10 彼女は甘い声で囁き、誘惑する




 私は手振りで向かいの椅子を勧めたが、シアは動こうとしなかった。


「……仰っている意味が、分かりかねます」

「あら、まだしらを切り通すつもり?」


 目一杯愛らしい調子で、くすくすと笑う。シアは不気味なものでも目の当たりにしたような表情で、こちらを見ていた。


「そんな顔で見なくても、別に取って喰ったりはしないわよ。そうね、じゃあまず近いところから答え合わせをしていきましょうか」


 私は目を細めて、ころころと笑みを載せていた唇を開く。

 ――このところ、私とアイリスを襲っていたのは貴女が雇われていた貴族ね。

 そう尋ねるが、さすがにシアも頷いたりはしない。それは分かっていたので、私はそのまま話を続ける。


「個人的な恨みを買った覚えはないから、やはり主たる標的はアイリスの方よね。ヴィルヘルム殿下かその他の取り巻きかは知らないけれど、自分の娘を彼らの妻にしようと狙っていて、アイリスが邪魔だったというところかしら」


 まあ、理由なんて些細なことだろう。問題は、その為に何をしていたかということだ。


「最初は、単に情報を集めることが目的だったのかしら。でも、段々欲が出て来たようね。貴女が仕入れて来た情報と『呪いの令嬢』の噂を利用して、直接危害を加えることを思いついた」


 アイリスとその取り巻きに最も近いところにいる私の元にいれば、確かに彼らの情報は手に入りやすかっただろう。それは、私をいちいち夜会や茶会に招待するよりも、よっぽど手っ取り早かったに違いない。

 欲に駆られ目先を見失った人間って怖いわね、と私はくつりと笑う。そこまでで満足していれば良かったろうに。


 覚えがありません、とシアは答えるがその声は固く、不自然さが滲んでいる。しらばくれるつもりなら、もう少し太々しさと余裕を持たないと駄目よ。


「初めてモニカの屋敷に行った日と、泊まりに行った日。それぞれその前に、貴女は手紙を出していたわよね。一体どこに出していた手紙かしら」


 もっとも情報が発信されてから実行に移されるまでがやけに早いので、集配人か配達員が買収されていて、直にシアの手紙を回収していた可能性が高そうだ。

 しかしシアは往生際悪く、首を振る。


「差し出口を挟むようですが、お嬢様。確かに自分は家族に宛てて手紙を出しておりました。ですが、モニカ様の家に泊まりに行かれた日はともかく、その前に付きましてはわたくしは詳細についてうかがっておりません」


 私が茶会を経由して寮に戻ることは、侍女なら全員把握していることだろう。しかし、肝心のアイリスの動向に付いては、知るものは限られている。

 私はふふっと口元に笑みを乗せる。


「――ねえ、貴女とマリアンは、本当に仲良しさんね」


 私が嘯いた言葉にシアはぎょっとした後、ぎりりと顔をしかめる。

 そう。その表情はかなり私の好みだ。

 私の策略によって絶望に追いやられ、顔を歪めて悔しがる姿は素晴らしい。それが自分に敵対する相手なら文句無しだし、具体的な名前を出すならエミールやアイリスなら尚更最高なのだが。


 伝聞による情報の流通は、特定の経路を辿ることが多い。顔見知りから顔見知りへと話が伝わっていくため、拡散の流れや変質の方向性、影響の仕方も推測がしやすい。

 つまり、片方に伝えれば、もう片方にも必ず伝わるというのは予想してしかるべきことだ。


「マリアンに件の茶会の日の話をした後、貴女はずいぶん間際になって手紙を出して来たわよね」


 もちろん、それはシアに伝えた情報がマリアンに伝わることも意味しているが、マリアンが情報提供者である確率はそう高くはない。

 彼女はシアほど頻繁に手紙を出したりはしないし、先日のウルマン男爵の屋敷への宿泊が急遽決まった日とその翌日は、彼女は休みを取っていた。


「それに、もっと決定的な証拠を見せてあげましょうか」


 私はうっそりと笑うと、一枚の紙を取り出しひらめかせる。シアが怪訝そうな顔をした。


「これはね、貴女の使っていた暗号の換字表よ」


 彼女は言葉もなく、目を見張る。

 だが別に、そんなに驚かれるようなことでもないだろう。


 シアが使っていたのは、単一換字式暗号だ。作り上げた文章に対して、文字一つ一つに別の字を当てはめることで意味を読み取れなくする。

 手紙は当たり障りのない内容に偽装した文章の上に針で穴をあけ、その文字だけを利用すると言う二段式の暗号にしてあったが、文字を別の文字に置き換えるだけという仕組みは非常に単純なものだ。頻度分析によってさして苦もなく解読ができてしまった。

 またシアの主はずっと同じ暗号を使い続けていた為、一度換字表を作ってしまえば短時間で読み解けてしまうのだ。


「あたくしは、ずいぶん甘く見られてしまっていたみたいね。もっとも貴女の主人だけでなく、まさか利用していた相手に逆に利用されていたと気付く人間は、あまり多くないみたいだけど」


 私は基本的に、私自身を利用しようとする人間に対しては寛容なつもりだ。もちろん助けてやったりなどは一切しないが、私に害がない限りは黙認するし、こちらに利がある場合は敢えて情報を流してやることもある。

 ただし、邪魔になったり危害を加えようとしてきた場合は別だ。そうなったら無論きっちりと、容赦ない対応をさせてもらっている。

 そう語る私の話を聞き、シアは諦めたように大きく溜め息をついた。


「じゃあ、オレは何をすればいいんですか? 断頭台に上がる前に、自分の罪を残らず告白すればいいんですか? それとも雇い主についてあることないこと白状する?」


 途端に蓮っ葉な口調になり、眇めた目でこちらを見返すシアに、そうねと私は口端を吊り上げて提案する。


「あなた、私に雇われなさい」


 シアはぽかんと、口を開いた。






「あんた、オレに裏切られていたって分かっていて言ってるのか?」


 冗談だろう、と渇いた笑いを発するシアに私は「冗談じゃなくてよ」と、微笑みかける。


「ああ、ちなみにあなたの主の罪が暴かれたのは、あなたから辿られたせいではなく、私たちを襲う為に雇われた傭兵が雇い主を白状したからよ」


 だから、あなたの正体は私以外に誰にもバレていないと教えてあげたのだけど、シアはまだ怪訝な表情を崩さなかった。


「だからって、自分を騙して裏切っていた相手を信用するなんて、頭がおかしいとしか思えない。あんた、実は気狂いなのか?」


 鼻で嗤うシアに、私は答える。


「気が狂いそうになるほど、何かを強く追い求める人間を気狂いと呼ぶならば、まさしくその通りね」


 シアは目を見開き、私を真っ直ぐに見る。私もまた、偽物の侍女を正面から見据えた。


「私は手駒が欲しいの。私の望みを察して動ける程度に頭がよく、それでいて出しゃばらず、万が一尻尾を掴まれることがあったら、こちらに手が及ぶ前に自分ごと糸を切り離せるくらいに優秀な手駒が」

「馬鹿馬鹿しい。本当にオレがそんな都合の良い存在になると思っているのか? オレはあんたを裏切るぜ? いつ裏切るか分からない人間を本気で雇おうと思っているのか?」


 それとも、雇うなどと言って本当は都合のいい捨て駒が欲しいだけか?

 そう尋ねるシアに、私はくつくつと堪え切れない笑いを漏らす。シアが不機嫌そうな表情を浮かべた。


「裏切りたいなら裏切ればいいわ。それはあなたの自由だし、それだけ主の私に甲斐性がなかっただけの話ですからね。だけど私は、信じているから」

「裏切り者のオレを?」


 はっと嘲るシアに、私は間髪入れず答える。




「そう。裏切り者のあなたの、欲の深さを」




 シアは今度こそ、唖然として言葉を失った。私は話を続ける。


「私はね、欲の強い人間こそ信じるに足りると思っているの。欲が強いということは、それだけ己の欲するところには誠実だと言うことだから。自分の望みを叶える為に、もっとも有効な手段だと知っていれば、敢えてそれを台無しにする算段なんて立てる必要はないじゃない」


 逆を言えば他者から与えられるものに無関心で、人間的な欲の薄いアイリスのような存在は、気味が悪くて仕方がない。しかもあの手の人間は、その場限りの価値観とあやふやな基準で物事を判断するから、余計に始末に負えないのだ。


「もちろん、どれが有効な手段かも判断できない頭の悪い人間だったら捨て駒にしか使えないけれど、あなたはそうではない。だったら、目の前に最上の餌をぶら下げ続けて、目先を常に私の求めるところに向けさせておくのは、主の役目よ」


 私はシアに囁きかける。

 船乗りを海底へ引きずり込む人魚のように、英雄を誘惑し堕落させる魔姫のように。

 欲望を刺激し、足掻かせ、溺れさせる。

 己の望みを叶える為にはこの道を選ぶしかないのだと、錯覚させる。


「あなたが優秀な手駒である限り、私を好きなだけ利用させてあげるわ。でもあなたが使えなくなれば切り捨てる。もっともそれはお互い様よね。あなたも私が使えないと思えば容赦なく裏切ればいいわ。ただし私は、あなたが裏切ろうと考える隙も与えないつもりよ」


 堕ちておいで、と甘い歌声で唆す。

 魅惑の餌で誘い出し、自由自在に操ることこそ我が真髄。

 もちろん、実際に滴る蜜を与えてやることも忘れない。


「自分で言うのもなんだけど、私はかなり上等な主だと思うわよ。だから、選びなさい。私に雇われて、望みを叶えるのにもっとも近い道を行くか」


 それとも、無様に地を這うか。私は目を細め、陶然とした笑みをシアに向けたのだった。







 ◆   ◇   ◆




 社交期に入り、王城で開かれる恒例の舞踏会は国内の主だった貴族が集う、賑やかなものとなっていた。

 基本的に暗い色の燕尾服をまとう男性とは対照的に、女性のドレスは色とりどりで大変華やかだが、今年は特に緑色を基調としたドレスがかなり目立っていた。


 私が着ているのは、緑色ではないけれど贔屓の店で仕立てて貰った薄紫色のドレスだ。ただし、これまでとは違い布地がかなり上等なものになっているため、小物を使って野暮ったさを演出するのに苦労する。ついでにリボンは直接髪に編み込んで、簡単には解けないようにしておいた。

 そして私の隣でそわそわとあたりを見回しているアイリスは、身体の前身頃から首までを覆う代わりに背中を腰元までが大きく露出している、非常に奇抜なドレスを着ている。

 だからいったい何処でそんな素っ頓狂な感性を育ててきたのだと、私は頭を抱えたくなる。似合っているのが逆に腹立たしいくらいだ。


 アイリスはぱっと顔を輝かせると、周囲も憚らず声を張り上げ大きく手を振る。


「モニカ、こっちよ!」


 それに気付いて、ブルネットの少女が一人小走りでこちらに駆け寄ってきた。



 アイリスと私を襲おうとした者が別にいたこと。そして未遂であった最後の一度を除けば、他は怪我人もおらずまだ悪質な悪戯で済む範囲だったことから、ヨアヒムのしたことは内密に処理されることになった。

 ただし現グラシーザ伯爵家当主はこのことを重く見て、彼をしばらく国から出すことに決めた。

 グラシーザ伯爵家のヨアヒムは、家業である貿易業の一環として国外に長期駐留することとなった。恐らくほとぼりが冷めるまで、十年単位で戻ることはできないだろう。


 彼の執着の対象であったモニカには、犯人もその犯行理由も説明はなされなかった。けれど、ヨアヒムの突然の出国を聞いて、寂しさと安堵の入り混じった複雑な表情を彼女は浮かべた。

 確証はなくとも、彼女にも何か感じ取るものがあったのかも知れない。



「お久しぶりです。アイリス様、シャーリン様。大変ご無沙汰しておりました」


 以前会った時よりもずっと明るい顔色で、モニカは深々と頭を下げる。

 ウルマン男爵の商談がひと段落した為、モニカはヴィヨン地方へ一度帰った。

 そしてしばし療養を兼ねて身と心を休めていたのだけれど、今回の社交時期に合わせて再び王都に戻って来たのだ。


「聞いて下さい! わたし、また学院に通えることになったんです!」

「わあ! 本当に!? 良かったね!」


 嬉しくて堪らないという顔で報告をするモニカに、アイリスもまたぴょんぴょんと飛跳ねて全身で喜びを表すにする。何故、そんな高い踵の靴で飛跳ねることができるのか、私には不思議だ。


「モニカは中等部だったよね。校舎は違うけど、授業が終わったらいっぱい遊べるね」

「はいっ」


 アイリスとモニカは、手を取り合って喜んでいる。そして、ふいにモニカはこちらを振り返って深々と頭を下げた。


「これも、シャーリン様のお蔭ですね。本当にありがとうございます。父も礼を申しておりました」

「あら、あたくしは何もしておりませんわ。ただ巡り合わせが良かっただけですわ」


 私はふんわりと微笑んで、首を傾ける。

 ふいに楽団の奏でる音楽が、壮大で華やかなものになる。

 視線を向ければ、この舞踏会の主宰である国王、王妃夫妻が会場に入ってきた所だった。

 王妃はドレスの上に、光り輝くような光沢が印象的な、実に美しい緑のストールをまとっている。今回は時間が足りなかったが、恐らく次の夜会では同じ絹で作られたドレスを披露することだろう。

 そして恐らく他に気付く者は誰もいないが、その緑の絹はモニカのブルネットの髪をまとめるリボンと同じものなのだ。


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