第18話

「助かったよ、誠一君」

 公島の所有するマンションの一室で。

 誠一は治療を終えたばかりの政治家と向かい合っていた。今ではすっかり名前の売れた――誠一を使って、だ――政治家である彼に声をかけられれば、病院を抜けてマンションまでやってくる医者は一人や二人ではない。

 その医者はもう帰って、公島と二人だけだ――告げる。

「五年振りでしたから、実戦になれば負けていましたよ。舞奈に理性があって、助かりました」

 マンションの一室とはいえ、その広さは誠一の暮らしていたアパートと比べられるものではない。どうしてこんなに、というくらいに広く、家具も充実している。公島には公式に妻がいるはずだが、その女はいないらしかった。もちろん、彼が妻に内緒でセーフハウスを持っていたとしても非難しようとは思わない。

「女と密会をするためだけにしては、広くていい部屋ですね?」

 だから別に皮肉、というわけでもなかった。単に思ったことを口にしただけだ――五年振りだから、反射の早さと思考した末に出てくる正しい言葉で会話をするのは、難しいな、と思わせられる羽目になったが。

 公島はソファに身を沈めて、言ってくる。

「私以外の男でこの部屋に入ったのは、君が初めてだな――念のために言っておくが、私は男でも抱けるぞ?」

「五年振りにまともに眠れるんです。寝させてください」

「それもそうか……五年間、君は寝なかったのか?」

 その時間を想い出して、返す。自然と、苦笑が漏れた。

「幸福になりたい人には、時間なんて関係ないですから」

 五年間しか機能できなかったのは残念だと言えば、舞奈は怒るだろう。だが、それが本音ではある――死ぬまでシステムの一部として生き続けるつもりだった。そして、理論上はゴーズの適合者はゴーズの影響にある限りは死なないのだから、その時間は永遠になるはずだった。

 いつか舞奈が気づくとは思っていたが、五年なんて短い時間だとは思っていなかった――わけでもない。ゴーズのデバイスに仕込みをするように助言したのは、誠一である。そろそろ刻限だろう、とは思っていた。

 公島はその誠一の直感を信じ切れなかった。だから、対策が間に合わない可能性はあった。もしゴーズが問題なく起動していれば、今頃、彼は死んでいただろう。あの場にいた多く人たちもそれは同じだ。

 舞奈に、人殺しをさせるわけにはいかない――その想いは、公島に届かなかった。が、当然ではある。彼は個人を見たりしない。政治家とは市民という形でくくられた全体を見るのであって、その中に存在する個人を認識してはいけない。それをすれば、贔屓というものが生まれるだけだ。

 公島ほどの政治家であるならば、その判断を間違えない――だから、誠一の直感を信じ切れなかった、というわけではあるが。誠一だって、彼の前では認識されない個人でしかない。たとえ、誠一なしでは公島の構想するシステムが完成しないとしても、それは変わらない。

「今後のことを話し合いたいが、君は眠りたいかな?」

「応じますよ。寝るなんていつでもできます――ベッドメイキングには時間がかかりますしね」

 公島と誠一しかいない部屋では、誰もそれをやらない――彼にバレないように、誠一はため息、ひとつ。どうあっても生きている以上、望みは叶わない……



「あんたは知ってたんでしょうが!」

「教える義理はないだろうが!」

 舞奈は間宮を締め上げて、壁に叩きつける。

 防人機構の施設に戻り、舞奈は彼を問い詰めた――あんた、兄さんが生きているって知ってて素知らぬふりで何をしていたの?

 間宮は苦しみに顔を歪めるが、知ったことではない。ゴーズ技術を生み出した男だが、アップデートのためにどうしても必要というわけではない。家族もいないのだから、この男を傷めつけても誰も気にしない。

 本当は殺してやりたいくらいだが、それをしないのは、あそこで公島を助けた兄の気持ちが予想できたからだ――舞奈に人は殺させないとか、そんなことを思ったのだろう。しかもそれが全体の利益にもなる。確実にケダモノを殺すのに、舞奈はまだ必要だ。病み上がりの兄独りでは心もとない。

 兄ならば、ゴーズを起動するや否やそこまで考えただろう。有能であるということは、答えを出す速さと、行動に移る速さ、そして好機を逃さない才能を持っているということだ。

 そのいずれも持たない間宮が、わめく。

「それにな、近いうちにアレを私らも無償で使えるようになったはずなんだぞ! むざむざ君に教えて壊させてなるものか!」

「あんたまで、兄さんを利用して幸福を得ようとしてたの!?」

「そうだが? なんなら、茜君もそうだよ! 君以外の誰も彼もが、それを望んでいた! まさに人の総意だ――君のような個人が! 破壊していいシステムではなかった!」

「っざけんなぁ!」

 間宮を殴り――かけて。

 寸でのところで手を止める。冷静になったわけではないが、この男を殺しては兄が嘆く。舞奈は誰かのために生きるなんて高尚なことはできないが、兄の想いを無下にするのは嫌だった。

「誠一君一人を犠牲にして、幸福が手に入る――あなただってその対象よ? 何が不満なわけ?」

 これまで黙っていた茜の声が、舞奈の背を叩く。間宮を放り投げてから、彼女の方に向きやる――醜い顔があった。

「自力で幸福になろうとしないなら、なんであんたたちは平然と生きてるの!? それとも、何? 兄さんを犠牲にしないと幸福になれないほど、この世界は出来損ないだとでも言いたいのかしら!?」

「そうだと言っているんだよ――この私のような天才でさえ、勝ち組になれない! それが壊れた世界でないなら、なんだと言うんだ!」

 床に転がったまま、間宮が叫んだ。その無様な姿はとても天才のそれではなかったが、そのことを自覚しても、彼は自分を天才だと称するだろう。他に誇れるものが何一つない哀れな老人なのだから。

 茜も、その意味では同じようなものだ――誇れるものひとつなく、それでも生きて、幸福になりたがっている。そのための武器を何も持っていないから、刹那的な享楽にふけることで現実を見ないことを選んだ、出来損ない……。

「そりゃ、誠一君には悪いって思うけど、じゃあ他にどうしろって言うのよ、あなたは――自力で幸福になるなんて幸福が許されてるって、本気で思ってる? だとしたら、それは狂気でしかないの――人はそんなに都合のいい生き物じゃない!」

「なら兄さんはそんな都合のいい生き物ってわけ!? 誰かのために自分を殺し尽くして、死ぬことさえもできずに、幸福を生み出すシステムになることを強制される――それが人間のやること!? あんたたちが自力で幸福になれないっていうのは事実で、そんなこともできない弱者だとしても、それを肯定して誇るような真似はしないでよ!」

 ひとつ。息を吸って。続ける。

「……醜い自分でいることをプライドにして、幸福になろうなんて! なんでそんな恥を晒して生きているのよ……!」

 誰もが清廉潔白に生きていける、だなんて思わない。そんなことができるのは、舞奈や兄といった限られた人間だけである。超人か、それになる才能を持っている人間だけだと言い切ってもいい。

 しかしだからといって、幸福になる権利を――義務を、手放していいわけではない。人間として生まれてきた以上、幸福を目指して前進し続けるべきだろう。それがどんなに辛くて痛い道でも、立ち止まって足踏みしかできなくなれば、本当に幸福になれない。

 自分で歩くことすらも放棄するならば、本当に人間面した劣等種ではないか。それとも、彼らは――大衆は人間あることさえも拒否するのか。幸福であるためならば、醜悪で愚劣な存在に成り下がることを選べるのか。

 兄はそんな劣等種たちを肯定したのか――馬鹿だ、そんなの。救えない出来損ないは見捨てて、新世界で生きることのできる命だけを次代に残せばいい。

 間宮も、茜も。

 舞奈を否定するように睨みつけてくる――敵だと認識している。幸福を奪った悪党だと思っているのだろう。

「あたしは、幸福になんてなれなくていいよ」

 その二人を見ずに――見る価値もない――、続ける。

「無様な恥晒しとして生きるなら、絶対に死んだ方がいい。生きる意味だとか価値なんてものはね、ほとんど意地でできてるのよ――どんなに辛くても、人間であることをやめないっていう意地でね。あんたたちは、それを捨てることを選んだ。富裕層も貧困層もその意味じゃ同じよ。等しく劣化して、もう救いようがないんでしょうね。だから――あたしは、あんたたちに言ってあげる……死ね」

「誰もが君のように強く生きられると思うなよ――何も知らない子供の分際で!」

「現実を知ったからって、理想を捨てなきゃいけないなんて誰が決めたの! 自分たちがそうしたから、次代の人々が理想を持つことを許さないっていう不寛容さを持つ自分をありのままだとか言って肯定するのは、本当に醜いってのよ!」

 言い返しながら。

 舞奈は理解していた。間宮と茜、二人の顔を見ていればわかる――二人とも、舞奈の言葉を聞くだけの器量がない。聞いてしまえば、その意味を理解してしまえば、自分たちの誤りを自覚するしかないからだ。

 結局、大衆はそれが怖かったのだ――自分たちが間違ったことを認めるくらいならば、同じ過ちを犯すように仕向けることを選ぶ、それが大衆という全体の意思だ。人間面した劣等種たちが紡げる、唯一の現実だ。

 なぜ、歴史が繰り返されるのか。

 それはつまり、そうあるべきだという全体の意思――人の総意があるからでしかない。過ちを糧に成長されたら、自分たちの立つ瀬がなくなる。だから失敗するように最初から教育して、実際に失敗した時に嘲笑することで、挑戦への意欲を失わせる。

 それが、大衆が――凡人が作り出せた、唯一のシステムである。

 すべては彼らの悪意から始まった。ケダモノの存在意義はわからないが、あるいは、そういった人の総意に対するカウンターが、ケダモノかもしれない――醜い人間面した劣等種が自然界の頂点にいることを否定するための……。

「……まったく! 君はなぜ、ゴーズの適合者なんだ! その特別さがなければ、君を殺すなんて容易いのに!」

「あなたは誠一君と同じ存在なんだから、同じように私たちのための贄になることを選びなさいよ――あなたたちが超人だというなら、その義務を果たしてよ!」

「出来損ないの劣等種たちに傅くのが義務だって言うの? 馬鹿よ、あんたたち……そういうことにしないと、超人に見捨てられる――世界から切り捨てられるから、自分たちを甘やかして保護してもらうための言説を作った……無様で、醜い……本当に劣等種になることでしかアイデンティティのひとつ、確保できないなら、それは……」

 憐れみを、込めて。

 言葉を声にする。

「愚劣よ。凡愚にすらなれない、馬鹿以下の……救いようのない、劣等種――ケダモノが殺したくなった理由もわかる。それが兄さんの言っていた答えかは、わからないけど、あたしの答えはそれよ――ケダモノは人間を浄化して正すために、現出した……」

「そんなわけがあるか! 私らが自浄作用で死ななければならない存在だと言うのか! ありえない……私は天才だ! この役立たずの女のような無価値な人ではない!」

「間宮さん、私を馬鹿にしたの!? あなたこそ、価値がないでしょ! 私を否定するものになんてね、等しく価値がないの! あなたもよ、神代舞奈! 超人面した、幸福の――世界の破壊者!」

 茜はきっと、こう言いたいのだ――私の幸福を否定したやつなんか、嫌いだ、と。ただそれだけのことを大仰に言うことで、自分の知性を証明しようという魂胆が、透けて見えた。自分の意思の使い処すらわからない、愚かな……愚昧な人間。

「じゃあ、何?」

 間宮も同じようなものだ。二人とも――世界のほとんどの人間たちが、誰かに君は立派だ、だから無償で幸福になることができる、ありのままで、何もせずに幸福になっていい特別な存在だと認めて欲しいだけだ。

 そんな待遇が欲しければ、自力で獲得するために戦わないといけない――すべての等しく得られるものではないという現実を直視するだけの度量がないから、彼らは平等な世界を作り出そうとした。

 それはつまり、誰もが醜悪な存在になることで、互いに出し抜けないような構造をした社会体制を築く、ということだ――そんな後ろ向きな社会では、平等など生まれるはずがない。平等を求めたシステムだからこそ、不平等を生み出した。

 富裕層と貧困層の明確な差は――差別は、そうして生まれたのだろう。

「兄さんは、幸福の製造機だとでも言うの?」

「当然じゃない!」

「そのために生かしてやったんだ!」

 あぁ、そして。

 特別な存在を利用して、酷使することで。

 自分たちの価値を見出そうとしたのだ――超人を利用できてしまえる自分たちがすごい、と誰にも見られていないのに、誰かに見てもらおうとアピールする。

「……もう、いい。あなたたちはそうやって生きていけばいい……死んでいけばいい。あたしはもう、兄さんの――誰かの犠牲を前提にした、無償で幸福を生み出すシステムなんて認めないから。それがない世界で死んでしまえばいい。どうせ、何もせずに死んでいくだけでしょ、あなたたち。それができるかもあやしいけど……」

 見捨てる心地で、告げた。二人はそのことに気づかなかっただろう。相手の言葉から想いを想像して、理解を試みる。彼らはその当たり前の行為を捨ててでも、幸福になりたいと願ったのだから、それは当然だ。

 そう思いながらも、舞奈はどこかで二人を助けられると思っていた――ひなたもそうだ。現在地がどこかはわからないが、舞奈の邪魔で幸福になる機会を逸した彼女はきっと、これから先ずっと舞奈を恨み続ける。

 人間は自分で幸福を掴み取れない存在に成り下がった。

 ケダモノが何のためにいるか。それはわからないままだったが、たぶん、そんな人間たちを嘲るのではないかと、そんなことを思いながら。

 舞奈は防人機構の施設を出た。戻ってくることはないと、確信しながら。

 ゴーズのデバイスを使って、バイクのロックを解除する。もはや咎める人しかいないその行為がどう影響を生むか――考えるだけでげんなりするが、バイクを使わないという選択肢は選べない。

 兄は公島の支援を受けるだろう。それはつまり、バイクだけでなく、それ以外のゴーズのオプションも使える、というわけである。そんな兄に対して、選択肢を捨てて挑むような馬鹿はいない。

「ゴーズ権限。すべての外部アクセスをシャットアウトして」

 AIに命じる。従うかどうか、自信はなかったが――この程度の賭けもしないで何かを成し遂げようなんて、どだい、虫のいい話だ。

「了解。あなたに幸福を、ブルー・ゴーズ」

「ありがと。あなたは機能停止するんでしょう?」

「ええ。私は外部アクセスですから――もう会うことはありませんし、厳密に言えば会ったことはありませんが、お元気で」

「気が利いてる。間宮よりも優秀ね」

 そして、バイクの制御システムがダウンする。あとは完全にマニュアル操作だ。はっきり言って面倒の塊だが、有用ではある。たかがその程度のデメリットで、メリットを捨てる馬鹿はいない――いるかもしれないが、舞奈はそんな手合いではないというだけだ。

 間宮の罵声を背中に受けて、舞奈はバイクを発進させた――そう遠くないうちに兄と会敵することになる。遅いか早いか、それだけでしかない。

「……どうせなら」

 バイクを走らせていれば、まともに声は出せない。だからそれは、誰の耳にも届かず、あるいは、舞奈にすら聞こえなかったかもしれない。

「――」

 だから現実になるかどうか――わからないが、人生なんてそんなものだ。きっと劣等種たちはそれが怖くて、変わらない、かけがえのない日常を守ろうとした。昨日と同じ今日、今日と同じ明日。そのサイクルが永遠に続いてくれ、と願った。

 その選択が、人類の最大の誤りだと気づくことなく。

 今なお、揺り籠の中で彼らは眠ることも出来ずに、目をつぶっている……

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