第9話

西暦20××年12月××日


 俺は、教室の自分の席から、ぼんやりと雅の姿を眺めていた。

 今の俺の状況は「それしかできなくなった」と、言い換えても間違いじゃない。

 俺と雅との彼氏彼女の関係は解消されている。

 よって、単なるクラスメイトの関係でしかなくなった彼女とは、悲しいことに学校だと絡む理由がほぼないのだ。




 先月に起こった想定外過ぎる重大事件は、最終的に俺が札束でぶん殴ることで強引に解決している。

 いわゆる、札束ビンタってやつだ。

 雅のお父さんの知り合いと称する、先方のおっさんとその息子からの抵抗は、事前に予想された通りに発生した。

 しかしながら、彼らの行った抵抗は、弁護士さんに頼んで全てに先手を打った俺の行動結果を覆すには至らなかったようだ。

 雅のお父さんとその知り合いは「紆余曲折の末に絶縁状態になった」と、後日、本人から満面の笑顔で聞かされている。

 元々、関係を維持したい相手ではなかったようで、お父さん的には今回の件で完全に縁が切れてすっきりとしたようなのだ。


 まぁ、俺には直接関係がない事柄であるから、「ふーん」で終わる話でしかないのだけれども。

 ぶっちゃけ、綾瀬家を窮地に追い込んだ元凶である雅のお父さんに、俺個人としては「あまり良い印象を持っていない」ってのもあるんだけどね。


 綾瀬家の生活の立て直しは、順調のようで少し安心している。

 もちろん、実質的には俺に対して少し借金が残っている状態であるため、楽な暮らしではないだろう。

 それでも、雅からは「父親の再就職先が決まり、母親も近所のスーパーでレジ打ちのパートの仕事を始めている」と、報告を受けている。

 彼女も、「家計を助けるために、何かアルバイトができないか?」を考えているそうだ。

 もっと俺に頼ったり、甘えてくれても良いと思うんだけどね。

 そういうけじめがしっかりしているところが、雅の長所でもあるんだけど。

 

 綾瀬家の自宅の現在の所有者は俺になっているため、俺と雅の関係は大家と入居者ということになる。

 貸し借りだけで繋がる寂しく悲しい関係だが、それ以上にベストな方法が俺には考えつかなかったのだから仕方がない。

 唯一問題と言えるのは、「1%ノートへの書き込みで、俺の当てと言うか、目論見が外れてしまっていること」だけ。ただそれだけなのだ。


 クリスマスも近いのだが、未だに雅に渡せていない婚約指輪が俺の手元にはある。

 クリスマスイブか、クリスマスに俺がそれを雅に渡せる可能性。

 そんなものは全くないことが、1%ノートによって既に証明されている。

 泣きたいくらいに悲しいが、これが現実というものだ。

 俺は諦めが悪い男だが、「ない」と確定していることは諦められるのを知った。

 今日は一日の授業が終わるまで、そんなことをぐるぐると考えて過ごしていた。




 呆けた思考で、学校から自宅への帰路に就いていたせいもあるのだろうか?


 俺はふと気づくと、自分の家ではなく無意識に綾瀬家を目指してとぼとぼと歩いていた。

 到着前に気づけて、雅に知られて恥ずかしい思いをしなくて済んだのは僥倖であったのかもしれない。

 ついでに言うと、公園のベンチで泣いている女の子に気づいたのは、あとになって考えると運命だったのかもしれないけれど。


 ひとりで泣いている小さな女の子を無視して立ち去る神経の太さを、あるいは、放置できる精神性を、俺は持ち合わせていない。

 だから、小学校低学年くらいと思われる少女に近づいて声を掛けた。

 少女と言うより幼女なのかもしれないが、そんなことはこの際どうでも良いのだ。


「どうしたの? 何で泣いてるの? どこか痛いのか? 誰かにいじめられたか?」


「どこもいたくない。いじめられてなんか、ない」


 俯いていた顔を上げて答えた女児を見て、その子が雅の妹であることに気づいた。

 彼女は、俺が綾瀬家にお邪魔した時に、一応面識のある綾瀬麗華だったのだ。


「麗華ちゃんだったよね? 俺のこと覚えてる? 雅お姉さんのクラスメイトで綾籐一郎。前にお宅にお邪魔したことがあるんだけど」


 俺の問いに麗華ちゃんはコクリと頷いた。

 どうやら、面識があることをちゃんと覚えていてくれたようである。

 これで、通報されても不審者で逮捕される心配はなくなったな!

 そんなことを考えながら、俺は彼女が泣いている理由を再度尋ねてみたんだ。

 とにかく事情を把握しないと、できることが少なすぎるから。


「れいかはね。ピアノきょうしつに、いけなくなったのがかなしいの」


 理由を聞かされて、納得した。

 今の綾瀬の家の財政事情は苦しく、切り詰めるべきところは切り詰めなければならない。

 麗華ちゃんの習い事は、その切り詰める部分の対象になってしまったのであろう。

 親や姉としては、それぐらいなんとかしてあげたかった気持ちはおそらくあったのだろうと思う。だが、断腸の思いで彼女をピアノ教室に通うのをやめさせたのは、間違いなく金銭の問題だ。

 月謝自体はおそらく五千円から六千円あたりだろうが、ピアノってのは、それ以外にもいろいろとお金が掛かる習い事でもある。第一、彼女の家にあったアップライトピアノは既に売られてしまって、現金化されている。

 綾瀬家の負債の整理に係わってしまった俺は、それを知っていた。


 だがしかし。

 そうとわかれば打つ手はあるんだけどね。


「そっか。ピアノか。ちょっと待ってな。俺の母さんに聞いてみるから」


 俺は自分の母親に電話を掛けた。

 実は俺の母さんの趣味のひとつが、ピアノ演奏だったりするからだ。

 腕前も結構なレベルらしく、家にはその関連の表彰状やらトロフィーやらがいくつも飾ってあったりする。

 もっとも、母さんに言わせれば、「入賞はできたけど、一度も一位や二位にはなれなかったのよ。だからプロの道へは進まなかったの」と、笑っていたのだけれど。


「あ、母さん? オレオレ」


「今時、オレオレ詐欺の真似は流行らないわよ? 一郎」


「うん。それはわかってる。ちょっと母さんにお願い事って言うか相談。実は今、雅の妹さんの麗華ちゃんと一緒にいるんだけどさ。家庭の事情でピアノ教室を辞めてしまって悲しんでるのを見ちゃってね。家で母さんがピアノを教えてあげることってできないかな?」


 母さんがオレオレ詐欺には引っ掛かりそうもないことに、俺は内心で胸を撫で下ろしながら本題を切り出した。


「良いよ? 学校が終わってから夕方の五時くらいまでの時間なら。常時付きっきりでは見てあげられないかもしれないけど、練習環境は提供できる。お金もいらない。ま、一郎は最初からそのつもりなんでしょう?」


「さすがお母さま。よくわかっていらっしゃる。では、そういうことでよろしくお願いします。期末試験の学年一位のご褒美はこれでチャラってことで!」


 母さんの快諾を得られた俺は、通話を終える。

 あとは麗華ちゃんにそれを伝えて、彼女の両親から許可を得ればミッションコンプリートだ。


「よし。麗華ちゃん。俺の家で母さんがピアノを教えてくれる。お金もいらない。だから、もう泣くな。お家で麗華ちゃんのお父さんとお母さんに許可だけ貰おうな」


 そんな感じで事態は進み、麗華ちゃんの両親と雅は俺への借りが増えてしまうために一旦は難色を示したりしたのだが、最後は俺のエゴってことで押し通した。

 なんだかんだ言っても、結局のところ綾瀬家の人々は俺に頭が上がらないのだ。

 なにせ、俺は踏み倒されるのが前提で、五億円を貸し付けて助けた相手であるのだからそれも当然なのだけれど。




「俺の嫁取り計画は、半歩前進じゃ~」


 麗華ちゃんの帰り道の護衛として、綾瀬家まで送って行くという大義名分を得ることに成功し、今日も今日とて俺は聖域で叫ぶ。

 偶然の出会いが原因だとは言え、小学校二年生の雅の妹が俺の家に頻繁にやって来ることになった以上、その状況に仕向けた俺に下心がないはずはないのだ。

 なんせ妹ちゃんを綾瀬家に送り届ければ、雅との接点が自然に増えるのだから。

 もちろん、その下心の対象は妹ちゃんじゃない!

 俺の名誉のためにそこは断言しておく。

 俺が帰宅してから、麗華ちゃん関連の報告に頷いた母さんは、階下で夕食の準備をしながら、「今日はそうなるわね」と、いつものように聞こえていない振りをしてくれるはずである。

 もう、大好き!


 寒冷かんれいの候。

 とある一日。

 雅と学校以外での接点を持てる可能性を手中に収めた俺は、どん底からの僅かな浮上でしかないにも拘らず、歓喜に震えていた。

 クリスマスまでの残り少ない貴重な時間。

 更なる関係修復を行い、なんとか婚約指輪に出番を与えたいところだ。

 可能性が昨日までは皆無だったとしても、情勢は変化した。

 だから、”零だったものが、僅かでも可能性がある”に変化することだってあるかもしれないじゃないか。

 俺は1%ノートを前に、「何を書き込むべきか?」でウンウンと頭を悩ませながら、知恵を絞るのだった。

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