第49話 差し伸べた手は掴まれず
遠方で朝焼けが見えた。夜の暗闇が払拭されて陽光が輝きで大地を照らし始めていく。
聖剣が大地に突き刺さる。柄を杖のようにして立つ怜司の顔には極大の疲労。いくつもの汗が額から流れ落ち肩が大きく上下していた。
桜も刀を構えたままではあるものの、同じような状態だった。ふらつく身体を足がなんとか踏み止める。
蒼麻にいたっては立つ力を失い、地面にへたり込んでいた。杖に飾られた宝玉は光を失い、持ち主の魔力が尽きていることを示していた。
対して悠司は戦い始めたときとなんら変わりがなかった。顔には汗ひとつ滲まず、呼吸には全く乱れがない。涼しげな顔をしたまま、長時間の激戦を経た三人を見下ろしている。
「だから言っただろう。本当か、と」
悠司の言葉と、桜とのやり取りの意味が今になってようやく怜司と蒼麻には理解できた。一進一退の戦いの中で機会を窺えばいい、という自分たちの考えの甘さを実感した。
相手はただの人間ではない。無数の意識によって構築された無限を体現する存在。そんな存在に体力などという概念が付随しているはずがない。
つまり、怜司たちが長期戦を覚悟した段階で敗北は決定されていた。そのことに気づいていたのは桜だけだったのだ。
「くそ……!」
悪態をつきながらなんとか聖剣を構えるが、怜司にはそれが精一杯だった。
「無駄だ。お前たちは所詮は人間。筋肉に疲労が蓄積しているし脳は睡眠を必要としている。これ以上は戦えないんだよ」
悠司が厳然たる事実を淡々と述べる。
「肉体という制限からお前たちは逃れられない。精神なんてものは、お前たちにとっては脳の化学反応に過ぎず、それ故に肉体の限界を超越することはできない」
悠司は怜司の前に立ち、片手を掲げる。目の前に立つ仇敵に斬りかかる体力さえ怜司には残されていなかった。
悠司の手から漆黒の杭が放たれて怜司の足を貫く。
「ぐぅううっ!!」
苦悶の表情を浮かべる怜司を悠司は冷静な目で見ていた。
「よく戦った、とは思う。同じ異世界人としては驚く他ない。これだけの長時間戦える精神力は感嘆に値する。よく鍛え、よく練り上げたものだ」
悠司の腕が横に伸ばされ、手から杭が射出。奥にいた蒼麻の腕を貫いた。女の苦痛の声が響く。
「だが、やはりここまでだ。世界の全てを相手取る我らに対して、たった三人で挑んだのが間違い。それは前回となんら変わりのないことだ」
「ち、違う……!」
苦痛の表情を浮かべながらも怜司は否定の言葉を口にする。
「俺たちは、お前たちから救ってほしいと願う人々の想いを背負ってここにきたんだ……たった三人なわけじゃない……!」
「ふぅん」と悠司は喉を鳴らした。
「同じことだ。百や二百、千や万ではまるで足りない。対等に戦いたいのであれば、世界の全てをそのまま持ってこい」
「なっ……!」
「何を驚くことがある。お前たちが相手にしているのはそういう存在だ。知らなかったのか?」
今更か、と悠司は呆れていた。だが怜司の油断も慢心も、今となっては悠司にとって興味のない事柄だった。
そんなことよりも、彼には重要なことがあった。
「桜」
親しい友に呼びかけるような声音で、悠司は彼女の名前を呼んだ。桜の前まで行って、その腕を取った。
「俺たちと一緒に来い」
「え」
桜の目が見開かれる。
「詳細までは知らないが、お前は俺たちと戦うことを嫌っている。だが怜司は強制している、そうだな?」
「……それ、は」
「いや、やはりこの質問には何も言わなくていい。ただ一言、行く、と答えてくれればいい」
桜の瞳が揺れる。行く場を失い彷徨っていた。最後には、決心したように悲しげに目が伏せられる。
「……行けない」
「どうしてだ?」
優しい声で悠司が尋ね、悲哀混じりの笑みを桜は浮かべた。
「私は、お前ほど強くないから、な」
「…………そうか」
桜の一言で悠司は全てを理解した。自分が犯した過ちと、桜の想いの全てを。
たったひとつの抵抗として、悠司は腕を掲げた。
「なら、お前のためにこいつらは殺すべきか?」
「それはよしてくれ。嫌いなわけでも、憎いわけでもないんだ。仲間だし、友ではある。そう思ってはいるんだ」
首を振る桜を見て、掲げた腕を悠司は下げる。
「行くことも、戻ることもできず、立ち止まることも苦しい、か」
「……ああ。そのとおりだ」
「すまなかった。怜司といればいい、などと思った俺は本当に愚かだったよ」
「いいんだ。私も……何も言ってやれなかったからな」
桜の腕を離して、悠司の手が彼女の頬に当てられる。汗で張り付いた髪。疲労を色濃く映す瞳。そんな姿でも悠司には美しく見えていた。
「──流されるままでいい。俺たちが赦す。待っていろ、いつか迎えにいく」
「いい、のか?」
「ああ。どうしようもない苦しみは、だからこそ救われるべきだ」
悠司の手に桜は頬をすり寄せる。
「なぁ。どうして、こんな愚かな女を好きになったんだ。どうして今でも、助けようとしてくれるんだ」
「簡単なことだ。俺とお前は似ているからな」
悠司はかつて桜が自分に向けて言ったことの意味を、やっと理解していた。自分たちは似ている。どうしようもないほどに。
「……そうだな」
桜は目を伏せる。頬に触れた手の熱を感じるために。その温かみを忘れないために。
ふたりの間に沈黙が流れる。言葉はそれ以上いらなかった。
だが終わりは必要なもの。名残惜しげに悠司は桜から手を離した。その手を桜の瞳が追いかけた。
「失せろ。俺たちにはやらなければならないことがある。お前たちにこれ以上、構っている暇はない」
「くっ、俺はまだ……桜!」
「私たちの負けだ。ここは退くぞ」
リヴァイアサンとしての裁定を告げる悠司に、怜司はなお戦うために桜に指示をしようとするが、女剣士が歴戦の傭兵としての声で拒絶する。
苦々しい表情を浮かべる怜司だったが、桜が断言した以上、従う他なかった。
「さっきの会話の意味、あとで聞かせてもらうからな……!」
「好きにしろ。今は撤退が先だ」
怜司が蒼麻に肩を貸して、三人は草原を立ち去っていく。最後に一度だけ、桜は悠司へと振り返る。
そのまま何も言わず、彼らは姿を消した。
「全く、本当に馬鹿げた判断をしたものだ、昔の俺は」
「ええ、全く」
「──え?」
悠司の自嘲する独り言に、何故か女の声が返ってきた。
悠司が振り返った先にいたのは天使の翼を広げた修道女──エヴァだった。
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