蟲のはなし
0 男は欲をかき、怯え逃げ出す
針葉樹林に囲まれ鬱蒼とする山道を、一台の馬車が走っている。
陽は傾き橙色に染まり始め、周囲には夜の気配が忍び寄っていた。本来ならばこの道は、もっと日の高いうちに通り過ぎているはずだった。しかし道中車輪が外れるという事故に時間を取られ、予定は大幅に遅れていた。
この近辺は比較的治安が良いとは言え、野犬や狼、あるいは余所から流れてきた賊の類が出没しないとも限らない。
出来るだけ早く麓の村に辿り着こうと、御者はギリギリの速度で馬を走らせていた。
不安を感じているのは、御者だけではなかった。
馬車は乗合馬車である。中には幾人もの乗客が落ち着かない様子で身じろぎをしていた。
もっともそれはなにも暮れゆく太陽や、乱暴に揺れる馬車へのものばかりではない。馬が走り出してからずっと、乗客の視線はある一団に遠慮がちに向けられていた。
乗合馬車が発車する直前に乗り込んできた、その一団。席の半分近くを占領する彼らは皆一様に、鮮やかな染めの施された、しかしだいぶんくたびれ薄汚れた見慣れぬ装束に身を包んでいる。そして家財道具一式とはいかないまでも、一人ひとりがかなりの大荷物を背負っていた。
彼らは戦争難民だった。
現在、大陸の東方に戦をしている国がある。この国はその戦争に関知していないので、恐らくは戦火を逃れてここまで来たのだろう。
見慣れぬ顔立ち、見慣れぬ衣装の彼らを、馬車の乗客たちは甚く不安げな、まるで不気味なものでも見るような眼差しでちらちらと見ている。
そんな視線にはすでに慣れきっているのか、それとも気にする余裕もないのか、彼らはただ疲れた顔で俯き、目を伏せていた。
不審そうないくつもの眼差しが向けられる中、一人だけ違った目で難民たちを見ている男がいた。
男は商人である。そして抜け目のない男だった。
くたびれ果て景気の悪そうな顔をしている難民たちであるが、彼らの大半は、有りっ丈の財貨や家に代々伝わる家宝のような物を後生大事に抱えて逃げてくるのだ。
そして食うに困って、やがてそれらを手放すことになる。
遠い異国で家宝とされてきた品々は、好事家相手ならずとも時にかなりの高値で売ることができる。
男が狙っているのは、そうした好機だった。
男には悪気はない。いや、むしろ難民たちを助けてやっているとすら思っている。多少足元を見ているとは言え、確かにそれは正当な取引の範囲内だった。ただ、相手に対する思いやりが欠けているだけだ。
男はいつ難民たちに接触するかを考える。
麓に降りて村に着いてから話掛けるか、それともこの場で声を掛けてみるか。
あまりがっつき過ぎて、相手を警戒させては元も子もない。
この場で売るように交渉できなくても、信用さえさせていれば相手の方から頼ってくる。
そうやって機を伺っていると、ふいに石にでも乗り上げたのか馬車が大きく跳ねた。乗客のあちこちから短い悲鳴が聞こえたが、うち一人、難民の中でも一際幼い子供が姿勢を崩し倒れるのが見えた。
性別も定かではない薄汚れた子供の手から、布張りされた小さな箱が転げ落ちる。
しめた、と男は思った。これを拾って子供に渡せば、まわりの大人たちとも繋ぎが作りやすい。
そう思って手を伸ばした男だが、ぎょっとして動きを止めた。
開いた箱の中で、むっちりと太った巨大な芋虫が、ぐにぐにと不気味に蠢いていたのだ。
男がひっと息を呑み手を引っ込めるのと同時に、訛りの強い東の言葉で「――様を早く拾えっ」と叱責する声がした。
子供は慌てたように小箱を拾い上げ、大事そうにまたそれを胸に抱え込んだ。
村へ辿り着いたのは、すでに月が昇ってからだった。
有難いことに、野犬に追われることも、賊に襲われることもなく、ただ到着時間が大きくずれただけだった。
大半の乗客たちはここで宿を取ったり、軒を借りたりして一晩を過ごし、また翌朝同じ馬車に乗って次の目的地を目指す。
しかし、翌日の乗合馬車に商人の男の姿はなかった。
走り去る馬車を村の一角で眺めていた男は、ぶるりと身を震わせた。
ここで商いをすると御者には告げた男だが、実際はあの難民たちと同乗するのを避けたい一心だった。もちろん村に到着後、彼らとは交渉どころか一切の接触も取っていない。
脳裏に浮かぶあの気味の悪い虫の存在を振り払おうと、男は大きく首を振る。
商人という仕事柄、大陸各地の言い伝えや伝説などには詳しい方だ。男は昔、東方諸国出身の商人と取引をした際教えてもらった、ある少数民族に伝わる不気味な呪術を思い出し再度身震いする。
その時は、単なる与太話だと聞き流していたが、もしも本当のことだとしたら――、
「食錦、何つったかな……」
ともあれ商売は命あっての物種。触らぬ神になんとやらだ。
小金を稼ぎ損ねた男は、ただ保身だけを思って小さくため息をついた。
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