第36話

 そこかしこから花の甘い匂いがする。噴水から涼やかな水の音がする。真っ白な石で舗装された通路が、日差しを浴びて輝いている。広く、美しいザイファルト家の庭園。中央にはシンボルツリーが植えられており、王宮を表しているらしい。本邸の三階から眺めなければ気づくことはできないが、綺麗な正円を描くこの庭園は、クッスレア本国を模しているのだそうだ。


 この国の全てを君に。アンドレアスは、魔女としてほとんどの時間をこの屋敷で過ごすカレンのためにこの庭園を作らせたのだという。


「男って、本当に馬鹿よね」


 三階の窓からカレンの声が聞こえてきた。風が運んできたのかとも思ったが、魔女魔術でわざと声を届けたのだろう。それは呆れた物言いではなく、どちらかといえば、しみじみとしたものだった。


「お母様! 今すぐやめさせて! こんなの間違ってるわ!」

「リコ、黙って見ていなさい。男のやることにいちいち口を出すと好かれないわよ」

「でも、おかしいわ。決闘だなんて言って、こんなの殺し合いじゃない!」

「だから言ってるでしょ。男って、本当に馬鹿よね」

「馬鹿よ! 大馬鹿よ! お兄様もライナ様も、黙って見てるお母様も!」


 ヒステリックに叫ぶリコを一瞥もせず、カレンは俺に向かって声を届けてきた。


「ライナ騎士団長。この子の無礼を許してちょうだいね」

「リコ! 安心しろ! 俺はプエルを殺す気なんてない!」


三階の窓に向かって叫び返すと、リコは胸の前で祈るように両手を組み、押し黙った。


 リコから視線を外し、正面を見据える。色とりどりの花々を背景にして、人型の黒いシルエットが立っている。


「さて、始めるかプエル」


 緊張を誤魔化すため、できるだけ軽い調子で言ってみた。返事はなかったが、プエルは腰に差したきらびやかな剣に手をかけた。そして、獣のような雄叫びを上げて斬りかかってくる。きっともう、プエルに自我はない。暗い闇の中でもがき苦しんでいる。


 プエルの剣が俺の首元にぶつかる。大精霊の加護が働き、鋭い音が鳴った。いくらでも斬りかかってこい。お前は俺を殺す気だろうが、大精霊の加護を受けている俺を殺すことなんてできない。


 プエルの口元で黒いもやが揺れる。悔しさを示すような歯ぎしりが聞こえ、やたらめったらと剣をうちつけてくる。


 それらを全て無視し、俺は黒に覆われたプエルの顔面を、思いっきりぶん殴った。


 どうだ、ライナに一週間みっちりとしごかれた俺の拳は。本物の一万分の一くらいは響くだろ。


 プエルは後ろによろけ、体制を立て直しながら、再び剣を構える。


「いくらでもかかってこいよ。正気に戻るまで、何発でもぶん殴ってやる」


 本物の一万分の一だとしても、一万回殴れば同じだ、と思ったのだが、二発目はあっさり避けられた。それどころか俺がぶん殴られた。


 口元の黒いもやが再び揺れる。


「舐めているのか?」

「なんだよ、喋れんのか」


 喋れはしても、俺の声が届いているわけじゃないのか、プエルは俺の台詞を無視して叫ぶ。


「剣を抜けクニツ・ライナ!」


 叫び声とともに異様な殺気が響いてくる。剣を抜かなければ何をされるかわからない。こいつは言うことを聞かせるためならなんだってする。手段を選ばない悪党だと、思ってもないことが頭の中に無理矢理ねじ込まれる。


 これは黒魔術だ。俺は無意識のうちにプエルを悪徳貴族だと思わされているのだ。そう頭ではわかっていても、自分の思考を制御するのは生半可なことではなかった。


「お前は悪徳貴族なんかじゃねえだろ!」


 頭の中にねじ込まれる考えを否定するため、口に出しながらプエルに殴りかかる。絶対に剣を抜いてはいけない。これは殺し合いじゃない。そう言い聞かせていないと、勘違いしそうだった。俺の目の前にいるのは恐ろしい悪徳貴族で、俺はこいつを粛正するために戦っている、と。


「きたねえ手使いやがって! そんなに死にてえかこの野郎!」


 斬りかかるプエルに無理矢理組み付く。腹部めがけて膝蹴りがとんできたが、やはりなんともない。むしろ蹴った膝のほうにダメージがあるだろう。片足を上げたプエルの体を、思いっきり地面に倒す。頭をうって叫び声を漏らしたプエルだったが、馬乗りになった俺にすぐさま抵抗してきた。両腕を掴み、激しく暴れるプエルを押さえつけながら、叫ぶ。


「死んで楽になろうとするんじゃねえ! お前の苦しみ全部わかるなんて言えねえよ! でもな、わかるぶんは俺も背負ってやる! 一緒に苦しんでやる! だから戻ってこいプエル!」


 必死に叫ぶと、プエルの抵抗がぴたりとやんだ。


 届いたのか? 光になれたのか?


 希望を抱いた瞬間、しかし、プエルはあざ笑うかのような口調で言った。


「一緒に苦しむ? だったら、捨てろよ、その剣」


 プエルの両腕を掴んでいた俺の手が、無意識のうちに緩む。プエルはその隙を逃さず、右手を振りほどいて、顔面を掴んでくる。


「見下すなよ英雄。安全な場所から正論振りかざして、お前のどこが苦しんでるんだよ」


 俺の顔面を掴むプエルの右手から、直接、黒い感情が頭の中に入ってくる。それは一気に燃え上がり、気がつけば俺は、プエルを正気に戻すためではなく、悪人に鉄槌を下すような思いで拳を振り下ろしていた。正義を振りかざす快感が体中にほとばしる。どうだ、参ったか、そう思っている自分に気がつき、俺は猛烈な恐怖から、プエルの上から飛び退いていた。


「違う、そんなつもりじゃない」とっさに言い訳が口からとび出る。


 プエルが後頭部を押さえながら立ち上がる。地面に血がぽたぽたと垂れている。俺がやったのだ。俺が殴って、プエルの頭が地面にぶつかって、血が流れているのだ。


「なぜ否定する? 君は正しいことをしているんだろう? さっき自分で言っていたじゃないか。何発でもぶん殴ってやると」


 そうだ。こいつは殴らなきゃならない。いや、それだけじゃ足りない。殺さなければ。それほどの悪人なのだ。こいつは。


 違う。頭を振り乱し、叫ぶ。違う! 違う! 違う! 


「悪徳貴族なんかじゃねえ! 俺の友達だ!」


「へえ、君は友達と喧嘩をするとき、聖剣で身を守るのか。はっ、卑怯者としか思えないな」


 冷静になれ。これはただの挑発だ。エルフェンランドを持っている俺を殺せないから、こうやって挑発するしかないのだ。卑怯者は向こうのほうだ。


 いや違う。これは俺の本心じゃない。黒魔術のせいだ。正しいのはプエルだ。安全圏から見下ろして、なにが友達だ。プエルを本気で救いたいなら、光を見せるなら、対等な立場から決死の覚悟を示さなければ。


 待て。馬鹿か俺は。エルフェンランドを捨てたら殺されるだろうが。それじゃあプエルを助けられない。本末転倒だ。騙されるな。俺はエルフェンランドを腰に差したまま、説得を続けるしかないんだ。それが利口な考え方だ。


 頭の中で意見が割れる。どれが正しいのか、どれが黒魔術の影響によるものなのか、もう判断ができない。


 思考が嵐のようにぐちゃぐちゃだ。頭の中を暗雲が満たし、雨音と雷鳴がひっきりなしになっている。その暗雲からわずかな光が射すように、ライナならどうする? という問いが生まれる。


「考えるまでもないよな……」


 腰に差しているエルフェンランドを鞘ごと取り外し、地面に置く。


「そんな、ダメ! ライナ様!」


 リコの悲鳴のような声が降ってくる。


 そして正面からは、けたたましい笑い声を上げるプエルと、向けられた切っ先と、なにより尋常じゃない恐怖が、襲いかかってきた。


「男って、本当に馬鹿よね」


 カレンの声が運ばれてくる。ああ、本当に、馬鹿だ。


 だって俺、怖くて怖くて、体が動かねえ。避けなきゃ死ぬっていうのに、ライナならこうするはずだなんて。

できるはずがない。


 だって俺は、ライナじゃないんだから――。

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