44.それぞれの想い

 ほとんど眠れないままタケルは朝を迎えた。

 昨晩のこのみのキス。それを優花に見られてから一言も話ができていない。どれだけ電話をかけようがメッセージを送ろうが返答がない。


(優花……)


 言い訳はしたくない。

 このみにされたキスは事実。それについて言い訳はするつもりはない。ただ謝りたい。そして話がしたい。それだけである。



(それにしてもそんな都合のいい話なんてあるのかな……)


 このみの話だと彼女が優花に『俺が嫌いになるまじない』を掛け、それが発動したのが黒目の優花と言うことになる。

 ただそれはこのみの話を鵜呑みにした場合であって、黒目の優花が素であり元々俺に興味などない彼女だとすればこのみの話は嘘になる。



(じゃあ、水色の優花は……?)


 あの文化祭のミスコンで優花、そしてタケルが受けた心地良い心臓を貫くような衝撃。あれは紛れもない事実で否定できない。あんな大勢の中で一番後ろにいたタケルを見つけたこと自体、何か特別な力が働かなければ起こり得ないことだろう。



「分からない。やっぱり優花と話がしたい……」


 そう言ってタケルがベッドに横になったまま未だ何の返事がないスマホを手にすると、急にセットしておいたアラームが鳴った。



「わっ、もう7時!? 急がなきゃ!!」


 今日は開盛大学で公開練習が行われる日。

 怪我をした兄慎太郎の代わりに一条家の代表として父重蔵と共に参加しなければならない。



(優花は、来てくれるのかな……)


 優花の姉、茜が見に来る予定の公開練習。しっかりと優花を守れる男だと言うことを証明しなければならない大切な場。今は全く連絡が取れないが、茜と一緒に優花が来てくれれば嬉しい。

 タケルは朝食を食べ終え出発の準備を終えてから、父重蔵の運転する車に乗り込んだ。






 その頃、開成大学で朝の練習を行っていた柔道部に緊張が走った。


「お、お疲れっす、剛力先輩っ!!!!」


 山籠もりの修行に出ていた主将の剛力が満身創痍で帰って来た。驚く部員たちが剛力の元に集まり尋ねる。



「ご、剛力さん、おかえりっす!!」

「ど、どうしたんすっか!? その怪我は……!?」


 剛力はこの冬の寒さの中、道着ひとつで帰って来ており、更に全身に引っかき傷のような生々しい傷が幾つも見られる。静かだが鬼のような気迫を放つ剛力が答える。



「山でな、厳しい修行だった……」


 おおっ、という声が部員の間から起こる。副主将が尋ねる。


「剛力さん、ど、どちらの山で修業を?」


 剛力が目を閉じて答える。



くま山地の……」


「おおおーーーーーっ!!!!!」


 熊之山地と言えば狂暴な野生の熊が多く生息する危険地帯。そんなところでひとり何日も山籠もりをすること自体凡人ではできないこと。興奮した部員が言う。



「熊之山地で修業とは!? で、では、その全身の傷はまさか熊との死闘の末負った怪我とか!!??」



「へ?」


 思わぬ言葉に閉じていた目を開ける剛力。『熊之山地の方面の山』と言おうとして勘違いされてしまったことに気付く。



「すげぇ、すげぇよ、さすが開盛大の主将だっ!!」


「お、おい……」


 すでに熊と戦ったことにされた剛力。今更全身の傷が山で転んで負った傷とは言えない。剛力が頷いて答える。



「ま、まあな。俺にかかれば熊の一頭や二頭など……」


「おおーーーっ!!」


 皆が帰って来た主将を褒め称える。

 頭の中まで脳筋な柔道部員たち。雪も降るであろう寒い熊之山地で、この時期に熊など皆冬眠していないことなど無論誰も気づかない。剛力がバックの中から新しい道着を取り出し着替える。



「今日の公開練習はあの誉れ高い一条家が相手だ!! だが負けぬ!! 俺たちの底力を見せてやるぞっ!!!」


「おおおーーーーーーーーっ!!!!」


 剛力の言葉に気合を入れて答える部員たち。剛力は腕組みをしながら思う。



(うむ、今日俺は佐倉の前で最高の強い男を見せてやる。そして彼女はもう俺のものだ!!)


 気合を入れる剛力だが、まさか今日の公開練習であの『一条タケル』がやって来ることなど夢にも思っていなかった。






 一方、桐島家ではちょっとした異変と緊張感が張り詰めていた。


(タケル君……)


 タケル同様にほとんど眠れず朝を迎えた優花。頭にはずっとこのみとタケルがキスをする映像が流れ続けている。モテるタケルだが自分だけを好きでいてくれている、そう思っていた優花にはその有り得ない事実が未だに脳で処理できない。



(もしかして、私、嫌われちゃってたのかな……)


 思い当たるふしはある。『もうひとりの自分』である。



(タケル君に冷たい態度をとる彼女。あれが原因? あんなことされたらやっぱり怒るよね……、でも……)


 それでもこのみとのキスは衝撃的だった。自分を納得させる材料にはなり得ない。絶対に自分だけを見てくれていると思っていた優花の心は傷つき崩れ始めている。

 ベッド脇に置いたスマホを手にして見つめる。昨夜から電源を切っておりまるで自分の心のように息をしていないスマホ。



(電源を入れたらタケル君の連絡で溢れるのかな。そうだと嬉しい。でももし、そうでなかったら……)


 タケルとこのみが仲良く手を繋いで歩く姿を想像する優花。昨晩流し切ったはずの涙が再び目に溢れる。



(嫌だよぉ、そんなの……、嫌、本当に嫌……)


 スマホに電源を入れられない。タケルの心がこのみの方へと向かっていたらと思うと恐怖で動けなくなる。



 コンコン……


 優花がそんな風に思っていると部屋のドアがノックされた。そして掛けられる声。



「優花、まだ寝てるのー?」


「姉さん!?」


 優花は涙を拭くと慌ててベッドから起き上がる。そしてカーテンを開け鏡の前で髪を整えて、頬をパンパンと軽く叩いてからドアを開けた。



「おはよう、姉さん」


「まだ寝てたの??」


「うん、もう起きたよ……」


 少し薄暗い部屋。泣いていた痕は分からないはず。茜が言う。



「今日さ、タケル君の柔道の練習でしょ? 優花は一緒に行けるの?」


「……」


 開盛大学での公開練習。もちろん姉と一緒に見に行くつもりであった。だが……



「うん……、どうしようかな……」


 意外な返答に茜が首を傾げて言う。



「なんで? 見たいんじゃないの?」


 見たい。

 タケルが最も輝くのが柔道の姿。普段のちょっと頼りない彼とは違い、強く圧倒的なオーラを放ち可憐に舞う。老若男女問わず誰もが惹きつけられる最高の姿。見たい、だけど……



(今、会うのは怖い……、もし、もし彼が『私の知らないタケル君』になっていたら、とても立ち直れない……)


 返事をしない妹を見て茜が言う。



「ああ、そうか。今日のお昼だったよね」


「え?」


 意味の分からない顔で茜を見つめる優花。茜が言う。



「今日のお昼、お父さんの面談相手の家に行くんでしょ?」



「あっ!」


 忘れていた。

 今日のお昼に結城家から昼食の誘いを受けていた。面談の相手はもちろんあの結城レイ。正直顔も見たくない相手である。



「お父さん、起きてからずっと準備してたよ。さすがにあれは断れないか」


 行きたくない。

 ただ、あの父を説得するのは絶対無理だし、行かないと言えば家庭崩壊が更に進む。それならば……、優花はずっと思っていた事を実行しようと思う。



(今日、相手のお父様にお会いして直接伝えよう、『お断りします』って……)


 これなら間違いなく結城レンとの関係に終止符は打てる。

 父親の激怒は避けられないが、どうせ怒られるなら確実にこの関係を終わらせる方法を取るべきだ。でも……



「じゃあ、タケル君の柔道は私が見て来るね。優花はまあ、適当に頑張ってね」


 茜はそう言うと軽く手を上げて部屋を出て行った。ひとりになった優花が窓際へ来て外を見て思う。



(でも、でも怖いよ……、怖いよ、タケル君……)


 面談のお断りに、愛するタケルの読めない心。

 窓ガラスに映った透き通った水色の優花の目から、再び涙がこぼれた。

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