第34話

 明け方近くにアリアの悲鳴が聞こえたらしい。何事かと思い、リコが様子を見に行くと、両腕が奇妙な角度に折れ曲がった、血まみれのディエゴが廊下に倒れていた。リコは卒倒しそうになるのをこらえ、カレンへ報告をしに向かったそうだ。カレンの部屋にはプエルがおり、一目で様子がおかしいとわかったという。目をこらすと、プエルの体の周囲には黒いもやが漂っており、何が起きているのかわからず、とにかくディエゴのことを伝えると、背後から傷の治ったディエゴが現れた。ディエゴはプエルに斬りかかったが、カレンが魔女魔術で気絶させた。そして、カレンはリコにクニツ・ライナを呼んでくるよう頼んだという。


 リコが目にしたザイファルト邸での出来事は、これが全てだそうだ。


「ライナ様、いったいなにが起きているの?」


 リコは不安そうに尋ねてくる。俺は少し迷ったが、話さないことに決めた。


「あとでプエルに聞いてくれ。俺の口からは言えない」

「そう……」


 リコは残念そうに顔を伏せる。途端に罪悪感が襲ってきた。やはり話そうかと思ったが、聞けば今よりショックを受けるかもしれない。それを回避しつつ、上手く話せる自信などない。気まずい沈黙が流れる。魔動車はいつもより速く走っている。この世界に来てからもうすぐ一ヶ月。窓の外では、早くも見慣れたヨーロッパ風の景色が、次々と流れていく。


 やってやる、と決意に満ちていた気持ちが、ザイファルト邸に着く頃には、不安に変わっていた。俺に何ができるのか。頭の中で止めどなく湧き出る言葉を、やってやる、という言葉に必死に書き換える。


 一階の入り組んだ廊下を歩き、一階から三階まで繋がっている屋敷中央の階段を早足であがる。会話の切れ目を感じさせることの少ないリコが、この時ばかりは押し黙っている。スカイラインの警備をしたとき、プエルからは決して入るなと言われていた三階。あのときは、屋根の上に現れたスター・イン・マイ・ハーツを追いかけ、天窓を突き破って三階に侵入した。それからディエゴと挟み撃ちにして、俺が役に立たなかったために逃げられた。その時と同じ廊下を目にしながら、あのときの必死さを思い出そうとする。正確には、そのあとリコを助けたときのことを。成功体験を思い出すことで、自分を奮い立たせようとしているのだと、冷静な部分で思う。


 過去にすがっているようでみっともなく思い、廊下の床から壁に視線を動かす。美しい絵画が並んでいる。きっとこの世界のどこかにあるのであろう、見たこともない風景をモチーフにした風景画が多かった。無骨な塔を中心に広がる街や、美しい海の風景画。廊下を歩きながら、それらを見て心を落ち着ける。


 大丈夫。きっと大丈夫。全て上手くいく。ディエゴにプエルを殺させはしない。そして、プエルを救ってみせる。心の中で唱えながら。リコが案内してくれた部屋に足を踏み入れた。


「よかった。来てくれたのね」


 部屋に入るやいなや、豪奢な椅子に腰掛けていたカレンが、ほっと胸をなで下ろすように言った。その足下、深い赤をした絨毯の上で血まみれのディエゴが倒れているのを見つけ、一気に緊張感が襲いかかる。


「そんなに警戒しなくてもいいわよ。もうしばらくは押さえつけられるわ」

「プエルはどこに?」


 プエルを探し、視線をさまよわせる。ぱちぱちと音を立てて薪を燃やす暖炉と、壁じゅうに並んだ本棚が目に入る。脇に寄せられたテーブルには、チェス盤が乗っていた。


「プエルなら自分の部屋にいるわ。そっちのほうが落ち着くと思って」

「大丈夫なのか?」

「さあ」俺が思っているよりも深刻な状況じゃないのかもしれない、そう勘違いしそうになるほど、カレンの言葉はあっさりしたものだった。

「さあ、って。心配じゃないのか?」

「怒らないでちょうだい。正直、ディエゴを大人しくさせるので精一杯なの」


 床に倒れているディエゴは、よく見ると、気を失っているのではなかった。両目は大きく開いている。


「ああ、ロリータ、なぜわたくしめの邪魔を」


 うめくようにディエゴが喋る。


「なぜってあなた、我が子が殺されるのを、黙ってみているはずがないでしょう」


 呆れるようにカレンは言ったあと、椅子から腰を離して、ディエゴの視線の先に移動し、床にかがみ込んだ。


「ディエゴ、あなたは極端なのよ。悪人は殺せばいいってものじゃないと思うわ、私」

「しかしロリータ、お坊ちゃまもう……」

「でも、あなたはこうしてここに居るじゃない」

「それは、ロリータ、君がいるから……君が照らしてくれるから僕は……」意識が朦朧としているのか、ディエゴはうわごとのようにつぶやく。それをカレンは微笑みを携えて見下ろす。


「ふふっ、僕だなんて、あの頃に戻ったみたいではずかしいわよ、ディエゴ」

「あの、お母様、先ほどからいったいなんのお話を……?」


 リコはなにも知らないらしく、おずおずと尋ねる。俺もはじめはわからなかったが、倉庫でロリータの話をしていたとき、マスターがカレンの名前を口に出したことを思い出し、ようやく気づいた。


「ロリータって、カレンのことだったのか」

「ええ。ロリータ・バティン。それが私の一番最初の名前。それからロリータ・サンファンに名前を変えて、トイバー家に拾われてからは、カン・サンファン。そしてトイバー家を出てからは、カレン・サンファン。あの人と結婚してからは、カレン・ザイファルト」ふさふさの扇で口元を隠し、カレンは笑う。「ふふっ、名前が変わるたびに、新しい人生が始まる気がして、わくわくしたものよ」


 カレンとディエゴの関係については色々と気になるが、今はそんな話をしている場合じゃない。まったく危機感のないカレンに流されちゃだめだ。今は緊急事態、のはずだ。


「それより、プエルを助けなきゃ」

「そうよ、お兄様の様子がおかしいのでしょう?」


 焦る俺たちとは真逆で、カレンはまるで今思いだしたかのように、「そうそう、そうなのよ」と立ち上がる。「ディエゴに色々と聞いたのだけれど、心の闇を照らす太陽、のような人が必要なのでしょう? ふふっ、ディエゴにとって私がそうだったなんて、なんだか照れてしまうわ」


「いちいち話を脱線させないでくれ。その太陽が居ないから困ってんだ。もう知ってると思うけど、デイガールは駄目だった」

「それはねえ。そうよね、としか言いようがないわ。プエルにとってあの子は、初恋の女の子であったけれど、今となっては罪の象徴ですもの」

「だったら他に誰が」

「ねえディエゴ」俺の言葉を遮るように、カレンはディエゴに語りかける。「あなた、私に恋していたの?」

「滅相もない。恋などと、わたくしめの心を、男女の色恋沙汰と一緒に……断じて違います」

「そうよね。だってあの頃の私は、十歳にも満たない子どもだったもの。じゃあディエゴ、どんな感情だったか、言葉にできる?」

「言葉になど……強いていうならば、それこそエイリス教徒がエイリス・キストールを目にしたときと、似た感情でございましょう」


 カレンがいったいなにを言いたいのか、さっぱりわからない。この会話になんの意味があるのか。状況を把握している俺ですらそうなのだから、リコは余計に混乱しているようで、焦りを我慢できなくなったのか、カレンを急かし始めた。


「お母様、いったいなにをおっしゃってるの? それが今のお兄様となんの関係があるの?」

「いえ、だからね、私、思うのよ。ディエゴの言う光というのは、自分を見失わないための道しるべのようなものでしょう? 色恋沙汰とは関係のないもので、どちらかというと憧れ、一種の崇拝に近いものでしょう? だったら、今のプエルに必要なのは、あの子じゃなくて、あなたでしょう、クニツ・ライナ騎士団長」

「俺が……?」


 いや、この場合は俺じゃなくて、本物のライナのことか。


「プエルはね、あなたにずっと憧れていたのよ」

「いや、待ってくれ、でも、プエルはそんなこと、一言も」


 リコとディエゴを見る。二人とも驚いているようだった。


「競争心も少し混じっていたかしら。誰にも言っていなかったと思うけれど、見ていればわかるわ。あなたにだけ態度が違ったもの」


 確かに、俺にだけあたりが強いと思ったことはあるが、あれは俺に苛ついていたんじゃなかったのか?


 カレンは閉じていた扇を広げ、口元を隠す。


「これ以上は、私の口から言うのは野暮よね」カレンは扇を閉じ、深々と頭を下げた。「クニツ・ライナ様、ザイファルト家の当主を支える者として、なにより一人の母として、お願い申し上げます。どうか、あの子を闇の中からすくい上げてください」


 手も、足も、全身が震えた。武者震いなんて格好の良いものじゃない。ただただ大きなプレッシャーに押しつぶされそうになっているだけだ。


 プエルを闇の中から救い出す。あいつの太陽になる。これはクニツ・ライナだからこそできることだ。プエルが憧れたのは、俺なんかではなく、真の英雄たるクニツ・ライナなのだから。


 つまり、プエルを救うためには、俺が本物のクニツ・ライナにならなければならない。

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