9 彼女は追い詰められ、覚悟を決める



 発案はもちろん、アイリスだった。

 アイリスはこれまでの『呪い』の被害者が、モニカを苛めていた令嬢のみならず、モニカに親切だった人間も含まれていたことで、犯人はモニカに近付く人間を無差別に標的にしているのだろうと推測した。


 さらには先日、自分たちがこれまでにない直接的な危害を加えられそうになったことで、犯人はいま最もモニカと親しい自分たちを、何としてでも排除したがっているとも考えた。

 ならば、高い確率で再び何らかの行動に出るはず。

 そう結論付けたアイリスは、あえてモニカの家に泊まってみせると言う形で犯人を挑発し、自ら囮になることを提案したのだ。


 だがもちろん、そんな危険なことをヴィルヘルム殿下ら取り巻き一行が許すはずない。夜に彼らを屋敷にこっそりと招き入れ、事前に入れ替わっておくことで、どうにか折り合いをつけることになった。

 王族自らが身代わりになるということこそとんでもない話ではあるが、正義感に駆られ、かつアイリスに良い所を見せたくて仕方がないヴィルヘルム殿下を、誰が止めることができようか。

 ちなみに、私の部屋にはテオドールとエミールが待機していた。犯人が私とアイリスのどちらに行くか、確証が持てなかったからだ。続き部屋に潜む私とアイリスの護衛は、ルーカスが担当した。


「まさかとは思っていたけれど、本当にあなただったなんて」


 アイリスは当惑を滲ませた声で、押し殺すように呟く。

 灯りを突きつけられ、眩しげに眉を顰める鳶色の髪を持つその男は、見間違えようもなくグラシーザ伯爵家のヨアヒム本人だった。


「これまで、モニカが出席していた茶会や夜会を調べさせて貰ったよ。その結果『呪い』による事件が起きた時に、そこに必ず参加していた人が一人だけいたんだ」


 社交界に知り合いが多く、交友関係も広いルーカスがヨアヒムに言う。

 それでもまだ疑い半分だったとアイリスは呟くが、こうやって現場を押さえてしまった以上、これ以上雄弁な証拠もないだろう。

 そもそもこの屋敷の本来の持ち主はグラシーザ伯爵家だ。その家の人間であるヨアヒムならば、屋敷の合鍵を使って部屋に入ることは充分可能だ。モニカは王都に来て以来眠りが浅いと言っていたが、もしかするとそれは合鍵を使い屋敷に忍び込んでいたヨアヒムの気配を、感じ取っていたのかも知れない。


「あなたは、モニカのことをすごく心配していたじゃない。それなのに、どうして?」


 戸惑いの気持ちを隠そうともせず、アイリスはヨアヒムに詰め寄る。ルーカスが腕を伸ばして、近付き過ぎるアイリスを抑え込んだ。


「だから……だよ」


 取り囲まれ、すでに逃げられないことを察したヨアヒムは、床に座り込んだままぽつりと言葉を漏らした。手から落とした短剣が、床にぶつかりからんと固い音を響かせる。


「数ヶ月前、王都に訪れたモニカさんを見て、一目で彼女に惹かれた。でも、いきなり近付くと怖がらせてしまいそうだから、様子を見ながら少しずつ親密になっていこうと思ったんだ」


 しかし、モニカが出席する夜会を密かに調べあげて、偶然を装ってそれに参加しているうちにヨアヒムは、一部の令嬢らからモニカが言われのない侮辱を受けていることに気付いてしまう。

 何とかしてやりたいと思いつつも良案が浮かばなかったヨアヒムだったが、彼女を苛んでいた令嬢が怪我をした時、思わず安堵の表情を浮かべるモニカを見て一つの手段を思いついてしまった。


「でも、それならどうしてモニカに優しくしてあげた人たちにまで、ひどいことをするようになったの?」


 そのせいでモニカには『呪いの令嬢』などという不名誉な噂が立ち、余計に苦しむ羽目になったことはヨアヒムも知らない筈がない。

 アイリスは今にも泣きそうな顔で、きゅっと拳を握る。ヨアヒムは疲れたように、渇いた笑いを零した。


「始めは彼女を助けてやりたい一心で始めたことだった。だけど、途中で欲が出てしまったんだ」

「欲……?」


 アイリスはきょとんと目を瞬かせる。


「もし、彼女のまわりに誰もいなくなって独りぼっちになてしまったら、自分に縋ってくれるんじゃないかって」


 心の澱みを吐き出すように、ヨアヒムは溜め息まじりの言葉を発する。


「……愛しい相手を助け、頼られたいと言うお前の気持ちは痛いほど分かる」


 寝台に膝をつき、ヨアヒムに剣を突きつけたままのヴィルヘルム殿下が、おもむろに噛み締めるような呟きを零す。

 それは実に傲慢で、自分勝手で、独りよがりな独占欲だ。

 しかし同時に、どれだけ歪であっても愛情を礎とする感情であったことも疑いようは無い。


 一方私もまた心のうちで、うんうんとうなずく。

 確かに、同じようなことをあなたも実行中ですものね。残念ながら呪いのように他人の好意に鈍感なアイリス相手では、効果の程は薄いようだけれど。


「だがな、その最愛の相手を騙し傷つけて得た愛は、とても苦く辛くて溜まらないと、本当はお前も気付いているんだろう?」


 哀れむような視線を向けられ、ヨアヒムは堪え切れぬように唇を引き結び、視線を床に落とす。


「間違った方法で彼女の愛を得たとしても、いつかその苦しさに耐えられなくなる時が来る。お前だって彼女への愛を、苦痛に擦り切らせたくはないはずだ」


 卑怯な手を使っても、世界のすべてを敵に回したとしても、それでも構わないと思ってしまうのが愛であると、よく物語は歌っている。

 だけど、実際に身を堕としてしまう程の愛が、世界にどれだけあるのだろうか。

 それは私にも分からないけれど、ただ綺麗ごとを語るだけの愛よりも、それはずっと深いものなのではないのだろうかと、ふとそんな戯れ言が私の脳裏を過った。

 もっとも私自身は己の目的の為に、そんな浮かれた感情とは永久に縁遠くありたいものだけれど。


「わたしはね、愛とか恋とかそういった気持ちが、本当はまだ良く分からないの」


 本人にも自覚があったのかとわずかに驚いた気持ちで視線を向けると、アイリスは少し困ったような表情をヨアヒムに向けていた。


「だからヨアヒムさんが、モニカを好きだからしたことを、正しいとも間違っているとも言うことはできないわ」


 だけど、とアイリスは澄んだ目でヨアヒムを見る。それは過ちと知りながらも、その道に足を踏み入れてしまった彼にとっては、居心地の悪さを覚えるほどに真っ直ぐな眼差しだっただろう。


「私は、友達が苦しんでいるのを見過ごせない。だからもしあなたが、またモニカやシャーリンに酷いことをするというなら、それがどんな理由であれ絶対に止めてみせるから」


 アイリスはそう断言する。

 力強く明快な彼女の言葉に、ヴィルヘルム殿下やルーカスはどこか陶酔するような眼差しをうっとりと向けていた。まあ、口だけならいくらでも言えるよね。

 しかしヨアヒムは、私の名が出るや、まったく身に覚えのないことを言われたとばかりに怪訝な色をその目に浮かべる。


「シャーリンさん……?」


 思わずというように彼が呟いた時、階下から微かに物音が聞こえた。


「あれ? なんだろう。わたし、ちょっと様子を見てくるね」


 アイリスはそれに気付くと、周囲の静止が耳に入る間もないほどの素早さで、部屋を飛び出して行く。

 ルーカスとヴィルヘルム殿下はアイリスを追いかけようと一歩足を踏み出しかけたが、ヨアヒムをこの場において行くことはできない。さらに言えば、どちらか片方だけ向かうことも、王族であるヴィルヘルムを無防備にしてしまうためできかねる。

 縋るような二方向からの視線を向けられ、私は観念した。


「あたくしが、アイリスを連れ戻してきますわ」


 お前らあの女の首に縄付けて括っとけよと、本当は声を大にして言いたかった。



 先ほどの音は、階下から聞こえてきたようだ。

 私はアイリスを探しながら、暗い廊下をゆっくりと進んで行った。明かりくらいは持ってくれば良かったかも知れないと、少しだけ後悔する。


 静まり返った一階の廊下を歩いていると、ふいに一カ所だけ窓が空いていることに気が付いた。だがその窓の周辺には割れた硝子が散っており、ただ閉め忘れた訳でないことは明らかだった。

 それに気付いた途端嫌な予感を覚え、私は引き返そうと足をひく。だがその時、ふいに夜の闇を切り裂くような声が響いた。


「シャーリン、逃げてっ!!」


 はっとして顔を上げると、廊下の奥から黒服を纏った不審者が駆けて来るのが目に入った。そしてその奥には、焦った表情のアイリスと不審者を追って走るテオドールがいる。

 恐らく先にアイリスが黒服と遭遇。窮地をテオドールに救われ、逃げ出した不審者を逆に追い掛けているところだったのだろう。実についてないと私は舌打ちしたくなる。


 黒服は入って来た窓から逃げるつもりらしかった。私は言われた通り急いで離れようとするが、数歩駆け出したところでよろめいて膝をついてしまう。

 不審者はただ逃げ出すよりは人質を取ることを選んだらしく、開いていた窓には目もくれず、そのまま私に向かって駆けて来た。

 これは少しまずいと思いもしたが、テオドールもそのすぐ後を追って走ってくるのが見えたので、抵抗してればギリギリ間に合うだろうと目星を付ける。それに逃亡を許すよりは、危険を冒しても捕縛できる確率を上げた方がいい。


 私は座り込んだ体勢のまま、こちらに寄って来る不審者を睨みつける。高鳴る鼓動の合間を縫って、緊張で無意識に唾を飲み込む音が、やけに耳に響いて聞こえた。私は男の手が真っ直ぐに自分に伸びてくるのを、覚悟とともに待ち受ける。

 だが突然、背後から飛んで来た何かが男の顔にぶつかって砕けた。


 男は苦痛のうめき声を上げて顔を押さえると、その場に倒れる。

 散らばる花や水を見るに、飛んで来たのはどうやら廊下に飾られていた花瓶のひとつのようだった。


「危ないところだったね」


 唖然とする私の後ろから、聞きたくもない声がした。

 余計なお世話だと声を大にして叫びたいのを堪えて、私は無理やり安堵の表情を浮かべて振り返る。

 苦々しい気持ちに拍車をかけるような、そんないけ好かない笑みを浮かべて、エミール・クレッシェンがこちらに向かってゆっくり歩いて来るところだった。





 ◆   ◇   ◆




 貴族子女が多い為、比較的生徒の裁量に任せられている部分が多い学生寮だが、門限や消灯時間というものは存在している。

 そんな生徒らに仕える使用人たちも、寮内に部屋を与えられている限りは消灯時間が定められていた。

 学生のそれよりも遅い時間ではあるし、そこまで厳しく指導されることはないものの、あまり決まりを無視し続ける場合は主が罰則の対象となる。そのため、使用人はしっかり規則を守るのが普通であった。


 深夜、門限どころか消灯時間もとっくに過ぎた時間帯である。

 誰もが寝静まっているそんな時刻に、ある寮生に割り当てられた部屋を歩く者がいた。学院の制服ではなくお仕着せをまとったその者は、気配を殺し、当然足音もさせずに室内を横切る。

 荷物は最小限に、灯も持たずに進む姿は使用人というより細作のようだった。


「こんな時間にどこへお出かけ?」


 掛けられた声に、その人物は肩を大きく震わせる。

 こちらをゆっくりと振り返る彼女に、私はにっこりと微笑みかける。


「あたくしは貴女に、何も命じていなかった筈よね。シア?」


 黙り込んだまま真顔でこちらを見る侍女に、私は愉快な気持ちで目を細めた。




「これまでお世話になっていたにも拘らず、ご挨拶もせず去ることを申し訳なく思います。ですが、ここはどうか見逃して頂けませんか」


 深々と頭を下げる彼女に、私は小首を傾げる。


「あたくしは侍女に夜逃げをされてしまうほど、ひどい主人だったかしら。ねえ、シア。もし困っていることがあるなら、話してみませんこと? 相談に乗ってあげられるかもしれないわ」

「いえ……」


 シアは対応に苦慮するように眉根を寄せて、口籠る。私は傍らの椅子に腰掛けると燭台に火をつけた。揺らめく灯りが、彼女の影を壁に大きく映し出す。


「だって今さら尻尾を巻いて逃げ帰っても、貴女に密偵をさせていたご主人様はもう失脚しているもの」


 シアは大きく目を見開いた。


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