第3話



 関西から関東へと越してきた国男少年。

 そんな彼を待っていたのは極度のカルチャーショックだった。


 「○○はん」と敬称ありで名前を呼び合うのが当たり前だった上品な兵庫に比べ、茨城では誰もが呼び捨てだったからだ。(ごじゃっぺ ばかりでスイマセン)丁稚奉公が家のご子息を呼ぶ時すらも敬称がなかったそうだから、土地の風習だったのだろう。後年の柳田国男が方言や土地ごとの特色に関心を寄せるのもこういった体験が基になっているのかもしれない。


 そして利根川近辺は昔から飢饉ききんの激しさで有名な土地でもあった。

 (川の氾濫はんらんや火山灰、重税によるもの)


 国男少年はある時、地蔵堂で一枚の絵馬を見たという。

 母親が産んだばかりの赤ん坊を床に置き、抑えつけている場面。

 それは「口減らし」が行われている瞬間を描いたショッキングな絵馬だった。



「両親との別離、故郷から遠く離れた土地、飢饉と口減らし。それまで普遍のものだと信じていた親子や家族の絆が少しずつ揺らぎ始めたとしても不思議じゃないわね。国男少年は当時まだ十三歳の少年だった。想像するとゾクゾクしてこない?」

「でも飢饉なんて。大昔の話でしょう?」

「それがそうでもなくてね。国男少年も実際に飢饉を体験したそうよ。庄屋の家で炊き出しをして、作ったおかゆを地元民に配っていたんですって」

「ええ? それはいつの話です?」

「明治十八年、西暦だと一八八五年」

「たった百三十年前の日本でそんなことが?」

「日本の急激な近代化を物語っているでしょう? 兎に角、国男少年にとっても飢饉はまるで他人事ではなかったの」

「一歩間違えば、口減らしの危機が我が家にも……? それはストレスだなぁ」

「胃に穴が開きそうね」

「えーと、ちょっと待って下さい。まさか、神秘体験というのはそうした激しいストレスからくる幻覚だったわけじゃないですよね?」

「あらあら、種明かしにはまだ早いわよ?」

「なんだか、ガッカリくるなぁ」



 せっかく二日酔いの重い体をひきずって県境まで来たというのに。

 忘年会であおった お酒が胃の奥で出口を求め渦巻いていた。

 露骨に落胆する僕を気遣うように、先輩は猫なで声でこう続けた。



「でも、せっかく来たんだから現場を見てみましょうよ、ねっ?」






 くだんの庭園は小高い丘と隣接しており、かなりの傾斜が敷地の内側にまで入り込んでいた。そんな斜面を降りきった所へ、二本の木と南向きの小さなホコラが慎ましく建っていた。


 このほこらは、当時の常識だと珍しいほどに長命であった「ある老女」の御霊を祭ったものだった。その老女はいつも後生大事に蝋石ろうせきの丸い玉を抱え磨いており、その宝珠こそがこのホコラに収められた御神体であった。屋敷の氏神としてご先祖様を祭るのは、地方だとよくある風習らしかった。


 ある日、ちょっとした好奇心に駆られた国男少年は、ほこらの扉を開いて中身を拝見する事にした。てっきり鏡かお札でも入っているのだろうと思っていたら、中から出てきたのは台座に収められた白い玉。大理石のごとき乳白の輝きを放つその玉に、国男少年はたちまち魅入られてしまい、ひどく心をかき乱した。


 何かイケナイ事をしてしまったような心地がして、その日は扉を閉め、誰にも見たことを話さず仕舞いだった。少年の身に異変が起きたのは数週間が過ぎてからのことであった。


 その日、ホコラの近くで少年が土いじりをしていると、埋まっていた古銭を偶然にも掘り当てた。寛永通宝と彫られた古い穴あき銭で、当時としてはそこまで珍品ではなかったのだが、見つけたのがホコラの傍ということもあって、国男少年は「ただただ、ぼう然とした気持ち」になるのだった。運命を司る逆らい難い引力が、自分を非日常的な超自然の世界へと導いているように感じられた。


 幻覚が見えたのはその直後だった。

 しゃがみ込んでいた少年がふと空を見上げると、日輪からそう離れていない所に数十もの星が目視できたのだ。澄み切った青い空、輝く真昼の太陽、遠くで鳴くヒヨドリ。全てが日常に属する有り触れた光景であった。ただ、昼間に星が見えているというその事実だけが酷く奇妙であった。


 無数の星は昼間に見えるものではない。

 在り得ないものが見えるだなんて、もしや気が触れたのではあるまいか?


 何かに持っていかれそうな正気をしかと己の肉体に留めるため、国男少年はヒヨドリの鳴き声へと意識を集中させた。

 そうしなければ頭がおかしくなってしまいそうだった。


 目を閉じて、鳥の鳴き声を聞くことしばし……。

 深呼吸をしてから目蓋を開けば、はたして星は消えていた。


 後日、そのことを家族に話せば、彼等は天文学の本を持ち出して「では、お前が見たのはどの星座だ? 教えてくれ」などと問い質してきた。国男少年が上手く答えられずにいると「答えられないのはそんな物を本当は見ていないからだ。ただの幻覚なのだから忘れてしまえ」なんて直情的に彼等は結論付けるのだった。


 勿論、そこには身内から精神異常者を出すまいとする優しさがあったのだけれど。

 生憎と国男少年はそこで見た星空を生涯忘れなかった。この世には人知を超えた神秘が「地面に埋まった古銭」や「ホコラに隠された宝珠」のように「どこかしら」には存在するのではないかしらん……ならば自分は必ずそれを見つけ出してやろう。それによって自分の正気と超自然の存在を証明してやろう。そんな強い探求心をしかと胸中に宿すのだった。

 実物の神がいるならば、迷いを抱いた人心とて救われるかもしれぬ。そう思った。

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