましょう!」

「いやぁ、地主さんが変わって本当に良かった。前の方は少々、その、ねぇ」

 離れにまで含み笑いが聞こえるようで、少し嫌な気持ちがもたげる。

「神様の御わす山だのなんだの、迷信じみたことばかり言う方でしたから。まぁ頭の固いこと。随分難儀しておりましたところに、笠丸さんがいらしてくださって。我々も大変助かっております」

「神! はっ、この十九世紀に! 神様! はっは、冗談でしょう」

 冗談ではない。見てきた。そう口を挟みに行こうとも思わない。

「いえいえ、なんでもこの村ではそういう神様が祀られていたとかなんとか。天子様は東京にいらっしゃるのに、神様なんて、ねぇ」

「時代錯誤も良い所ですな! まぁ任せてください。ウチが取り仕切ることになったからには、そんな古い因習ぜぇんぶ平らげて、人のための道を切り開くお手伝いをさせていただきますよ!」

 大船に乗ったつもりでいてください、と呂律の回っていないだみ声が響く。


 結局、あの時のことは誰にも伝えていない。里の者から大反対が来るかもしれないが、その時は親父が金で丸め込むだろう。

 それに誰が信じるというのか。山の奥に、身の丈およそ七尺、手足に熊を凌駕する爪を揃え、獣の如き牙を持つ得体の知れない化け物が住まうなど。

 人との交流があったのは百年以上前。恐らく村人の中に直接話したことのある人物はいない。読み書きを教えていたのも徳川の御代にまで遡る。

 既に、神は迷信に成り下がっている。


 ごろりと転がり、薄暗がりの天井に目を向ける。染みがなにかの模様に見えるようで何にも見えない。人間など点が三つあれば顔だと思うのだから、無意味なものに意味を見出す習性があるのだろう。もしかしたら、あの時己を神と称した獣も同じようなものかもしれない。僕がなにかの唸り声や、小枝のしなる音、葉の擦れる音を人の声として受け取ったのかもしれない。

 そこまで考えて、母屋の下卑た笑い声が耳に入る。


 否、だろう。


 あれは確かに人の声、人の言葉で、僕に語りかけてきた。こうして五体満足で夜山から降りて来たのがその証左と考えられなくもない。

 まだ、迷いがある。

 もう一度会って、存在を確認したい。

 しかし。僕の中であれの言葉が谺する。曰く、禁を侵すな。


 禁、とは何か。無論、夜の山に分け入ることだ。

 だが鉄道は? 人の道を、轍よりもはっきりとした鉄棒で山に刻み込む列車は、禁ではないのか? 神の居場所にずかずかと人の道理を持ち込むのは、禁を侵すことになるのではないか。

 鉄道を敷く際に道を拓けるかどうか確かめるために人の手が入るだろう。無論それも禁に成りうる。今はまだいい。だが、鉄道が夜を裂いて走るようになるのは目に見えている。人が増えれば使うものが増え、夜だろうと闇だろうと無関係に躯体が疾駆するようになるはずだ。

 それは、禁ではないだろうか。


 そこまで思考が疾走して、ふと我に返る。

 だから、どうしろというのだ、僕は。

 何もできない。文字通り声を上げることすら許されない。ただの穀潰しだ。 


 死ぬまでここでぼんやりと暮らす、ただの邪魔者だ。

 いずれ死ぬ。

 そう、死ぬのだ。いずれ何者も必ず死ぬ。恐らくあれも死ぬ。山が人の手に渡れば神は死ぬ。既に迷信となっているのだ。闇が無くなればあらゆる意味で死ぬだろう。


 人の時代になって、神は居場所を失い、死ぬ。


 居場所がないのは自分も同じだ。

 死とは居場所の喪失に近いのではないか。

 アレは僕とは違う。死んで良い理由がない。闇夜の中で密かに、しかし確実に生存している。


 アレは僕とは違うのだ。だったら、生きるべき道を、残り少ない信仰として捧げるのが神と交わる人の道理ではないか。


 宴は続いている。

 僕を顧みる者は誰もいない。

 雪は無く、しかし夜風は小嵐が逆巻いている。障子戸を開ければ月が燦々と光り、暗闇の中に虚の如く浮いている。夜が人の手に渡れば、あの星月夜も見えなくなるのかもしれない。

 それは、嫌だ。闇は温かい。暗がりは優しい。誰の目にも触れず、孤独を抱える者に唯一居場所を与えてくれる。


 なら、僕がすべきことは一つだ。



 5



 じゃり、と砂粒を踏みしめる。川辺りを辿って山に分け入る。

 周囲は闇。梢の囁き。獣の遠吠え。月は草葉に隠れ、せせらぎがきらきらと閃く。

 時分は夜半過ぎ。月は真上に昇り、冬と春の狭間にある空気で吐息が白く染まる。

 目印は川だけ。水流の途切れる位置で足を止める。今回は、前回のように捨て鉢の好奇心で来たわけではない。きちんと帰らねばならない。仮に僕が行方不明にでもなれば、体面のために山を捜索するだろう。もちろん人も手間も最低限にはなろうが、それでもあれの怒りに触れるだろう。


 僕はその辺りにあった木の棒を手に取り、手近な幹をがんがんと叩く。ゆさゆさ葉が揺れ、声なき鳥がばさりと飛ぶ。

 不意に虫の音がしん、と止む。獣の声が遠のき、葉擦れが黙りこくる。


 来た。


「坊主。次は殺す、と言ったろう」

 あいつだ。


『おまえはころさない』

 それは嫌そうな顔貌で僕を見下ろす。気持ちの悪い虫を見た顔ではない。図星を突かれた男の顔だ。

 怪訝を隠さぬその化け物は沈黙を貫く。神と嘯く割には小心者なのだろう。もしくは、臆病ゆえに神なのかもしれない。


『てつどうがここにはしる』

「てつどう?」

 表情の種類が変わる。判り易い男だ。興味を持ったそいつは、自身の放った言葉を忘れたのか、小さく首を傾げて髪を揺らし、僕に続きを促す。


『てつでできた山車が山中をいききするようになる そのために人のてが入る』

 そう告げると、それは鼻で笑う。こいつ、僕の言葉が信じられないのか。

「人は闇を恐れる。そんなことはしない」

『今の人はやみをさく』

「ならおれは人を裂く。それで終いだ」

『やめろ』

 そうすれば、お前の居場所は本当に失われるぞ。瞳で訴えるが、

「人の子。好い加減にしろ。ここは神の座だ。冗談はよせ。禁を侵した数人を血祭りにあげれば、人は再び闇を恐れる。ここは古の昔より不可侵だ。人の領分ではない」

 やめろ、の文字を再び指す。

『ころせばころされる』

「神が?」

『おまえは今 迷信だ』

 神ではない。信仰も薄い。もはや、この山は座と呼べるほどの神域とは言えない。

「人の子、」

 開きかけたその口を、棒きれで制する。そしてそのまま枝を地面に突き刺し、

『なぜぼくはいきている』


 そうだ。それは僕を殺していない。禁を侵した者を殺すと嘯くが、その手に生えた強大な爪牙は血にまみれていない。

 禁を侵した者を殺すのならば、僕は既に殺されているはずだ。

 ゆえに。

『おまえは人をころさない』

 精々が脅して追い返すくらいのものだろう。


 化け物は先程と同じ顔つきに戻る。

 必死に隠していた本質を見破られ、どうしたものかと悩む男の貌だ。


「脅して帰るものではないのか」

『今の人は昔より多い かねもからむ それにおまえは』

「神ではない?」

 少なくとも、今の人にとっては。

「成る程。言いてぇ事は判った。てつどうが何なのかはよく判らんが、真に人が禁を侵そうというのなら、こちらも相応の手がある。家畜を殺す。遠吠えで脅す。手練と手管は年寄りのほうが多い。お前が案ずる事じゃあ無ぇよ」

 だめだ、こいつは何も解っていない。

『てっぽうでころされるぞ』

「俺が? あのバカでかい音を鳴らすあの筒に? 馬鹿らしい。あんなもの、三間も離れれば見て避けられる」

『今は昔とちがう たくさん人がいる 弓矢やてっぽうもたくさんある』

「わからんか、人の子。俺は強い。闇夜に自ずから入る馬鹿は少ない」

 それは諭すように僕の頭を撫で、

「次は殺す。良いな。もう来るなよ」

 そう言って、それは再び闇に溶けた。


 僕は憮然とした感情の色を隠すこと無く、地面に枝を叩きつけた。



6



 桜の蕾が固まる頃には、鉄道の測量士が山に入るようになった。時を同じくして、彼らの宿舎が建てられ、我が家はそれでも一儲けしていた。

 人の手が入るようになって、まず起きた変化は山ではなかった。里の人々との関係が変わっていった。つまり、

「この罰当たりめ!」

「祟られるぞ、このよそ者!」

 という具合だ。

 里村の老人たちが毎日うわ言のように繰り返す言葉に、僕の父親は平然と

「祟る? 何にです? まさか神様とでも言うつもりですか? 馬鹿らしい」

 そう返す。

 こんな日々がひと月ほど繰り返された。

 当然祟りなぞなく、測量士たちは何事もなく作業を進めていた。父親の満足げな顔が今でも脳裏をちらついて鬱陶しい。



 足元に死んだ桜が散って、雨の匂いが南からやってくる季節になった。

 その日は予感こそあったが、実際にそれを見るまでは信じられない。そんな日だ。


 ぶらりと木から垂れ下がったそれは、両の足の骨がばらばらに折られているようで飴細工のように曲がり、枝に結ばれていた。強張りから解放された舌がでろりと重力に負けて、眼窩は片方が虚に、もう片方は中身が地面に落ちていて潰れた葡萄の実を想起させる。

 人だ。人だったもの。

 眼球の下には思いの外美しい文字で一言『入るな』とある。

 あの化け物の仕業だろう。


 僕は物見遊山の気持ちで死体見物に行ったが、はっきりと知性の見て取れる文字が地面に書いてあるとは思わず、そちらに狼狽えた。

「草二郎」

 兄がぽつりと漏らす。

「猟師をありったけ集める。親父はここじゃ人望が無い。別の場所でだ」

 僕に言っているていで自分に言い聞かせているのだろうか。否。兄はそういう人間ではない。

「お前が陣頭に立て」

 そうでなくては。卑劣を絵に描いた男なのだから。



 7



 集めたるは銃二十、猟師三十、犬は十八に鷹が四。錚々たる山の男どもを率いるは齢弱冠に満たぬ、失声の優男。馬鹿らしい絵面だ。僕の出番などありはしない。

 猟師連中も『猟師』と名はついているが、脛に傷持つ者も少なくない。つまり、今ここにいるのはそういう奴等なのだ。

「坊っちゃん。本当について来るんで?」

 年嵩のせいか自然と首領格になった男がこちらを見下ろしながら問う。僕は無言で頷く。相手も心得たもので、失声であることは承知済みだ。

「相手はなんでも、知恵のある熊だとか。そんなやついるんですかねぇ」

 熊よりも性質が悪いと思うが、そこを説明するのも面倒なので片眉を上げて応じるに留めた。


 被害は順調に増えていた。最初の被害者が出てから、三日に一度必ず人が死ぬ。

 最初は測量士だけだった。しかしその被害は次第に増えていった。理由は察せる。誰も暴挙を止めぬからだ。ただ夜に出歩いているだけで死が迫る。そんな場所に人が住めるわけがない。測量士だけでなく里の者たちは一人、また一人とここを離れた。

 今となっては、成金男の一家と、どこの馬の骨とも知れない連中が村の住人の大半を占めている。


 皐月を過ぎて芒種も近くなった今、僕は三度、山の眼の前にいる。


『死人が十を越える前にそれを殺せ』

 僕は予め用意しておいた紙を掲げ、皆に見せる。父親のお達しだ。つまらん仕事である。当の本人は祟りを怖がって外に出ず、商売を兄に任せきりにしていた。その兄も僕をこう扱っている。

「へい」

 皆が皆、口々に応じるが、内心では僕を軽んじている。まるで隠す気がないやつも中にはいる。それはそうだ。音頭を取れと言われても、山歩きなぞしたことも無いのだから。

 ただ二度ほど、ふらりと山に分け入っただけである。そして、誰もその事は知らずにいる。


 悲鳴が上がったのは昼過ぎだ。丁度川の切れ目でめいめいに休息を取っているときのことで、誰しもが油断していた。

 何より今は昼間だ。あれが人を明るいうちに襲ったのはこれが初めてだ。


 皆が一斉に銃を構えれど、犬は耳を畳んでか細く鳴くだけ。鷹に至ってはどこかへ飛んで逃げる始末。円陣を作り全方位を警戒するが、獣の音も梢の唄も止み、不気味な空白が佇むばかり。

 やにわ、真昼を少し過ぎた頃だというのに、辺りが暗くなる。太陽が枝葉に覆われとろりとした闇が山を包み込む。


 来た。


 再び悲鳴。人ではなく、犬の、である。可哀想だとは思うが、仕方あるまい。一瞬藪の中に首を突っ込んだ犬が鳴き、胴体だけがどさりと倒れる。

 次に上がる悲鳴は、

「ひっ」

 人のそれだ。


 恐怖で混乱した誰かが発砲するが、勿論空疎な弾丸に当て所などない。

「馬鹿野郎、無駄弾撃つんじゃねぇ!」

 怒鳴る首領格の男。

「でもよぉ!」

「でもじゃねぇんだよ! いくら貰ってんのか忘れたか!」

 下らないやり取り。

「お天道様が隠れるなんておかしいじゃねぇか!」

「ぐだぐだ言ってねぇで構え」

 ろ、の字が言えなかったのだろう。首領格の男の首が、三文芝居の小道具のように飛ぶ。思わず笑いが溢れる。

 どさりと斃れた胴体からどくどくと赤い血が流れ出す。声なき笑いが一つ。三十に一つ足りない恐怖が漂う。


「ひとぉつ」

 化生の後ろ姿が見える。円陣より少し離れたところで蹲って、気怠げに僕らを見ている。その手には男の生首が一つ。

「ふたつめは、どいつだ?」

 その声を合図に、男たちは一斉に発砲する。伊達や酔狂でこの場にいるのは僕一人だけだ。

 化け物はひらりと枝に飛び乗り、弾丸の雨を避けて再び円陣の中を疾走、したのだと思う。目に追えないそれは、

「ふたぁつ」

 と数え、首を放って寄越したところで止まった。


 こうなると男たちは三々五々に逃げ回るしかない。皆口々に喚きながら、または命乞いをしながら散っていく。

 三つ、四つと数え歌が七つで止まり、その場でぼうっと突っ立っていた僕の前に神がやってきた。


「よう、坊主。三度目は殺す。そう言ったな」

 ぞろりと長く黒い髪から同じ色の瞳が覗く。

『そうだな』

「殺してみせたろう」

 牙を剥いて威嚇するが、それなら何故会話を試みているのだろうか。

『かみをしずめるほうほうは一つ』

 あん? と眉を顰めて首を傾げる化け物が一つ。

『古来 ニエは人よりたらぬものがなるもの』

 そう書いて、僕は自分の喉をとんとん、と指す。

 ちょうど居場所が無くて困っていたんだ。


 そいつは数瞬迷ってから、

「ここはもう血で汚れた。神の座には相応しくない」

 そう言って、そいつは山に消えた。否、山から消えた。



 8



 爾来、あれとは二度と会っていない。

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