放課後の図書室
@mana_m
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卒業おめでとう。
次は絶対に楽しんでね。
私はそのままのあなたが好きでした。
そうメールを送ったきり連絡先をブロックし、過去の思い出としたはずの彼が、今、私の目の前で仁王立ちをしている。
「やっと見つけた」
やっと、というほど久しぶりでもないけれど、と思いながら、私はかろうじて平静を装って、ケーキ屋の裏口から引っ張り出した大きなゴミ袋を灰色のゴミ箱へ投げ込んだ。
「一年も経ってないのに、結構変わったね」
ほとんど制服姿しか見たことのなかった彼の洒落た服装も、明るい色の無造作な髪の毛も、見覚えなどないのに妙に懐かしかった。
「何平然としてんだよ。急に学校辞めて、連絡もつかなくなって。こっちがどれだけ心配したか…」
声を荒げた彼は、私の背後の扉から出てきたバイトの女の子の姿にもごもごと口をつぐんだ。
「大丈夫ですか」
大学三回生の彼女が、私を守るように彼との間に立って小声で訊ねてくれる。華奢で小柄な彼女よりもきっと私の方が強いけれど、ここで働き始めてから出会った人たちはみんな優しい。
「彼、高校の同級生なんです。たまたまばったり会って驚いちゃって…」
私の説明に納得した彼女は、申し訳なさそうに彼へ頭を下げてから帰って行った。しばらく無言で彼女の後ろ姿を見送り、さっさと店の中へ戻ろうとした私の腕を掴んだ彼に、もう少し仕事があるから、と告げると、ここで待ってる、と不機嫌そうに口を結び腕を組んだ。逃げるのは難しそうだと判断し、なるべく急いで後片付けを済ませた。
高校三年生、卒業まで半年となった十月の初め頃、担任へ提出した三度目の退学届が受理されて私は学生ではなくなった。父はそもそも私の学歴に興味はなく、初めこそヒステリックに泣いて怒っていた母もついには無関心となっていた。入学当初から土日だけで続けていたアルバイト先の店長のはからいで、四月から契約社員として雇用してもらえると決まったことが大きかったのかもしれない。店舗は変わるけれどどうかしら、と提案してくれた店長に心から感謝をして、同級生が進学や就職で新しい世界へ飛び込むのと同時期、私も世界を変えずに社会人となった。
姉は相変わらず口を聞いてはくれず、快適とはいえない実家暮らしを早く終わらせることを目標に、今日もいつも通りガラス張りの小さな厨房でロールケーキを巻いていた。ショーウィンドウの前ではアルバイトの女子大生二人が楽しそうに話しながら接客をしていた。昨年までは、私も彼女たちと同じようにただのバイトとして笑っていた。高校を中退したことに後悔はないけれど、厨房と店先を隔てる透明なガラス一枚がとても分厚く思える。
一つ歳上の姉の彼氏から告白されたのは高校二年生の夏だった。姉が高校生になってすぐに付き合い始めたその彼氏は度々家へ遊びに来ており、三人でおやつを食べたり、ゲームをしたこともあったので、親しくはしていたものの、まさかの告白にはただただ驚いた。サッカー部で活躍していて、日に焼けた肌の似合う爽やかな好青年だった。姉の彼氏、として出会ったのでなければ、恋心を抱いたかもしれない。常に身なりにも気を遣い、美人な姉とはお似合いのカップルで、同じ高校へ入学し後輩となった私にとって憧れの恋人同士だった。当然のように断ると、そう、と一言だけ残念そうに言い、姉と待ち合わせているから、と私を呼び出した校舎裏から去って行った。姉の誕生日が近かったこともあり、何か相談でもされるのかな、と深く考えずに二人で会ったことを後悔しつつ、姉に話せるはずもない感情は私の胸の内にしまっておいた。
しかし、神妙な面持ちで会話をしていた私たち二人を偶々見ていた人がいて、数日のうちに秘密だったはずの事実は姉の知るところとなり、彼女の耳に入ったときには私が姉の彼氏へ告白し、無理矢理交際を迫ったことになっていた。家へ帰るまで怒りを抑えられなかったらしい姉が私の教室へやってきて、大声で泣きながら私を糾弾した。
「お姉ちゃんの彼氏に手を出すなんて、どういうつもりなの」
左利きの姉から、ドラマの中でしか見たことのないような平手打ちを右頬へ受けて呆然としている私を残して、姉は全く悪びれた様子のない彼に支えられながら教室を後にした。そういえば彼女は昔から目立ちたがり屋で、自分中心の世界に生きていて、それがおかしいことだと思わなくても済むくらいに周囲に愛される人だった。家族にだって、私の言い訳など聞いてもらえたためしがない。そんなことを冷静に思い出しているうちにクラスメイトからも次第に距離を置かれるようになり、諍いもない代わりに楽しみも少ない高校生活を送ることとなった。
図書委員だった私は、校舎の最上階に位置する図書室で放課後のほとんどを過ごした。テスト前になれば自習室として利用する生徒で席は埋まるものの、それ以外はほとんど誰も入室しない静かな空間だった。中庭を見下ろす大きな窓があって、その前に置かれたカウンター席が私の定位置だった。姉と彼へのせめてもの嫌がらせに、仲良く手を繋いで下校する二人へ毎日視線を送った。
「まだ好きなの?」
冬服への衣替えが終わった頃、いつものように二人を見送って自分も帰ろうかと中庭から視線をそらすと、いつの間にか私の隣で外を眺めていた彼に話しかけられた。
「別に、そんなんじゃない」
ふうん、と話しかけておきながら興味なさげに立ち上がり、手にしていた本を差し出した。
「図書委員さん、これ借りたいんだけど、どうしたらいい?」
「……時間、過ぎてる」
えー、と大きく口を開けて笑い、ずっと外眺めてるから待ってたのに、とその口を尖らせて拗ねたような表情を作る。まあ、また明日読みに来るわ、と一人納得して頷きながら元の棚へと戻しに歩いて行った。くるくると変わる表情に、意地の悪いことをしたなと反省しつつ、今更着崩した学ランの後ろ姿へなんと声をかければいいかも分からなかったので、私は黙って図書室の施錠準備をしてドアの外で彼が出てくるのを待った。
「あの窓、校庭がよく見えるのな」
部屋を出る前に後ろを振り返り、窓の外の眺めを確認した彼は私よりも背が高く、見えた景色も少しだけ違ったのかもしれない。
「こんなところからサッカー部、見てたんだ」
いたずらな顔で唇を片方だけ上げて笑いながら私の肩を小突き、彼はさっさと階段の方へと歩いて行った。
「見てない」
鍵をかけながら出した声はかろうじて届いたようで、彼はまた意地の悪い笑みを浮かべた。
翌日、彼は本当に図書室へやってきて、私の隣に並んでぼんやりと外を眺めながら小難しい本を読んだ。気づけば毎日図書室へ訪れるようになり、さも当たり前のように私の隣へ座った。友達が多く、いつもクラスの中心にいる彼がどうして放課後に一人でいるのか不思議だった。一ヶ月が経っても、私たちの会話は特に増えはしなかった。時折り揶揄うように姉とその彼氏の話をしてくる他は、宿題の確認をするか、本のおすすめを教え合うくらいで、私にとってはほとんど唯一の高校生活での話し相手ではあったものの親しいと言えるほど踏み込んだ仲にもならなかった。彼にとってはその他大勢の友人のうちの一人にもならないのだろうと本人へ問わずとも確信して、私から仲を深めようとも思わなかった。少しくすんだ白のセーターは流行りのもので、彼によく似合っていた。長めの袖からのぞく手の指が異常に綺麗で、ささくれだらけの乾燥した自分の手が恥ずかしくなった。ますます彼が毎日ここへやって来ることを不思議に思っていた。
「本当に、見てないんだな」
部活を終えて帰路に着く生徒がちらほらと中庭に現れたとき、彼は本から顔を上げて私の方を向いた。雪、と呼ぶのが申し訳ないくらいに小さな白の粒がこの冬初めて窓の外で控えめに舞っていた。
「サッカー部の先輩、見てたわけじゃないんだ」
「見てないって言ってるでしょ、最初から」
まだその話を引っ張るのかと少々苛つき口調がきつくなった。特に気にする様子もなく、そうだったな、と呟く彼に普段のふざけた様子は無かった。
「勝手に同志だと思ってたけど、違ったか」
残念そうに眉を下げ、悲しげに笑った彼の表情はこれまでに教室でも図書室でも見たことのない顔だった。
「何の同志?」
「……叶わない恋してる同志?」
照れを誤魔化すようにいつもの軽くおちゃらけた表情を作った彼の耳は赤かった。
「好きな人いるんだ」
まあね、という彼の好きな人に興味を持った訳ではないが、叶わない恋、という言い回しは誰からも人気の彼には似合わないように感じた。
「どうして叶わないの、まさかお兄ちゃんの彼女?」
「兄ちゃんなんかいねーよ」
ふうん、と相槌を打つと、無意識に彼の口調を真似たようになった。彼は少し息をもらして笑い、俺の真似?と聞いた。
「ていうか、そういう冗談言えるほどになんとも思ってないんだ」
最初から何とも思っていない、と、初めて姉とその彼氏への不満を人に話した。
「でもそれ、お前の姉ちゃん悪くないじゃん」
「あの人は気付いてるの、何があったのか。分かってて、わざわざ教室で騒いだのよ」
「それは……だとしたら、こえーなあ…」
最近は受験勉強のためという名目で下校時間まで居残っているらしい姉カップルがちょうど中庭から校門へと手を繋いで歩いているところだった。送り続けた視線も最近では気にされることもなく、二人は楽しそうに笑い合っていた。姉妹だからこそ、知りたくないことまで分かってしまう。姉が友達や彼氏と電話しているときの声は私の部屋までしっかり聞こえていた。
「あんな美人なのに」
まじまじと姉の姿を見ながら彼は呟いた。まさかねえ、と付け足された言葉にため息が出そうになった。
「もしくは、私が嘘を吐いてるだけかも」
驚いたように顔を上げた彼の視線から逃れるように立ち上がり、机の上を片付けて帰宅の準備を始めた。
「それは、ないでしょ」
「そう?」
はっきりとした声でそう言い切られたことが思った以上に嬉しかった。
「あんまりよく知らない人のこと、信用しない方がいいよ」
私たちのほかに誰もいない部屋の中に、あはは、と笑う彼の大きな声が響いた。
「大丈夫、結構人を見る目はあるから」
鞄を持って立ち上がった彼は私より頭一つ大きく、綺麗な手で私の頭をぽん、と一つ叩いた。
「私なんかよりよく見てるよね、サッカー部」
次の日も相変わらず二人で並んで座りながら、薄暗い夕方の風景を前に読書をしていた。彼は図書室に入ってしばらくは集中して本を読むものの、キリのいいところまでくると外を眺めることに集中しているようだった。
「まあね。あそこにいるから、俺の好きな人」
ちょうど監督の周りに集まった赤いジャージの集団を指して彼は笑った。
「ああ。石田さん」
時代おくれな金色の大きなやかんを持って立つマネージャーを見つけた。小柄で可愛らしい彼女は、確かに彼のような明るく爽やかなクラスメイトから密かに想いを寄せられていても不思議はなかった。
「彼氏いるんだね、あの子」
叶わない恋、という彼の言葉を思い出してそう聞くと、へ?と気の抜けた声が帰ってきた。叶わない、なんていうから教師にでも恋焦がれているのかと思っていたが、案外単純な話だったな、と考えていると、彼が、ああ、違うよ、と手を振って否定した。
「石田じゃないよ、好きな人。あいつの彼氏は、んー、多分いたと思うけど誰だったかな…」
ならばその隣の一年生か、と目を凝らしてみたが、顔すらよく見えない距離では何と言えばよいかも分からないので、ふうん、と返事をするしかなかった。
「あっちね、あの、端っこ。髪の毛結んでるやつ」
すっと私の背後に立って頭を挟み、顔の角度を調整して私の視界にわざわざ自分の好きな人を見せつける。
「え、遠藤?」
「そ、遠藤」
彼としょっちゅう一緒に教室でふざけている、彼よりも背の高いクラスメイトは遠くからでも一目でわかる。
「そう、なの」
「一番の親友。中学の頃からずっと」
そう言って席へ戻ると、頬杖をついてグラウンドを見つめた。
「叶わないだろ、これは」
自嘲気味に笑って机に突っ伏した。声のかけ方が分からず、かさついた醜い手で彼の背中を一つ叩いた。
「ま、本当のこと言いたくなくて、嘘ついただけかも」
「……ないでしょ」
私の言葉に、彼は寂しそうに笑った。
彼と二人で並んで座ることに違和感がなかったので忘れがちだったが、彼は良い意味で目立つ人だった。放課後に毎日図書室へ通っていることはいつしかみんなが知っていて、その隣に私がいることも徐々に広まっていた。
「付き合ってんの!?」
こともあろうに休み時間に興奮気味に尋ねたのは遠藤で、何を思ったか彼は、まあね、と作り笑いをして私の方へ右手を挙げた。
それを機に彼の周りにいたクラスメイトたちに男女問わずぽつりぽつりと話しかけられるようになり、テスト期間も重なって、放課後の図書室は少しの間混み合ってお喋りの場となった。当たり障りのない話で周りに合わせながら、それでも高校生らしいくだらない話で盛り上がるのはそこそこ楽しかった。テストが終わればすぐ、それぞれに部活やバイトで図書室へ集合することはなくなり、おい、今日はクリスマスだぞーと囃し立てる遠藤やその他の友人たちの声を背中に受けながら階段を上ったその日、久しぶりに窓際のカウンター席へ二人だけで座った。
「疲れた」
いつもなら荷物を置いて、まず、本を探しにいく彼が、どかりと椅子に腰掛けて呟いた。
「どうしてあなたと付き合ってることになってるの」
「……ごめん。毎日会ってる理由が他に思いつかなかった」
理由なんているの、と問う私に彼は目を丸くした。
「たまたま本を読むのが好きな人が図書室に入って、たまたま部屋の中で一番景色のいい場所で図書委員と隣り合わせに座ることに、説明できない理由なんてある?」
もう一度問い直すと、それもそうだな、と彼は頭を掻いた。
「サッカー部見るために座ってるってのがバレたらどうしようかと思って焦り過ぎた」
「告白でもしない限りはバレないわよ」
俺って嘘が上手いでしょ、と彼は言うが、本心を知っている者としては上手すぎる嘘が痛々しかった。
「辛くない?」
彼はうーん、と低い声で唸って、まあね、と頷いた。
「親友だからな、って言われるのは辛い。けど、他は楽しいよ。一緒に馬鹿できるのも、他のやつら含めて馬鹿騒ぎできるのも」
「馬鹿しかしないじゃん」
「同性の特権だわ」
楽しそうには見えない表情で、コーンの間をすり抜けてボールを蹴るジャージの群を見つめている横顔を一瞥し、私もなんとなく滑らかに動く遠藤の頭を目で追った。
「好きになったとか言うなよ」
「は?」
「あいつのこと。それだけはやめて」
突拍子もなく何を言い出すのかと思ったが、彼は真剣な表情で、突けば簡単に泣き出してしまいそうにも見えた。
「ならないよ、楽しい人だとは思うけど」
ここ数週間での遠藤を含めた彼の友人たちとのくだらない会話を思い返して、楽しかったことを確認する。少しだけ弛んだらしい私の表情に彼は一層悲しげに眉を下げた。
「それだけはだめだから。でも、もしそうなったら、隠すのもやめて」
「ならないから。大丈夫だって」
「……うん、ごめん」
心底申し訳なさそうにする彼に、悪いことをしたわけではないのにこちらも申し訳なさを感じた。
「俺、お前と一緒にここからあいつ見てるのが一番楽しい」
それがいいことなのか悪いことなのかは分からなかったけれど、辛いばかりの片想いにも楽しいと思える瞬間があるようでよかったと思った。
「だから、私は見てないんだって」
そうだった、そうだった、とわざとらしく頷いて笑った彼の笑顔が久しぶりに作り笑いではなくて安心した。
クリスマスだし手でも繋いで帰る?とふざけ始めた彼の誘いで一駅だけ歩き、駅前のカフェでココアを一杯だけ飲んだ。粗末な街路樹にさえ丁寧なイルミネーションが施されている。
「はい、チーズ」
突如彼の顔が近づき、内側へ向けられたスマホ画面に写った私は間抜けな顔をしていた。
「消してよ」
「やだ。クリスマスの思い出」
楽しそうにスマホを操作した彼は、頼んでもいないのに写真を送ってきた。
「いい写真だろ、親友」
そう言って肩を組まれながら駅までの僅かな道を歩き、確かにこの距離感は付き合ってるとでも言わないと誤解を招くなとぼんやり思った。
年が明け、あっという間に姉とその彼氏が卒業し、私たちは三年になった。彼とも遠藤とも、また同じクラスになった。意外にも大学進学を目指すらしい遠藤はその他何人かの同級生たちと同様、さっさと部活を引退した。その頃には、姉はあの彼氏と別れて、大学で出会った別の彼氏と付き合いだしたらしい。
私は相変わらず図書委員として図書室に入り浸り、彼は部活を引退した友人らと放課後を過ごすことが増えた。それでも時々ふらりとやってきて静かに本を読み、下校時間間近、確実に部屋の中に二人しかいないことを確認して、泣きそうな声で遠藤の話をした。私は自分の本を読んだり勉強したりしながら彼の話を聞き流していただけだったが、彼は話し終えるといつも、ありがとう、と言って席を立った。
夏休みに入る前、彼が一度だけ、学校へ来るのが辛いと涙を流した。
好きな人に会えると嬉しい。その人と仲良くできるのも嬉しい。けれど、絶対に自分の気持ちに気づかれないように、絶対に表情や態度に漏れてしまわないようにと気を遣うのは辛い。この場所が避難場所だった。放課後は図書室へ、と思えば乗り越えられたものが、だんだん遠藤と過ごす時間が増えて辛くなる。好きなのに、友人として、いい仲間として思ってもらえているのに、自分が全然違う感情を持っていることが辛い。
ただ聞き流すだけの私に、彼は静かに涙を流しながら小さな声で話した。泣いていることに自分でも気がついていないのではないかと思える程に自然に溢れ落ちる涙だった。
「やめれば?」
私の声は冷たい。感情が読み取りにくい、冷静すぎて怖い、と家族に言われることさえある。はっきりと物を言い過ぎるから冷たい人だと思われるのよ、もっとお姉ちゃんみたいに、と叱る母は、見た目も性格も姉によく似ている。
「なにを?」
縋るような目で私を見上げる彼が、いつもよりずっと小さく見えて不憫に思えた。
「あいつのこと好きなのを?無理でしょ、どうやって」
「告白でもする?私みたいに」
お前はしてないんだろ、と彼は鼻を啜った。少しも疑われていないのだということをこんな風にしか確かめられない自分の性格に嫌気が差した。
「じゃあ、学校やめれば?」
「いや、現実的に無理だろ」
いつの間にか彼の涙は止まっていた。
「真面目に相談してんだから、真面目に考えてくれよー」
そう言う彼の表情は、あっという間に明るくなった。雑に涙を拭って、今更恥ずかしそうにしている。
「なんかない、いい解決法。ちょっとでいいから楽になれる方法」
「毎日来れば、図書室」
「けど、用がないときはあいつらと帰るのが習慣だからなあ。なんて言えば…」
「付き合ってるんでしょ、私たち」
彼の顔を覗き込むと、きょとんとした顔をして、それから笑顔を浮かべた。
「ほんとだ、そうじゃん。俺、お前の彼氏だったわ」
「ま、私の委員も夏休みの係が終われば終了だけど」
読み終わった本を片付けに立ち上がると、は!?と大きな声で彼が叫んだ。
「だめ、お前が提案したんだろ。委員じゃなくていいから、九月からもいろよ、ここ」
カウンター席をバンバンと叩く彼に片眉を上げて、なんでよ、と面倒くさそうに言う。
「彼女だから。俺に付き合え」
自信満々に言った彼の言葉に少しだけ胸を締め付けられつつ、悪態を吐いておいた。
「こんな横柄な彼氏、やだ」
彼は、たしかに、と笑った。
初めの退学届を提出したのは夏休み明け初日の放課後で、その日は放課後に彼が図書室へ来なかったけれどそれは関係のないことだった。進路希望票に何度も就職と記入しても、懇談へやって来る母は自分や姉と同じ大学への進学を考えているのだと担任へ説明し、この成績なら問題ありませんよと言った教師は進路表のチェックに二重線を引いて大学名を記入した。何度話しても聞く耳を持たない母に嫌気がさして教師に相談してみても、何ならもう少しレベルの高い大学はどうかと的外れなアドバイスをされて丁重に断った。とりあえず親御さんとよく話し合いなさい、と言われて夏休み中、事あるごとに進学しないで働きたいと主張してみても、そんな我儘を、とか、どうして私の気持ちが分からないの、と泣き出す母に辟易するばかりだった。いっそのこと学校を辞めようと書いた退学届だったが、あっさりと受け取りを拒否され、また、親御さんと話し合いなさい、という決まり文句で一蹴された。すぐに連絡が入ったらしい母が、帰宅した私を待ち構えて怒鳴りつけ、運悪く仕事が早く終わったらしい父が玄関先で言い合う私たちを大声で叱りつけた。
「そんなに嫌ならさっさと辞めろ」
最後に私に言い渡された父の言葉に、そうする、とだけ答えて書いた二枚目の届出も、涙声で担任へ電話をかけた母の声で阻止されたものの、三枚目を提出する頃には無駄だと思ったらしく、止めが入ることはなかった。最後の登校日に、彼から図書室へ行かないかと問われて、そういえば夏休み明けから一日も行っていなかったと思い出した。
「俺、毎日きてたのに。お前がいないんだもん」
拗ねたように口を尖らせた彼は幼い子どものような顔をしていた。
一学年下の新しい図書委員の後輩に閉館の時間を告げられるまで読書をし、彼の小声での話を一方的に聞き流して私たちは帰路についた。家の方向は真反対で駅まで並んで歩いたことはほとんどなかったが、その日は彼が話し足りなかったのか、私の使う電車の最寄り駅まで話しながら歩いた。
「じゃ。今日もありがと」
手を振って自分の帰宅方向へと振り向いて歩いていく彼の後ろ姿を見送って、私の高校生活はあっさりと終わった。
「次の日、学校行ってびっくりしたわ。お前が退学したなんて、前日までめっちゃ普通だったのに」
仕事を終え、真っ暗な中、近くの公園のベンチで話す彼は、先ほど私を見つけたときほどは怒っていないようだった。それどころか、なんかあった?と尋ねる声はどこまでも優しかった。
「何も。進学せずに就職したかっただけ」
ふうん、という彼の相槌が懐かしく私の鼓膜に響く。
「相談くらいしてくれれば……」
「どうにもならないでしょ、家のことだもの」
「そうかもしれないけどっ」
勢いのままに言葉を発しようとした彼が奥歯を噛んで声を飲み込んだ。眉間に寄せられた皺が、少し会わない間にずいぶん大人びたように感じさせた。
「俺さ、俺はお前にいろんなこと話してたのに、お前のことはほとんど知らなかったって、お前がいなくなってから気づいた」
手元に握りしめた缶コーヒーへ視線を落としたまま、彼は言った。
「連絡先は知ってるけど、未読にされたらそれ以上どうにもできないし。家の場所も知らない、バイトのこととかお前の悩みも、なんにも」
相変わらず綺麗な手でプルタブを起こし、もうぬるくなっているであろう甘ったるいコーヒーをひとくち含んだ。
「一方的に話してばっかで、聞いてもらってばっかで、でも、俺はお前といるのが楽しかったし、図書室からグラウンド眺めてるのも、一人じゃ辛いだけだったんだろうけど、やっぱり楽しかった」
「本当?」
大きく頷いてこちらを見た彼に、よかった、といつか感じたのと同じことを再び思った。
「俺さ、卒業式の日に告白したんだ、遠藤に。あいつ、めちゃくちゃ焦ってたよ。はっきり断られたし、謝られたし、それ以来、たまに電車で会っても気まずいけど、すっきりしたよ。新しい大学生活も楽しんでる」
「よかったね」
「うん。お前からのメール見て、やり残したこと作らないようにって思って、で、あいつ呼び出して伝えてきた。で、報告しようと思って連絡したらブロックだろ?お前、なんなの、ほんと」
苛々を口にしながらも口調は軽い。一年前と変わらない彼に安心した。
「もう、無理して作り笑いしなくていいんだね」
私が言うと、彼は頷いた。
「よかったね、ほんとうに。これからは、隠さずに恋愛できるといいね」
彼の笑顔は優しかった。
「また話聞いてくれよ、やっぱり俺、お前と話すの楽しい。一番の親友だわ」
「私の高校生活は、あなたのおかげで楽しかった」
「俺も」
前を向いた私は、同じように前を向いた今の彼にまた会いたいと願うことはきっともうないけれど、あの頃の彼に伝えたいのは、ただあなただけを愛していたということだった。どんな世界にもあなたを愛する人はいる、と今の彼に伝える必要はない。
「よかった」
思い出が辛いばかりでなくて、本当によかった。
放課後の図書室 @mana_m
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