第22話 新世界より

 3時ちょうどをホール内の時計が指すとコンマスの号令でチューニングが始まり、それが終わると顧問の先生が入ってきた。


「えー、今日はね、ギャラリーの人がいますが、気にせずに、いつもの通りにやっていきましょう」


 何人かが客席の方を向いた。俺もリーヴァの方を向くと、彼女は軽く会釈をしていた。


「高2の転校生がうちの部を見たいということで。影山の紹介で来たそうだ。な、影山」


 先生がこっちを向いてニヤっと笑った。余計なことを。ほら、部員が一斉にこっち向いてしまったじゃないか。恥ずかしいなぁ、全く。この先生のこういうところは嫌いである。


「どうも彼に懐いてるらしくてね。いろいろと噂は聞くけど……」


 流石にもうやめていただきたい。おひれがついた噂を喋ってもらっちゃ困る。そもそもプライバシーの侵害だ。


「まぁまぁ先生。俺のことはいいですから」


 俺は苦笑して先生にそう言った。ちょっと早口だったかもしれない。


「おう。じゃあ雑談はこれくらいにしよう。知りたいやつは影山に直接聞きゃあいいんじゃないか?」


 クソが。あの一件があるにもないにも関わらず、俺は目立つのが好きじゃないんだ。こういう時は直帰するに限るが……今日会議あるから逃げられないじゃないか。めんどくせぇ……。


 でもまぁ、起きてしまったことは仕方ない。切り替えていこう。


「第1楽章のアタマから」


 先生が指揮棒で譜面台を叩いて合図した。ついで先生が指揮棒を挙げ、初っ端から弾くパートが構えた。俺の場合は違うから、ここは待つ。


 そして先生が指揮棒を振って、チェロとヴィオラがメロディーを弾き始めた。


 ドヴォルザーク作曲、交響曲第9番「新世界より」。第2楽章のメインメロディーと第4楽章の冒頭が超有名な曲である。


 第1楽章はチェロとヴィオラの哀愁漂うメロディーで、静かに始まる。ここは音程が狂うことが多いんだが、今回は割とうまく行っていた。先生もグーサインを出していた。


 そこが終わるとホルンが二回同じ音を吹く。あ、ひっくり返った。


 そして、木管がさっきのメロディーと似たような旋律を弾き終わると、俺たちの出番がやってくる。


 本当にここは急に雰囲気がガラッと変わる。まさに、まどろんでたら船の汽笛に起こされた、という感じで。そうだ。第1楽章は昔の蒸気船をイメージするとわかりやすい。まぁこの作品自体、作曲者が祖国から離れてアメリカにいた時に書かれた作品だし。


 その後はのどかな田園風景を思わせる部分と、やや緊迫した部分を行ったり来たり。穏やかな部分で吹かれるフルートは、個人的には第1楽章で一番のお気に入りだ。俺たちのパートだとそこは伴奏だが、それも別によくなるぐらい。


 前半の繰り返しは無視とのことで後半へ。連符の難所をくぐり抜けると、刻み刻みアンド刻み。もとより伴奏がメインの役割のセカンドヴァイオリンだから、メロディーはあまり弾かせてもらえない。それでも「俺たちが屋台骨を支えてる」という自負はある。


 前半と転調した部分を終えると、第1楽章はもうじき終わる。楽章のテーマをヴァイオリンが弾き、そこにトランペットが入る。そこからはヴァイオリンが音階を下がっていくように不穏なメロディーを刻んで……ちょっと先生、速くないですか?


 まぁ確かにここらへんを速く振る人はいるけど……いや、速い速い速い!


 崩れぬよう、細心の注意を払う。前席にいるパートリーダーを見て、先生を見て、テンポからずれないように……。


 そしてなんとか最後の和音を弾き切り、第1楽章を完走した。気づかずに力んでいたみたいで、先生が指揮棒を下ろすと力がどっと抜けた感じがした。ため息もついた。


「おし、お疲れさん。ちょっとこっちがはしゃいじゃったけど、すまんね。少し休憩したら、最初のホルンの二発のとこから見てこう」


 先生がそう言うと、みんな一斉に自分の練習を始めた。まぁこういうもんである。俺は一服入れようと水筒のお茶を飲みつつ、客席に目を向けてみた。


 あれ、いない。


 どこに行ったんだ。心配になって辺りを見回してみると、舞台の前にいた。目が合うと、彼女はこっちに向けて手を振った。あの様子だと、楽しんでもらえたようだ。


 俺は楽器を置いて舞台から降りた。


「よっと。どうだった?」


「最高!」


「うぉ」


 ちょっとびっくりした。だいぶハイテンションだなぁ。それで困るわけじゃないけど。


「オーケストラってすごいのね! 全然違う楽器が、全然違う音を出すのに、まとまった一つの曲ができちゃうって!」


 目を輝かせながら、とても楽しそうに彼女は語っていた。


「最初のところはびっくりしたわ。デーデッデン!って!」


「ハハ……」


 身振りなんて使っちゃって。本当に彼女は見ていて微笑ましい。感情豊かで、可愛くて……


「お熱いとこ悪いが、もう始めるぞ」


 先生がそう言ったのを聞いて、後ろを振り返ると、部員がこっちの方を見ていた。


 ……ああぁあぁあ、と叫びたくなる衝動を我慢し、恥ずかしさに耐えながら、


「……はい、今戻ります……」


と、消え入りそうな声で言い、自席へ戻った。


 午後4時に合奏が終わると、高2は部室で会議である。さすがに非部員であるリーヴァがいるのはまずいかと思って部長に聞いてみたら、


「え? 別に構わないよ」


と、快く受け入れてくれたので、見るだけではあるものの、リーヴァも同席することになった。


「それでは序曲決めを始めようと思います」


 部長がそう言って、会議が始まった。


「出された案について、順番に書いていきます。まず、ドヴォルザークの『謝肉祭』」


 なるほどねぇ、有名だ。けどムズイから嫌だなぁ。


「ヨハン・シュトラウス2世、『トリッチ・トラッチ・ポルカ』」


 ニューイヤーコンサートじゃないんだぞ。まぁ別にいいけどさぁ、ねぇ?


「ベートーヴェン、『コリオラン』」


 たまにエグモントとどっちがどっちかわからなくなるんだよなぁ。


「シベリウス、『フィンランディア』」


 はい。俺はこれで文句無いんだ。これで終わりかと思ったが、部長はもう一つ曲名を読み上げた。


「ワーグナー、『ワルキューレの騎行』」


 は?


 結局俺たちのフィンランディアは序盤で競り負け、他の候補も落ちていった結果、謝肉祭とワルキューレの騎行の一騎打ちとなった。どうやら同輩には予想よりワグネリアンが多かったらしい。俺はどうなのか? 嫌いじゃ無いけど好きじゃない。食わず嫌い的な感じは否めないけど。


 正直言うと謝肉祭の方が曲としては好きだ。けれどウチの部には荷が重すぎるし、俺も完璧に弾けるかどうかはわからない。だからワルキューレの騎行に票を投じた。決してリーヴァが原因ではない……はず。


 そして実に2票差で、次回の定演の序曲は『ワルキューレの騎行』となったのである。


 定演の雰囲気? 知らんがな。

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